第4話 七十三番目
地下施設へ連れてこられた時。
最初に目に飛び込んできたのは、無数のガラス容器だった。
天井まで届く巨大な培養槽。
淡い緑色の液体が揺れている。
その中に浮かぶ影を見た瞬間、僕は足を止めた。
人だった。
いや。
人だったものだ。
ある槽の中には腕が異様に膨れ上がった少年が浮いていた。
別の槽には全身を蔦に覆われた少女がいる。
胸を貫いて樹木が生え、その枝葉が液体の中でゆらゆらと揺れていた。
また別の槽には顔面だけを残し、身体のほとんどが肉塊へ変わった何かが沈んでいる。
どれも目を閉じていた。
生きているのか。
死んでいるのか。
僕には分からない。
だが、一つだけ理解できることがあった。
――ここは地獄だ。
思わず後ずさる。
その瞬間。
「美しいだろう」
後ろから声がした。
前原昇だった。
老人はゆっくりと培養槽の間を歩く。
その足取りは穏やかだった。
まるで花畑でも散歩しているかのように。
「001番」
老人の手がガラスへ触れる。
「魔力への適応は完璧だった」
「肉体が耐えられなかったがな」
コン、と軽く叩く。
ガラスの向こうで液体が揺れた。
「こいつは惜しかった」
その声に後悔はない。
本当に。
ただ壊れた道具を惜しむ職人のようだった。
老人は次の培養槽へ歩く。
「028番」
「精神だけが先に完成した」
「目覚めた瞬間、自分で頭を潰して死んだ」
そして笑う。
まるで面白い失敗談でも語るみたいに。
僕の背筋を冷たいものが這い上がった。
この人はおかしい。
今さらだった。
ずっとおかしかった。
けれど今。
ようやく理解した。
この人は命を命として見ていない。
人間を材料としてしか見ていない。
72人。
ここに並ぶ全員が。
この老人にとっては失敗した実験結果でしかないのだ。
老人が笑った。
口元がゆっくりと吊り上がる。
それは喜びだった。
長年追い求めていた夢が、ようやく手の届く場所まで来た人間の笑みだった。
だが、その笑顔を見た瞬間。
僕の背筋を冷たいものが走った。
本能が告げている。
逃げろ、と。
この先へ進んではいけない、と。
けれど身体は動かなかった。
老人の瞳が僕を見ている。
その瞳には慈愛も温もりもない。
ただ狂気だけがあった。
「エンド」
老人が一歩前へ出る。
地下施設の薄暗い光が、その顔へ不気味な影を落としていた。
「お前にはな」
その声は静かだった。
だからこそ恐ろしい。
叫びでもない。
怒声でもない。
ただ確信だけが込められていた。
「王の器として完成してもらう」
次の瞬間だった。
ゴォォォォ――――ッ!!
足元の床が赤黒く発光する。
巨大な紋様が浮かび上がった。
幾重にも重なる円環。
見たこともない文字。
絡み合う線。
それらが蜘蛛の巣のように広がり、僕を中心として床一面を埋め尽くしていく。
六芒星。
その中心に僕は立っていた。
「なっ――」
声を上げようとして。
身体が動かないことに気付く。
指一本動かない。
呼吸だけがかろうじて許されていた。
魔法陣は脈打つように明滅する。
ドクン。
ドクン。
まるで巨大な心臓だった。
その鼓動に合わせるように、施設中の培養槽が震え始める。
液体が揺れる。
ガラスが軋む。
そして。
僕は見た。
培養槽の中に浮かぶ失敗作達が。
全員こちらを向いていることに。
閉じられていた瞳が開いていた。
濁った瞳。
壊れた瞳。
死んでいるはずの目。
その全てが僕を見ている。
まるで何かを訴えるように。
まるで何かを警告するように。
ゾッとした。
寒気が全身を駆け巡る。
だが老人だけは笑っていた。
まるで神へ祈りを捧げる信徒のように。
両手を広げ。
恍惚とした表情で。
「そうだ」
老人が呟く。
「これだ」
「ようやくだ」
震える声。
歓喜に満ちた声。
「七十二人の失敗作が届かなかった場所へ――お前が辿り着く」
その瞬間。
魔法陣が眩い光を放った。
何かが僕の中へ流れ込んでくる。
いや。
流れ込んでいるんじゃない。
僕の中にあった何かが押し潰されている。
意識の奥へ。
もっと深く。
もっと暗い場所へ。
無理やり沈められていく。
全身が痙攣した。
指が曲がる。
骨が軋む。
皮膚の下で何かが蠢いている。
六芒星の魔法陣は脈打つように輝きを増していた。
赤黒い光が床を這い回り、まるで生き物のように僕の身体へ絡みついてくる。
培養槽の液体が激しく揺れた。
ガラスが震える。
施設全体が唸り声を上げているようだった。
その中心にいるのは僕だった。
「そうだ……」
声が聞こえる。
前原昇だった。
老人は魔法陣の外で両腕を広げていた。
まるで神へ祈りを捧げる信徒のように。
その顔は歪んでいた。
歓喜で。
興奮で。
長年追い求めた夢を目前にした狂人の笑みで。
「見える……!」
老人の肩が震える。
瞳は大きく見開かれ。
その視線は僕ではなく、その先を見ていた。
「あと少しだ……!」
「あと少しで届く!」
何に。
どこへ。
そんなことは分からない。
だが老人には見えている。
誰も辿り着いたことのない場所が。
誰も成し遂げられなかった未来が。
その確信だけが声から伝わってきた。
「七十二回……」
老人が呟く。
「七十二回失敗した」
笑う。
壊れたように。
「だが無駄ではなかった!」
ドンッ――!!
