第5話 優しすぎる剣
「前原昇」
ヴィザが一歩前へ出る。
その瞬間だった。
地下施設を満たしていた瘴気が揺らぐ。
まるで天敵を前にした獣のように。
白銀の甲冑が淡く輝いている。
いや。
甲冑ではない。
ヴィザそのものが光を放っていた。
「ヴァチカンの命により貴様を討伐する」
静かな宣告だった。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ裁定だけがあった。
前原昇は笑う。
口元が大きく吊り上がる。
「拒否する」
その言葉と同時に。
異形の四足が低く唸った。
ゴリ、と白骨の脚が床を削る。
黒紫の炎が揺れる。
死の気配が地下施設を満たした。
だが。
ヴィザは微動だにしない。
その蒼い瞳はただ真っ直ぐ前原昇だけを見据えていた。
その時だった。
エンドの視線が黎明騎士団へ向く。
白銀の騎士達。
純白の外套。
眩いほどの聖光。
その姿は。
かつて病室で本を読みながら憧れた騎士そのものだった。
魔王を討つ英雄。
人々を守る剣。
世界を照らす光。
死んで。
怪物になって。
人間ではなくなった今でも。
あの憧れだけは消えていなかった。
胸の奥のどこかに。
確かに残っていた。
だが。
同時に理解していた。
今の自分にとって。
彼らは救いではない。
天敵だ。
騎士達の纏う聖力が皮膚を焼く。
まるで真昼の太陽の下へ放り出された吸血鬼のように。
身体の奥が悲鳴を上げる。
本能が逃げろと叫んでいた。
特に。
二人。
二人だけが異常だった。
ヴィザ。
人類最強の聖騎士。
その存在は太陽そのものだった。
膨大な聖力が肉体の内側から溢れている。
見ているだけで目が焼けそうだった。
そして。
もう一人。
ヴィザの後方に立つ銀髪の少女。
セレナ。
彼女を見た瞬間。
エンドの背筋に寒気が走った。
ヴィザが太陽なら。
セレナは違う。
太陽を凝縮した存在だった。
莫大な聖力。
極限まで圧縮された光。
静かだ。
あまりにも静かだった。
だからこそ恐ろしい。
まるで鞘に収まった聖剣。
解き放たれた瞬間、全てを焼き尽くすことが分かる。
エンドは思わず息を呑んだ。
今の自分では勝てない。
本能だけで理解できた。
その時。
ヴィザの視線が僅かに動く。
前原昇の奥。
魔法陣の中心に立つエンドを見た。
一瞬だった。
だが。
その一瞬で全てを見抜いたようだった。
ヴィザの瞳が細められる。
「なるほど」
静かな声だった。
「禁忌の中でも最悪の領域へ踏み込みましたか」
前原昇は笑う。
ヴィザは続けた。
「死者蘇生」
「死体への魂の定着」
「アンデッド化」
地下施設へ重い声が響く。
「それだけでも万死に値する」
そして。
ヴィザの瞳が前原昇を射抜いた。
「それを自らの器にしようとはな」
空気が凍る。
ヴィザはゆっくりと剣へ手を添えた。
「前原昇」
「貴様は生かしておけない」
ヴィザが白銀の長剣を抜いた瞬間、施設内の空気が物理的に震えた。
「――断罪の刻だ」
その言葉が合図だった。
ヴィザが踏み込む。
床が砕ける。
白銀の閃光が弾丸のように直進した。
「遅い!」
前原昇が咆哮する。
白骨の馬脚で床を蹴り砕き、異形の巨体が横薙ぎに加速した。
黒紫の炎を纏った刀が、一直線に迫る銀光を迎え撃つ。
――カァァンッ!!
