第17話 苺ミルクの味
古書店を出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間の熱気が少しだけ薄れた東京の街は、昼とは違う顔を見せている。
ネオンの光。
コンビニの看板。
遠くを走る車のヘッドライト。
人の姿は昼より少ないが、それでも街は生きていた。
信号機の電子音が鳴る。
誰かの笑い声が聞こえる。
どこかの居酒屋から漂う焼き物の匂いが風に乗って流れてきた。
ひよりは店を出たところで立ち止まっていた。
まるで初めて見る景色みたいに。
いや、実際に見たことはあるのだろう。
Yumeへ来る時も外は歩いている。
柚葉と一緒に買い物へ出たことだってあるはずだ。
それでも今日の景色は違った。
誰かに連れられて移動するための外出じゃない。
帰る場所へ向かうための道でもない。
ただ歩くためだけに外へ出た。
それが彼女には特別だった。
「……すごい」
ぽつりと呟く。
小さな声だった。
けれど、その瞳は街の灯りを映してきらきらと輝いていた。
「何が?」
僕が聞くと。
ひよりは少し考えてから言った。
「なんか……全部」
その答えに思わず笑ってしまう。
全部。
そんな曖昧な感想なのに、不思議と分かる気がした。
街も。
人も。
音も。
空気も。
彼女にとっては全部が新鮮なのだ。
「ガキだなぁ」
真白が呆れたように言う。
けれど、その顔は少し笑っていた。
「うるさい」
ひよりが頬を膨らませる。
「真白お姉ちゃんだって最初は同じだったもん」
「私はそんなキョロキョロしてねぇ」
「してた」
「してない」
「してた」
柚葉が小さく吹き出した。
そのやり取りだけで、どこか家族みたいな空気になる。
しばらく歩くとコンビニが見えてきた。
白い灯りが夜道を照らしている。
「入る?」
僕が聞くと。
ひよりは少し緊張したような顔をした。
「いいの?」
「別に禁止されてないだろ」
そう言うと。
彼女は少しだけ嬉しそうに頷いた。
自動ドアが開く。
冷たい空気が流れてくる。
商品が並ぶ棚。
雑誌コーナー。
お菓子。
飲み物。
どこにでもあるコンビニだ。
けれど、ひよりは店に入った瞬間から落ち着かなかった。
棚を見て。
雑誌を見て。
レジを見て。
また違う棚を見る。
完全に観光客だった。
「落ち着け」
真白が呆れる。
「だっていっぱいある」
「コンビニだからな」
「すごい」
感動している。
本当に感動している。
たぶん商品を見ているんじゃない。
こうして友達と一緒に店の中を歩いていること自体が楽しいのだ。
やがて飲み物コーナーへ辿り着く。
ひよりは透明な扉の向こうをじっと見つめた。
色とりどりの飲み物が並んでいる。
苺ミルク。
炭酸飲料。
スポーツドリンク。
コーヒー。
紅茶。
人間なら好きなものを選ぶだけだ。
だけど。
吸血鬼にとって、それらは少し違う意味を持つ。
「何か買う?」
僕が聞く。
ひよりは少し悩んでいた。
真剣だった。
まるで人生を左右する選択でもしているみたいに。
やがて一本の苺ミルクを手に取る。
「これ」
「好きなの?」
そう聞くと。
ひよりは少し困ったように笑った。
「分からない」
「え?」
「飲んでも味しないから」
当たり前みたいに言う。
その言葉に僕は少しだけ言葉を失った。
そうだった。
吸血鬼は血以外のものをまともに味わえない。
どれだけ甘い物も。
高級な料理も。
彼女達には意味がない。
「じゃあなんでそれ選んだんだ?」
ひよりは苺ミルクを見つめる。
そして少し照れたように笑った。
「……みんな飲んでるから」
たった一言だった。
だけど。
その一言の方がずっと重かった。
味が好きだからじゃない。
飲みたいからでもない。
ただ。
みんながやっていることを、一度やってみたかったのだ。