魔法陣の光が爆発的に膨れ上がる。
僕の身体が跳ねた。
骨の奥へ何かが突き刺さる。
魂そのものを抉られるような激痛。
視界が白く染まる。
それでも老人の声だけは聞こえた。
「そうだ!」
「それを受け入れろ!」
「喰らえ!」
「取り込め!」
まるで我が子の誕生を見守る父親だった。
だが違う。
そこに愛情なんてなかった。
あるのは狂気だけだ。
研究への執着。
進化への渇望。
人類を超えた何かを生み出したいという願望。
その全てが混ざり合い、老人を突き動かしていた。
「エンド!!」
老人が叫ぶ。
初めて名前を呼ばれた気がした。
「お前は儂の最高傑作だ!!」
歓喜に満ちた声だった。
その言葉と同時に。
僕の中へ、さらに膨大な何かが流れ込んできた。
『緊急。侵入者を検知』
突如、施設中へ無機質な声が響き渡った。
赤い警告灯が明滅する。
培養槽のガラスが赤く染まり、薄暗かった地下施設を不気味な色へ塗り替えていく。
前原昇の眉が僅かに動いた。
「……こんな時に来やがったか」
吐き捨てるような声だった。
その目には明らかな苛立ちが浮かんでいる。
百年追い続けた悲願。
ようやく手が届こうとしている瞬間だった。
邪魔をされて機嫌が良いはずがない。
「まさか黎明騎士団じゃねぇだろうな」
老人は小さく舌打ちした。
だが次の瞬間には笑っていた。
口元が歪む。
狂気を孕んだ笑みだった。
「……まぁいい」
「だったら殺すだけだ」
ドクン――
空気が震えた。
老人の身体から黒紫色の瘴気が溢れ出す。
濃密な死の気配だった。
それは煙のように広がりながら老人の肉体へ絡みつき、ゆっくりとその姿を変えていく。
骨が鳴る。
肉が軋む。
背骨が捻じれ、身体が膨れ上がった。
やがて瘴気が晴れた時。
そこに立っていたのは人ではなかった。
異形だった。
上半身だけを見れば、痩せ細った老人の剣士に見える。
禿げ上がった頭部。
深く刻まれた皺。
鋭く細められた双眸。
長い年月を剣と共に生きてきたことが一目で分かる風貌だった。
だが、その下は人ではない。
老人の腰から先には白骨化した馬の身体が繋がっていた。
皮膚も肉も存在しない。
剥き出しの骨だけで構成された四本の脚が地面を踏みしめる度、乾いた音が地下施設へ響く。
背後では血のように赤い尾が蛇のように揺れていた。
さらに黒紫の炎が輪となって周囲を漂う。
その炎は熱を持たない。
むしろ周囲の温度を奪い去るような冷気を放っていた。
老人は腰の刀へ手を添える。
静かだった。
あまりにも静かだった。
派手な殺気はない。
威圧感もない。
だが理解できる。
この存在は生者の世界にいてはならない。
まるで死そのものが剣士の姿を借りて現れたかのような怪物だった。
その時だった。
地下施設の巨大な扉が轟音と共に吹き飛ぶ。
爆風が吹き荒れる。
砂煙の向こうから現れたのは白銀の騎士達だった。
純白の外套。
輝く甲冑。
全身を包む神聖な光。
彼らが踏み込んだ瞬間、施設を満たしていた瘴気が押し返される。
まるで闇の中へ太陽が差し込んだようだった。
先頭に立つ老人が静かに一歩前へ出る。
白髪。
白銀の甲冑。
老いてなお衰えぬ英雄の風格。
ヴィザだった。
人類最強の聖騎士。
黎明騎士団第一席。
その蒼い瞳が異形の老人を見据える。
「異端者、前原昇」
静かな声だった。
だが地下施設全体を震わせるほどの重みがあった。
「確認した」
その瞬間。
怪物と英雄。
二人の視線が真正面からぶつかった。