凄まじい金属音が地下施設全体を揺らした。
火花が夜空の星のように飛び散る。
衝撃波だけで周囲の培養槽が次々と砕け散った。
緑色の液体が滝のように溢れ出し、床を汚泥のように染め上げていく。
ガラス片が吹き荒れた。
異形の肉片が舞った。
それでも二人は止まらない。
英雄と怪物。
人類最強と禁忌の到達者。
その激突は、もはや戦いではなく災害だった。
「――殲滅!」
ライアンが咆哮する。
全身から聖光が噴き上がった。
巨大な大剣を振り上げる。
その一撃は空気を裂き、白い軌跡を残しながら振り下ろされた。
だが。
前原は見向きもしない。
刀を一振りしただけだった。
黒い瘴気が刃となって奔る。
それは空間そのものを切り裂くような禍々しい斬撃だった。
白と黒が衝突する。
轟音。
爆発。
そしてライアンの一撃は空中で霧散した。
「どけェッ!! 雑魚がァッ!!」
前原が吠える。
刀身から黒紫の炎が噴き上がった。
それは炎というより津波だった。
死そのものが形を持ったような瘴気の奔流。
地下施設を埋め尽くす勢いで騎士達へ襲い掛かる。
ライアンが歯を食いしばる。
イレーネが即座に前へ出た。
「皆、下がって!」
両手を掲げる。
無数の聖紋が展開された。
幾重にも重なる光の障壁。
神殿の壁のように荘厳な光が騎士達の前へ立ち塞がる。
直後。
黒炎が激突した。
轟音。
光が軋む。
障壁の表面を瘴気が這い回った。
まるで生きた蛇の群れだった。
聖光を喰らいながら侵食していく。
「っ……!」
イレーネの顔色が変わる。
額に汗が滲んだ。
腕が震える。
障壁の向こうから伝わる圧力は尋常ではない。
「この瘴気……!」
歯を食いしばる。
神官ですら滅多に扱えない高位の浄化術を流し込みながら叫んだ。
「ただの魔術じゃない!」
「魂を侵食する毒よ!」
その言葉に騎士達の表情が変わった。
瘴気が触れた床は腐り落ちている。
鉄は錆びる。
石は崩れる。
まるで存在そのものを死へ近付ける呪いだった。
戦場は既に混沌へ沈んでいた。
砕けた培養槽。
溢れ出す液体。
散乱する死体。
そして。
解き放たれた失敗作達。
肉塊。
異形。
怪物。
前原昇が積み上げてきた七十二の失敗。
その残骸達が、一斉に騎士達へ牙を剥いた。
咆哮が響く。
骨が鳴る。
肉が裂ける。
人だった頃の面影など残っていない。
ただ生存本能だけが暴走した怪物達。
その群れが濁流のように押し寄せる。
「ッ、来るぞ!」
だが。
だが。
その戦場の中で。
ただ一人だけ、戦いの流れから取り残されている者がいた。
セレナだった。
周囲では剣が閃く。
聖光が爆ぜる。
瘴気が荒れ狂う。
騎士達は命を懸けて戦っていた。
ライアンは怪物を斬り伏せる度に前へ進み。
イレーネは崩れかけた戦線を支え続け。
ヴィザと前原昇は、地下施設そのものを崩壊させかねない激突を繰り返している。
誰も迷っていない。
誰も躊躇っていない。
この場にいる全員が、自分の役目を理解していた。
戦場は既に崩壊していた。
聖光が炸裂する度に地下施設が揺れ、砕けた培養槽から流れ出した液体が床を濁らせる。
怪物達の咆哮と騎士達の怒号が入り乱れ、飛び散った血と肉片が視界を赤黒く染めていた。
誰もが戦っていた。
ライアンは大剣を振るう度に異形を吹き飛ばし、イレーネは浄化の光で戦線を支え続けている。
ヴィザと前原昇の激突に至っては戦闘という言葉では足りず、まるで二つの災害が正面からぶつかり合っているようだった。
そんな地獄の中心で。
セレナだけが立ち止まっていた。
目の前にいるのは培養槽から解き放たれた失敗作。
骨が皮膚を突き破り、異様に肥大化した腕を振り回しながら唸り声を上げている。顔面は半ば溶け落ち、人間だった頃の面影などほとんど残っていない。
誰が見ても怪物だった。
本来なら迷う理由などない。
騎士として剣を振るい、その首を落とせば終わる話だ。
実際、セレナの実力なら容易かった。
腕を斬り落とすこともできる。
脚を断ち切ることもできる。
戦う力を奪うことなど呼吸をするより簡単だ。
それでも最後の一線だけが越えられない。
首を落とす瞬間。
心臓を貫く瞬間。
どうしても剣先が鈍る。
なぜなら彼女には見えてしまうからだ。
醜く歪んだ肉体の奥に。
怪物へ変わり果てたその姿の奥に。
かつて人だったものが。
泣いていた誰かが。
笑っていた誰かが。
確かに存在していたように見えてしまう。
この異形も元は人間だった。
誰かの息子であり、娘であり、友であり、家族だったはずだ。
普通に朝を迎え、普通に食卓を囲み、普通に明日を信じて生きていたはずの人生を、前原昇は実験材料として踏みにじった。
未来を奪われた。
尊厳を奪われた。
人としての姿すら奪われた。
ならば目の前にいるのは敵なのか。
それとも被害者なのか。
その問いに答えを出せないまま、セレナの剣だけが宙に止まり続けていた。
