第1話 エンド
「ねぇ、母さん。……“本当に”この話、最後は光が勝ったの?」
「ふふ、また? 本当にこのお話が好きなんだねぇ」
「だって好きなんだもん。――ね、聞かせて?」
病室には消毒薬の匂いが染みついていた。
白い壁も、硬いシーツも、規則正しく鳴り続ける心電図の電子音も、僕にとっては生まれた時からの日常だった。
生まれつき身体が弱かった。
少し歩いただけで息が上がり、熱を出して倒れるのは日常茶飯事。
窓の外を走り回る子供達を眺めながら、一日を終えることも珍しくない。
鏡に映る自分の顔はいつも青白く、唇からは血の気が失われていた。
それでも、僕は騎士になりたかった。
血を吐いても。
腕が動かなくても。
本の中の英雄達みたいに、誰かを守れる強さが欲しかった。
母さんを守れるくらいの、たったそれだけの強さが。
「仕方ないわね。じゃあ少しだけよ」
母は優しく微笑みながら、何度も読み返された物語の本を開いた。
少し擦り切れた表紙。
端の折れたページ。
それは僕が何度も読み聞かせをせがんだ証だった。
「――昔々のこと」
その言葉だけで胸が高鳴った。
何十回も聞いた物語。
それでも一度だって飽きたことはない。
かつて世界は闇に呑まれていた。
魔物。
吸血鬼。
そして魔王。
夜は人々の恐怖そのものであり、日が沈めば誰もが家に閉じこもり、朝が来ることを祈るしかなかった。
村は灰となり。
国は焼かれ。
人類はゆっくりと、しかし確実に滅びへ向かっていた。
そんな絶望の時代に現れたのが、聖なる力を宿した戦士達――『黎明騎士団』だった。
彼らは闇を裂く光の剣を振るい、魔物を討ち、人々に希望を与えた。
城壁が破られた夜も。
十万の魔物が押し寄せた死の戦場でも。
誰一人として剣を捨てず、誰一人として後ろを向かなかった。
だが、魔王だけは違った。
その存在は災厄そのもの。
光を呑み込み。
命を喰らい。
希望すら踏みにじる黒き王。
人類は抗い、祈り、血を流し、叫び続けた。
そして七日七晩の果てに――
たった一人の騎士が、光の剣を高く掲げ、魔王を討った。
世界に夜明けが訪れた。
「『黎明騎士団』かっこいい……!」
思わず声が飛び出した。
母は苦笑しながら本を閉じる。
「興奮しすぎ。今日はもうおしまい」
「えー……」
「寝なさい。明日も体温測るんだから」
「はーい」
僕は毛布を頭まで被った。
瞼が重くなる。
意識がゆっくりと沈んでいく。
その時だった。
「……でもね」
暗闇の中で、母の声が小さく響いた。
眠気の底で耳を傾ける。
「本当に光が勝ったかどうかなんて、誰にもわからないのよ」
不思議な言葉だった。
物語の結末は決まっているはずなのに。
どうしてそんなことを言うのだろう。
「だって――物語の続きを決めるのは、生き残った人間なんだから」
その言葉は、不思議と胸に残った。
まるで物語の話ではなく。
もっと別の何かを語っているような気がしたからだ。
そして。
それが最後に聞いた母の声になった。
⸻
あの日、光は確かに勝ったはずだった。
少なくとも、人々はそう信じた。
魔王は討たれた。
黎明騎士団は英雄となった。
夜明けは訪れ、人類は平和を手にした。
そう歴史には記されている。
だが、本当にそうだったのだろうか。
闇は本当に滅びたのだろうか。
答えを知る者は、もう誰もいない。
なぜなら。
物語の続きを決めるのは、生き残った者だからだ。
そして十八世紀。
太平洋の中心で巨大な大陸が姿を現した。
後に『失われた大陸』と呼ばれる禁忌の地。
そこには人類が神話の中へ追いやったはずの怪物達が息づいていた。
人を喰らう魔物。
夜を支配する吸血鬼。
そして人類史から消えたはずの異形達。
銃弾は通じない。
砲弾を受けても再生する。
