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夜は揺り籠の上に立つ  作者: you
夜が始まる場所で
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第2話 黎明に背を向けて

 僕は、三日三晩、森をさまよい続けていた。


 ただし、そこは本物の森ではない。


 地下深くに造られた第七実験区画。


 天井には偽物の月が浮かび、湿った土も、黒い木々も、霧さえも人工的に再現されている。


 一見すればどこにでもある夜の森だった。


 だが、その全ては人の手によって造られた偽物だ。


 失われた大陸の環境を模倣した、魔物飼育用の箱庭。


 老人はそこへ僕を放り込んだ。


 武器もなく。


 水もなく。


 逃げ道もなく。


 ただ一言だけを残して。


「生き残れ。進化しろ」


 ……空腹も、痛みも、もはや感覚ではなかった。


 三日も生き延びていれば、とっくに限界を迎えているはずだった。


 病弱だった頃の僕なら半日だって耐えられない。


 熱を出して倒れ、ベッドから起き上がることすら出来なくなっていたはずだ。


 けれど今の僕は違う。


 傷だらけの身体を引きずりながら、それでも歩き続けている。


 腹は空いている。


 喉も渇いている。


 身体中が悲鳴を上げている。


 それなのに止まれない。


 まるで身体だけが生存という命令に従い続けているようだった。


 ただ、“戦うためだけ”に存在していた。


 魔物を殺せば、その“存在”が体内に流れ込み、僕の中に吸収される。


 それは血でも肉でもない。


 怒り。


 記憶。


 意思。


 魔そのものが、じわじわと染み込んでくる。


 最初は気のせいだと思った。


 極限状態が見せる幻覚だと。


 だが違う。


 魔物を喰らう度に、見たこともない景色が脳裏をよぎる。


 知らない街。


 知らない言葉。


 知らない誰かの人生。


 それらが自分の記憶であるかのように流れ込んでくるのだ。


 吸収した力は、僕という器の中で混じり合い、やがて“進化”へと変わる。


 だが――


 グールは、人間とは決定的に違っていた。


 人間には「限界」がある。


 どんなに力を振り絞っても、体が壊れぬよう、本能が無意識にブレーキをかける。


 けれど僕には、それがない。


 一度死んだ身体には、守るべき“制限”など残っていない。


 筋繊維が裂けようと、骨が砕けようと、皮膚が剥がれようと――


 それでも拳を振るえる。


 “限界を超えた怪物の力”で、敵を殺せる。


 普通の人間なら、その場で倒れている。


 悲鳴を上げて動けなくなっている。


 それでも僕の身体は止まらない。


 痛みすら置き去りにして動き続ける。


 それは確かに強さだった。


 だが同時に、人間ではなくなった証でもあった。


 ……ただし、致命的な欠点がある。


 遅い。


 グールは鈍い。


 足は重く、動きは鈍重。


 敵の動きは見えている。


 何なら以前の僕より鮮明に見えている。


 だが身体が追いつかない。


 脳が命令を出し終える頃には、敵の牙はもう目の前まで迫っている。


 いかに力があっても、俊敏さに欠けたその身体はアンデッドの中でも最下位だ。


 しかし、「屍鬼しき」に進化できれば、それは変わる。


 流れ込んだ記憶の中で、その名だけが異様な存在感を放っていた。


 屍鬼。


 その存在について詳しいことは分からない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 それは今の僕より遥かに強い怪物だということ。


 けれど――その進化には、代償がある。


 進化の過程で、僕は“僕”を失う。


 積み上げた力。


 喰らった記憶。


 積もった感情。


 それらすべてが、上書きされていく。


 少しずつ。


 静かに。


 確実に――僕が、僕じゃなくなっていく。


 まるで、他人の記憶が泡のように弾け、知らない景色や怒りが“僕の過去”として染み込んでくるようだった。


 見たこともない街並み。


 知らない誰かの絶叫。


 血に染まった戦場。


 月明かりの下で倒れていく人影。


 それらは一瞬で現れて、一瞬で消える。


 夢とも幻覚とも違う。


 確かにそこにあった誰かの人生だった。


 気づけば、自分の声すら、どこか遠くに感じる。


 ⸻


(……怖い)


(……母さん。僕、ほんとはまだ、あの病室で――)


(“また、あの話して”って、笑っていたかっただけなのに)


僕の願いは、誰かを守る騎士になることだった。


 それなのに今の僕は、人を襲う側の存在だ。


 喉が焼けるように乾き、肺の奥が震えた。


 それは空腹ではない。


 もっと根源的な飢えだった。


 身体の奥底で何かが蠢いている。


 喰らえ、と。


 奪え、と。


 殺せ、と。


 もちろん本当に声が聞こえるわけではない。


 だが確かに存在している。


 血の中に。


 骨の中に。


 魂の底に。


 怪物の本能が巣食っていた。


(僕が……本当に、グールになったなんて)


