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夜は揺り籠の上に立つ  作者: you
夜を歩く術
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18/27

第18話 生きて

「私、傘取ってくる」


 そう言って真白は踵を返した。


 雨はまだ小降りだった。


 空を見上げれば黒い雲が広がっているが、本降りになるにはもう少し時間がありそうだった。


「すぐ戻るから待ってろ」


 真白はそう言ってひよりの頭を軽く撫でる。


 その仕草はぶっきらぼうだったが、どこか優しかった。


 ひよりは少しだけ不満そうな顔をしながらも頷く。


「早く帰ってきてね」


「はいはい」


 真白は手をひらひら振り、そのままYumeの方へ走っていった。


 雨に濡れたアスファルトを蹴る音が遠ざかっていく。


「お姉ちゃん行っちゃった」


 ひよりがぽつりと呟く。


 少しだけ寂しそうだった。


「すぐ戻るよ」


 僕は空を見上げる。


 雨粒は少しずつ数を増していた。


「向こうで雨宿りしようか」


 商店街のシャッターが下りた店の軒先を指差す。


 ひよりは頷いた。


 柚葉さんも静かに微笑む。


 三人で歩き出した。


 さっきまでの時間の余韻がまだ残っている。


 コンビニ。


 苺ミルク。


 ブランコ。


 ひよりの笑顔。


 どれも小さな出来事だった。


 けれど、そのどれもが妙に温かかった。


 ひよりは両手で苺ミルクを抱えている。


 味なんて分からない。


 飲んでも泥水みたいにしか感じない。


 それでも捨てない。


 それは飲み物じゃなかった。


 今日という日の思い出だった。


 友達とコンビニへ寄った。


 初めて放課後みたいな時間を過ごした。


 その証だった。


「そんなに大事?」


 僕が聞く。


 ひよりは少しだけ照れ臭そうに笑った。


「うん」


 短い返事だった。


 だけど。


 その笑顔だけで十分だった。





 その時だった。


 空気が変わった。


 雨音は同じはずなのに。


 街の景色も変わっていないはずなのに。


 何かがおかしかった。


 背筋を冷たいものが這い上がる。


 吸血鬼になってから覚えた感覚。


 危険。


 死。


 本能が警鐘を鳴らしていた。


 ザァァァァ……。


 雨が強くなる。


 その音に混じって。


 足音が聞こえた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 規則正しい。


 焦りも迷いもない。


 まるで仕事帰りの会社員みたいな足取りだった。


 けれど。


 その音は異様なほど冷たかった。


 人間のものとは思えないほど。


 感情がなかった。


 柚葉の顔から血の気が引く。


 目が大きく見開かれる。


 母親の顔ではない。


 吸血鬼の顔だった。


 生存本能が悲鳴を上げている顔だった。


「……まさか」


 小さな声。


 震えていた。


 そして。


 闇の中から人影が現れる。


 黒いコート。


 雨を浴びながら歩いてくる男。


 その姿はどこにでもいる人間に見えた。


 だからこそ異様だった。


 異常な存在ほど普通の顔をしている。


「間違いない」


 男が言った。


 手にした端末へ視線を落とす。


「母娘の吸血鬼を確認」


 無機質な声だった。


 人間を見る目ではない。


 害虫を見る目だった。


「対象ナンバー89」


 男は淡々と告げる。


「害虫を駆除するよ」


 その瞬間だった。


「ひより――ッ!!」


 柚葉が叫んだ。


 考えるより早かった。


 母親だからだ。


 娘を守ることだけが身体に刻まれていた。


 ひよりを突き飛ばす。


 同時に。


 鎖が飛んだ。


 ザンッ――――!!


 轟音。


 アスファルトが爆ぜる。


 コンクリート片が雨の中へ飛び散った。


 ほんの一瞬前までひよりがいた場所に巨大な亀裂が走る。


 もし柚葉が動かなければ。


 ひよりは死んでいた。


「お母さん!!」


 ひよりの悲鳴。


 柚葉の肩から血が噴き出していた。


 鎖が掠めていた。


 肉が裂け。


 骨が覗いている。


 それでも柚葉は倒れない。


 娘の前に立つ。


 血が溢れる。


 雨に流されるはずの血液が宙へ浮かび上がった。


 赤い盾。


 母親が娘のために作った最後の壁だった。


「逃げて……!!」


 柚葉が叫ぶ。


「ひより!!」


 声が震えている。


 痛みじゃない。


 恐怖でもない。


 娘を失う恐怖だった。


「お願いだから逃げて!!」


「嫌だ!!」


 ひよりが泣きながら叫ぶ。


「お母さん!!」


「逃げなさい!!」


 柚葉が怒鳴る。


 初めて聞く声だった。


 いつも優しい母親が。


 いつも穏やかな母親が。


 泣きながら叫んでいる。


「生きて!!」


 その声が胸を刺した。


 これは戦いじゃない。


 処刑だった。


 圧倒的な暴力だった。


「……害虫のくせに泣かせる親子愛だねぇ」


 根津が笑う。


 その隣で。


 四ノ宮がレヴナントを具現化した。


 巨大な剣。


 人間が扱うには大きすぎる。


 あれは人を殺すためだけに存在している武器だった。


「杭の仕事は情けに流されないことだ」


 そして。


 振り下ろされる。


 ゴッ――――!!