人の形をしていながら、人ではない。
文明は初めて知った。
自らより上位に存在する捕食者がいることを。
世界は恐怖した。
だが同時に、人類は希望も手に入れる。
闇に抗うための奇跡。
後に“聖力”と呼ばれる力を。
それから数百年。
蒸気と歯車。
そして聖力。
三つが融合した文明は飛躍的な発展を遂げた。
騎士団は再び組織され、人類は怪物達との戦いを続けた。
だが闇は消えなかった。
ただ形を変え。
より深く。
より静かに。
世界の裏側へ根を張っていただけだった。
⸻
そして現在――
騎士に憧れていた一人の少年が、静かに最期の夜を迎えていた。
窓の外では月が輝いている。
病室は静かだった。
心電図の音だけが、規則正しく鳴り続けている。
少年は眠っていた。
明日もまた目を覚ますと信じて。
いつか騎士になる未来を信じて。
母と交わした約束を信じて。
だが。
その夜。
少年は二度と目を覚まさなかった。
⸻
「――起きろ」
声が聞こえた。
冷たい声だった。
「起きろ」
その瞬間、全身を激痛が貫いた。
凍りついた肺に針を突き刺されたような苦しみ。
血が逆流する。
骨の奥で何かが蠢く。
死んだはずの身体が、無理やり動かされているような感覚だった。
(……母さん)
(……僕は、死んだんじゃ……)
意識が強引に引き上げられる。
目を開けた。
見知らぬ天井だった。
白い病室ではない。
無機質なコンクリート。
薄暗い照明。
薬品と鉄の匂い。
そして微かに混じる血の臭い。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
白衣を纏ったその男の瞳には一切の温度がない。
人を見る目ではなかった。
長年追い求めた研究成果を眺める研究者の目。
ようやく完成した作品を見つめる狂人の目だった。
「成功したか……」
老人は小さく呟いた。
「七十三体目にして、ようやく……」
背筋が凍る。
七十三。
その数字だけで十分だった。
この老人が何をしてきたのか。
そのために何人死んだのか。
想像したくもなかった。
老人はゆっくりと近づいてくる。
その顔に浮かんでいたのは歓喜だった。
長い年月を費やし、血と屍の山を越えて辿り着いた者だけが浮かべる歓喜。
「お前の名前はエンドだ」
知らない名前だった。
だが不思議と否定できなかった。
胸の奥に刻み込まれている。
まるで最初から、その名で呼ばれていたかのように。
「世界の終わりに生まれた、始まりの器」
老人の口元がゆっくりと歪む。
「安心しろ」
その声は優しかった。
優しいはずなのに恐ろしかった。
底知れない狂気が、その言葉の奥に潜んでいた。
「お前は最高傑作だ」
老人は笑う。
心の底から嬉しそうに。
心の底から愉しそうに。
「儂が王にしてやる」
その瞬間、本能が理解した。
この男は狂っている。
完全に。
救いようもなく。
そして自分は今、その狂気によって蘇らされたのだと。
⸻
後になって知ることになる。
母が語ってくれた英雄譚が、ただの昔話ではなかったことを。
世界が信じる歴史の全てが真実ではなかったことを。
そして――。
世界が恐れる“夜の王”が。
他の誰でもない、自分自身だったことを。
――この時の僕は、まだ何も知らなかった。
だからこそ。
僕はその一歩を踏み出してしまった。
夜の底へ。
さらに深い、夜の底へ。
この老人が何者なのか。
何を望み、
何を創ろうとしていたのか。
そして。
彼が僕に託そうとしていた“夜”の意味を。
――その時の僕は、まだ知らない。
これは、
“夜の王”と呼ばれることになる少年が、
最後まで人間であろうとした物語。
闇を抱きながら、
誰かの手を離せなかった少年の。
孤独と赦しの物語だ。