 目を閉じると、あの光景が浮かぶ。


 ――『黎明騎士団』の剣を握り、人々を守る自分の姿。


 病室で何度も夢見た光景だった。


 だが今の僕は違う。


 彼らが守る側ではない。


 彼らが剣を向ける側の存在だった。


(……もう、戦いたくない)


 そのときだった。


 ガサ……。


 茂みの奥で音がした。


 反射的に顔を上げる。


 空気が変わる。


 濃く。


 重く。


 濁った気配が森の中へ広がっていく。


 肌を撫でるように。


 首筋へ刃を当てるように。


 ゆっくりと。


 確実に。


 死の気配が近付いてくる。


(……来た)


 理由はない。


 だが分かる。


 三日間。


 何度も繰り返してきたからだ。


 魔物がいる。


 こちらを見ている。


 そして、その獲物は僕だ。


 霧の向こうで赤い光が揺れた。


 目だった。


 獣のものとは思えないほど濁った赤。


 理性も知性も感じられない。


 ただ飢えだけが詰め込まれた瞳。


 四足の魔物がゆっくりと姿を現す。


 黒い毛皮。


 異様に発達した前脚。


 裂けた口。


 そこから覗く無数の牙。


 狼を悪夢の中で歪めたような姿だった。


 魔物もまた僕を見ている。


 獲物を見る目で。


(……いやだ)


 心の中で呟く。


(戦いたくなんて、ない)


 だが身体は動く。


 老人の命令か。


 怪物の本能か。


 理由は分からない。


 ただ気付けば重心が落ちていた。


 筋肉が緊張する。


 呼吸が整う。


 戦う準備が終わっていた。


 まるで身体そのものが、僕の意思を置き去りにして戦闘を始めようとしているみたいだった。


(認めたくない……)


(認めたくない……!)


(僕がグールだなんて――絶対に認めない!!)


 魔物が地面を蹴った。


 その瞬間、湿った土が爆ぜる。


 黒い巨体が霧を引き裂きながら一直線に迫ってきた。


 速い。


 今まで戦ったどの魔物よりも速かった。


 筋肉の動きは見えている。


 牙がどこを狙っているのかも分かる。


 それなのに身体が追いつかない。


 脳が危険を察知する。


 避けろと命令を下す。


 だが足は重かった。


 鉛でも流し込まれているように重い。


 避けられない。


 そう理解した瞬間、僕は両腕を前へ突き出していた。


 次の瞬間。


 黒い巨体が真正面から激突する。


 ドンッ!!


 凄まじい衝撃だった。


 骨が軋む。


 嫌な感触が腕の奥を走る。


 折れた。


 そう理解するより先に、砕けた骨が肉の中で擦れ合う感覚が伝わってくる。


 普通の人間なら終わりだった。


 悲鳴を上げて倒れ、そのまま喉笛を食い破られている。


 だが。


 それでも腕は動いた。


 折れている。


 砕けている。


 感覚だけで分かる。


 それなのに拳は握られていた。


 筋肉は収縮し続けていた。


 まるで死という現象そのものを拒絶しているように。


 その瞬間、僕は魔物よりも自分自身に恐怖した。


 ああ。


 本当に。


 僕はもう人間じゃないのかもしれない。


 拳を握る。


 魔物も立ち上がろうとしていた。


 腹部は陥没し。


 骨が飛び出し。


 それでも赤い瞳だけは僕を睨み続けている。


 生きようとしている。


 僕と同じように。


 その事実が胸を抉った。


(やめろ……)


 拳が振り上がる。


(やめろ……!)


 それでも止まらない。


 身体は獲物を殺そうとしていた。


(やめろォォォッ!!)


 拳が振り下ろされる。


 バゴンッ!!


 頭蓋が砕ける。


 血が飛び散る。


 温かい液体が顔へ降りかかった。


 だが拳は止まらない。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 骨が砕ける音。


 肉が潰れる音。


 血が弾ける音。


 それらが混ざり合い、森の中へ響き渡る。


 やがて魔物は動かなくなった。


 原形すら残らない肉塊へ変わり果てていた。


 それでも身体は止まらない。


 完全な死を確認するまで許さないとでもいうように、拳は何度も振り下ろされ続けた。


 そして、その瞬間。


 僕の中に“何か”が流れ込んできた。


 冷たい氷水のような気配。


 焼けつくような熱。


 魔物の“存在”が、骨に、血に、意識に染み渡っていく。


 それは――進化の兆しだった。


 だが僕には、それを考える余裕すらなかった。


 なぜなら。


 僕の足はもう次の獲物を探して、森の奥へ歩き出していたからだ。


 ……まるで、意志など最初から存在しなかったかのように。

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