騎士は民を守る存在だ。
幼い頃からそう教えられてきた。
弱き者を救い、苦しむ者へ手を差し伸べるために剣を握るのだと。
ならば。
今、目の前で苦しみ続けている彼らは何なのだろう。
救うべき民ではないのか。
もしこの首を落とせば、それは怪物を討ったことになるのか。
それとも救われるはずだった誰かを、自分の手で殺すことになるのか。
その迷いは鎖だった。
鋼より重く。
呪いより強く。
セレナの両腕に絡み付き、剣を振るうことを許さない。
その時だった。
床を這う音が聞こえた。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
脚を失った異形が血の跡を引きながら進んでいる。
腐った肉を引きずり、砕けた骨を擦りながら、それでもなお必死に前へ進んでいた。
そして。
潰れた喉が震える。
「……た……す……け……」
掠れた声だった。
本当にそう言ったのかは分からない。
断末魔だったのかもしれない。
意味のない音だったのかもしれない。
それでもセレナにはそう聞こえてしまった。
助けて。
苦しい。
救ってほしい。
そんな悲鳴に聞こえてしまった。
だから剣が止まる。
完全に。
致命的なほどに。
その瞬間だった。
「セレナァァァァッ!!」
怒号が戦場を裂いた。
白い閃光が横殴りに走る。
ライアンだった。
聖光を纏った巨体が砲弾のような勢いで怪物の群れへ突っ込み、大剣を薙ぎ払う。
轟音。
血飛沫。
肉片。
数体の異形がまとめて両断され、その残骸が床へ叩き付けられた。
圧倒的だった。
そこに迷いはない。
一片の躊躇もない。
救えないものを斬る覚悟だけがあった。
「何してやがる!!」
ライアンの顔は怒りで歪んでいた。
だがそれは単純な怒りではない。
恐怖だった。
焦りだった。
仲間を失うかもしれないという恐怖だった。
「見ろ!!」
大剣が再び唸る。
異形が斬り伏せられる。
また一体。
また一体。
容赦なく。
確実に。
「こいつらはもう終わってんだよ!!」
怒声が地下施設に響く。
「助けられる段階なんか、とっくに過ぎてる!!」
ライアンはセレナを突き飛ばした。
直後。
彼女の背後へ飛び掛かった異形の首が宙を舞う。
あと一瞬遅ければ。
床を転がっていたのは怪物の首ではない。
セレナの首だった。
「どけ」
低い声だった。
怒りを押し殺した声だった。
だがその奥にある感情を、セレナは理解してしまった。
ライアンは怒っているのではない。
怖かったのだ。
仲間が死ぬことが。
自分の目の前で失われることが。
「お前は今、自分だけじゃなく、皆を殺そうとしてる」
その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。
セレナは何も言えなかった。
反論できなかった。
ライアンは正しい。
騎士としても。
戦士としても。
圧倒的に正しい。
それでもなお。
床へ転がる異形達を見るたびに。
助けを求めていたあの声が、耳の奥から離れてくれなかった。
白銀の剣と黒炎の刀が激突する度に、地下施設は悲鳴を上げるように軋んでいた。
崩れ落ちる天井。
吹き荒れる衝撃波。
砕け散る培養槽。
普通なら他人を見る余裕などない。
それほどまでに激しい戦いだった。
だが、それでもヴィザの意識の一部は前原昇ではなく、その遥か後方で立ち尽くす銀髪の少女へ向けられていた。
セレナ。
異形を前に剣を止める少女。
助けを求める声に迷う少女。
その姿は、あまりにも昔の自分によく似ていた。
かつてのヴィザもまた、全てを救えると信じていた。
剣とは人を守るためのものだと思っていた。
強くなればなるほど守れる命は増え、いつか誰一人取り零さずに済む日が来るのだと、本気で信じていた。
泣いている者がいれば手を差し伸べた。
苦しんでいる者がいれば救おうとした。
敵も味方も関係なく、人が死ぬことそのものを嫌った。
それが正しい騎士の姿だと思っていたからだ。
だが現実は違った。
一人を救うために百人を危険へ晒すこともある。
目の前の命を見捨てられなかった結果、守るべき街が滅ぶこともある。
誰も切り捨てたくないという願いは美しい。
だが、その願いを貫こうとする者ほど最後には多くを失う。
世界とはそういう場所だった。
だから英雄は選ばなければならない。
救う命を。
見捨てる命を。
自らの意思で。
自らの責任で。
そして、その決断によって生まれる後悔を、一生背負い続けなければならない。
ヴィザはそれを知っていた。
知り過ぎるほど知っていた。
だからこそ分かる。
今セレナを苦しめている迷いがどれほど残酷なものなのか。
あの少女が今立っている場所が、英雄への入り口であり、同時に地獄への入り口でもあることを。
「……やはり」
ヴィザは呟く。
前原昇の黒炎を斬り裂きながら。
静かに。
どこか寂しそうに。
「セレナは優しすぎる」