 轟音。


 血の盾が砕け散る。


 真紅の破片が雨の中へ飛び散った。


 だが。


 柚葉は退かなかった。


 吹き飛ばされながらも地面へ爪を立てる。


 アスファルトが削れる。


 肩が砕ける。


 肋骨が折れる。


 それでも前へ出た。


 娘と死の間に立つために。


「逃げて……!!」


 血を吐きながら叫ぶ。


「お願いだから……!!」


「ひよりだけは……!!」


 その姿を見て。


 僕は動けなかった。


 建物の影。


 震える拳。


 噛み締めた歯。


(あれは杭だ)


 G.O.D。


 最悪の相手。


(動いたら終わる)


 正体がバレる。


 全部失う。


 Yumeも。


 中村さんも。


 平穏も。


 全部。


 だけど。


 ひよりの泣き声が耳から離れなかった。


(またかよ……)


 病院の天井が浮かぶ。


 何もできなかった日々。


 守れなかったもの。


 失ったもの。


(また見てるだけかよ……!!)


 何かが切れた。


 理性が。


 打算が。


 全部。


(ひよりちゃんだけでも!!)


 飛び出していた。


 雨を切り裂いて。


 夜を駆け抜けて。


「ひよりちゃん!!」


 抱き上げる。


 軽かった。


 あまりにも軽かった。


「遠藤さん……!?」


「今は何も聞くな!!」


 全力で走る。


 路地裏へ。


 少しでも遠くへ。


 少しでも死から離れるために。


 その時だった。


「ひより!!」


 背後から声が聞こえた。


 柚葉だった。


 ひよりが振り返る。


 僕も振り返った。


 雨の向こう。


 血だらけの母親が立っていた。


 もう限界だった。


 誰が見ても。


 助からない。


 それでも。


 柚葉は娘だけを見ていた。


 その視線が。


 ひよりの手に止まる。


 苺ミルクだった。


 コンビニで買った。


 初めての寄り道の証。


 まだ握り締めていた。


 柚葉は目を見開く。


 そして。


 泣きそうな顔で笑った。


「持ってたんだね」


 ひよりが嗚咽を漏らす。


「初めてのお買い物だったもんね」


 柚葉は覚えていた。


 コンビニで迷っていたことも。


 苺ミルクを選んだことも。


 味が分からないのに嬉しそうだったことも。


 全部。


 全部覚えていた。


「ひより」


 血を吐きながら笑う。


「今日は楽しかった?」


 ひよりは泣いていた。


 涙で視界が滲み、もう母親の姿もはっきりとは見えない。


 それでも分かった。


 お母さんが笑っていることだけは。


 ずっと自分を守ってくれた人が。


 ずっと自分を愛してくれた人が。


 今も最後まで、自分のことだけを考えてくれていることだけは。


 喉が詰まる。


 言葉が出てこない。


 苦しい。


 悲しい。


 嫌だ。


 行かないでほしい。


 死なないでほしい。


 伝えたいことは山ほどあるのに、涙が邪魔をして何も言えなかった。


 だから。


 何度も。


 何度も。


 必死に頷いた。


「楽しかった……!!」


 嗚咽で声が震える。


「すごく……楽しかった!!」


 その答えを聞いて。


 柚葉は安心したように目を細めた。


 ああ。


 良かった。


 本当に良かった。


 この子は今日笑えた。


 普通の女の子みたいに。


 友達と。


 寄り道して。


 笑えた。


 それだけで。


 母親としては十分だった。


「そっか」


 柚葉は微笑む。


「なら良かった」


 四ノ宮がレヴナントを振り上げる。


 死が迫る。


 けれど。


 柚葉はもう恐れていなかった。


 最後に。


 最後にだけ。


 娘へ手を伸ばす。


 届かない。


 届かないけれど。


 それでも伸ばした。


「生きて」


 涙が零れる。


「友達を作って」


「いっぱい笑って」


「いっぱい幸せになって」


 そして。


 母親は笑った。


「愛してるよ」


 ズガァァァァァァッ――――!!!


 轟音。


 夜が揺れる。


 雨が弾ける。


 何かが終わる音がした。


 振り返らなくても分かった。


 もう。


 間に合わなかったのだと。


 雨は降り続いていた。


 まるで。


 一人の母親の死を弔うように。


 静かに。


 冷たく。


 夜の東京を濡らし続けていた。

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