放課後に友達とコンビニへ寄って。
飲み物を買って。
歩きながら飲む。
そんな当たり前のことを。
ひよりはずっと知らなかったのだから。
結局。
ひよりは苺ミルクを買った。
真白は缶コーヒー。
柚葉は温かいミルクティー。
僕はスポーツドリンクを手に取る。
たったそれだけの買い物だった。
けれど、ひよりにとっては違ったらしい。
レジへ向かう途中も落ち着きなく店内を見回している。
ホットスナックのケース。
雑誌コーナー。
アイス売り場。
レジ横のくじ引き。
何を見るにも楽しそうだった。
レジを抜ける。
自動ドアが開き、再び夜風が頬を撫でた。
コンビニの明かりが背中に遠ざかっていく。
ひよりは両手で苺ミルクを抱えていた。
まるで宝物みたいに。
「飲まないのか?」
僕が聞く。
ひよりは少し考えてからストローを刺した。
そして。
一口だけ飲む。
ごくり。
小さく喉が動く。
数秒。
沈黙。
「どう?」
ひよりは真顔だった。
「……まずい」
「だろうな」
真白が即答する。
「いや」
ひよりは首を傾げた。
「まずいっていうか……」
言葉を探すように考える。
「泥水みたい」
「吸血鬼にとってはそんなもんだ」
真白は缶コーヒーを開ける。
ぷしゅっ、と小さな音が鳴った。
「血以外は基本的に終わってる」
「これみんな美味しいって飲んでるの?」
「人間はな」
「信じられない……」
本気で言っている。
その顔が面白くて思わず笑ってしまった。
ひよりはもう一口飲む。
やっぱり顔をしかめた。
「まずい」
「だからやめとけって」
「でも」
ひよりは苺ミルクを見下ろす。
そして小さく呟いた。
「なんか捨てたくない」
その言葉に。
誰もすぐには返事をしなかった。
味が好きだからじゃない。
美味しいからでもない。
たぶん。
これは苺ミルクじゃない。
友達とコンビニで買った飲み物なのだ。
ひよりが欲しかったのは中身じゃない。
この時間そのものだった。
だから手放したくない。
そんな気がした。
夜道を歩く。
街灯が一定間隔で並び、住宅街を淡く照らしている。
遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
どこかの家からテレビの音も漏れている。
夕飯時なのだろう。
窓の向こうには暖かな灯りがともっていた。
ひよりが不意に足を止める。
視線の先。
一軒の家だった。
どこにでもある普通の家。
カーテン越しに見える人影は三つ。
食卓を囲んでいるらしい。
誰かが笑い。
誰かが話し。
誰かが頷く。
そんな当たり前の光景。
だけど。
ひよりはじっと見つめていた。
何も言わず。
ただ静かに。
その灯りを目に焼き付けるように。
僕は病院の窓を思い出した。
夜になると向かいのマンションに灯りがともる。
家族が夕飯を食べている部屋。
子供が走り回る部屋。
テレビを見ながら笑う部屋。
僕はベッドの上からそれを眺めていた。
自分とは関係のない世界だと思いながら。
だから分かる。
ひよりが見ているのは家じゃない。
あの灯りの中にある日常だ。
学校から帰って。
家族と話して。
友達の話をして。
何でもないことで笑う。
そんな当たり前に。
彼女は憧れている。
「……行くぞ」
真白がぽつりと言った。
ぶっきらぼうな声だった。
けれど少しだけ優しい。
ひよりは我に返ったように頷いた。
「うん」
そして再び歩き出す。
その横顔は少しだけ寂しそうで。
少しだけ嬉しそうだった。
やがて公園へ辿り着く。
小さな公園だった。
ブランコが二つ。
滑り台が一つ。
古びたベンチが一つ。
それだけ。
昼間なら子供達で賑わっているのだろう。
今は誰もいない。
夜の静寂だけが広がっていた。
ひよりはブランコを見る。
そして遠慮がちに聞いた。
「乗っていい?」
「好きにしろ」
真白が言う。
「誰もいないしな」
ひよりは少し迷ってから腰を下ろした。
ぎぃ、と鎖が鳴る。
ゆっくり前へ。
そして後ろへ。
ほんの少し揺れるだけ。
高く漕ぐわけでもない。
はしゃぐわけでもない。
それなのに。
ひよりは楽しそうだった。
夜風を受けながら。
黒髪を揺らしながら。
静かに笑っている。
その姿を見ていると胸の奥が少し苦しくなる。
たぶん普通の子供なら覚えていない時間だ。
コンビニで飲み物を買うことも。
夜の公園も。
ブランコも。
当たり前すぎて記憶にも残らない。
だけど。
ひよりには違う。
彼女はきっとこの夜を覚えている。
何年経っても。
何十年経っても。
友達と初めて寄り道をした夜として。
「……ガキだな」
真白がぼそりと呟く。
けれど。
その顔は少し笑っていた。
柚葉も微笑んでいる。
娘を見る目はどこまでも優しかった。
夜風が吹く。
ブランコが揺れる。
鎖が小さく軋む。
その時だった。
「真白お姉ちゃん」
ひよりが不意に声を上げた。
「なんだ」
「今度はもっと遠く行きたい」
真白は少し目を丸くした。
ひよりが自分から何かを望むことは少ない。
だからこそ。
その言葉が嬉しかった。
「どこに」
ひよりは少し考える。
そして。
照れくさそうに笑った。
「水族館」
その答えに。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
ひよりはブランコを降りた。
まだ少しだけ名残惜しそうに振り返る。
揺れはもう止まっていた。
夜風だけが静かに公園を吹き抜けている。
「そろそろ帰るか」
真白が立ち上がった。
「えー」
「文句言うな」
「もうちょっとだけ」
「また今度だ」
真白がそう言うと、ひよりは少しだけ考えてから頷いた。
「……うん」
不思議だった。
前なら「また今度」なんて言葉を信じられなかったはずだ。
けれど今は違う。
本当にまた今度が来る気がしていた。
だから素直に頷けた。
四人は公園を後にする。
街灯に照らされた夜道をゆっくり歩いた。
コンビニの灯り。
住宅街の明かり。
遠くを走る車の音。
どれも少し前と同じ景色なのに、ひよりには違って見えているようだった。
何度も振り返り。
何度も周囲を見回し。
その度に小さく笑っている。
その姿を見ていると、こちらまで少しだけ嬉しくなる。
こんな時間がずっと続けばいい。
ふと、そんなことを思った。
戦いも。
血も。
憎しみも。
全部忘れて。
ただこうして歩いていられたら。
けれど――。
世界はいつだって優しくない。
ぽつり。
頬に冷たい感触が落ちた。
思わず空を見上げる。
黒い雲が広がっていた。
「雨?」
ひよりが呟く。
次の瞬間。
ぽつり。
ぽつり。
ぽつり。
雨粒が夜の街へ降り始める。
最初は小さかった。
けれど、それは次第に数を増していく。
街灯の光に照らされた雨粒が、まるで無数の銀糸のように夜空から降り注いでいた。
誰も言葉を発しない。
ただ雨音だけが静かに響いている。
ひよりは空を見上げていた。
雨が頬を濡らす。
黒髪がしっとりと濡れていく。
それでも彼女は目を逸らさなかった。
まるで何かを感じ取っているように。
まるで何かの終わりを見送っているように。
そして。
誰も知らない。
この夜が終われば。
もう二度と戻れない日々が始まることを。
古書店Yumeで過ごした穏やかな時間も。
笑い合った夜も。
当たり前になりかけていた日常も。
静かに。
確実に。
終わりへ向かい始めていた。
雨は降り続ける。
まるで。
何かの終わりを告げる弔鐘のように。
夜の東京を濡らし続けていた。
ただ。
夜の公園に吹く風だけが、静かに四人の間を通り抜けていった。




