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夜は揺り籠の上に立つ  作者: you
夜を歩く術
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16/27

第16話 小さな冒険

 数日後。


 ひよりは二階の個室で、本を抱きしめるようにして座っていた。


 窓際の椅子。


 午後の柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、古びた木の床を淡く照らしている。


 古書店特有の紙の匂い。


 長い年月を経た本達が放つ、少し甘くて懐かしい匂いだった。


 部屋の中は静かだった。


 聞こえるのは時計の針の音と、ページをめくる小さな音だけ。


 ひよりは夢中になって本を読んでいた。


 僕が貸した本だった。


 少年が仲間達と旅をする物語。


 広い海を渡り。


 知らない街を歩き。


 たくさんの人と出会いながら成長していく話。


 剣も魔法も出てこない。


 世界を救う勇者もいない。


 だけど不思議と心に残る物語だった。


 ひよりはその本を気に入っていた。


 一度読み終えたあとも最初から読み返し、気付けば何度もページをめくっている。


 物語の結末を知っているはずなのに、それでも読むのをやめられないらしかった。


 そして今。


 ひよりは最後のページへ辿り着いていた。


 小さな指先がゆっくりと紙をめくる。


 物語が終わる。


 主人公達の旅が終わる。


 けれど、ひよりはすぐに本を閉じなかった。


 最後の一文を何度も見つめている。


 まるで別れを惜しむように。


 やがて。


 静かに本を閉じる。


 そしてその表紙を、そっと撫でた。


 名残惜しそうに。


 まるで大切な思い出に触れるみたいに。


「読み終わった?」


 部屋へ入ると、ひよりは驚いたように顔を上げた。


 それから。


 少しだけ笑った。


「うん」


 自然な笑顔だった。


 最初に出会った頃の彼女からは想像できないくらいに。


 人を警戒し、目を合わせることさえ苦手だった少女が、今はこうして僕に笑いかけてくれる。


「面白かった?」


「すごく」


 本を胸に抱き寄せる。


 その仕草だけで十分だった。


 本当に気に入ったのだろう。


「何が好きだった?」


 そう聞くと、ひよりは少し考えた。


 そして窓の外を見る。


「海」


「海?」


「うん」


 小さく頷く。


「あと空」


 窓の向こうでは雲が流れていた。


 夕方が近い。


 空は少しずつ色を変え始めている。


「街も好きだった」


「街?」


「うん」


 ひよりは続けた。


「夜のお祭りとか」


「市場とか」


「みんなで歩いてるところとか」


 少しずつ。


 少しずつ声が小さくなる。


 最後には独り言みたいだった。


「私も行ってみたいな」


 ぽつりと零れた言葉。


 思わず聞き返す。


「どこに?」


 ひよりは少し困ったように笑った。


「どこでも」


 その答えに胸が少し痛んだ。


 どこでもいい。


 それは行きたい場所がないんじゃない。


 行ける場所がなかっただけだ。


 ひよりは窓の外を見ていた。


 学校帰りの学生達が歩いている。


 笑いながら。


 ふざけながら。


 誰かが友達の肩を叩いて。


 誰かがコンビニの袋を振り回して。


 そんな、どこにでもある光景。


 だけど。


 ひよりにとっては遠い世界だ。


 輪の中へ入ることはできない。


 近付くこともできない。


 吸血鬼だから。


 たったそれだけの理由で。


「学校とか」


 ひよりがぽつりと呟く。


「友達とか」


 少し間が空いた。


「作ってみたかった」


 部屋が静かになる。


 僕は何も言えなかった。


 病院の天井を思い出したからだ。


 消毒液の匂い。


 白い壁。


 窓の外から聞こえる子供達の声。


 教室より病室にいる時間の方が長かった。


 だから少しだけ分かる。


 普通の日常に憧れる気持ちが。


 手を伸ばしても届かない景色を見続ける苦しさが。


「じゃあさ」


 気付けば口が動いていた。


 ひよりが顔を上げる。


「少しだけ散歩する?」


「え?」


 ひよりは固まった。


 本当に固まった。


 何を言われたのか理解できないみたいに。


 ただ僕を見つめている。


「夜なら人も少ないし」


「中村さんが許可してくれたらだけど」


 沈黙。


 十秒。


 それ以上だったかもしれない。


 ひよりは何も言わなかった。


 ただ本を抱く手に少しだけ力が入る。


「……私も?」


 ようやく出た声だった。


 その一言に。


 胸が締め付けられる。


 当たり前に誘われる経験が、きっと彼女にはなかったのだ。


「うん」


「ひよりちゃんも」


 彼女は俯いた。


 長い前髪が顔を隠す。


 小さな肩がほんの少し震えている。


「嫌だった?」


 首を横に振る。


「違う」


 掠れた声だった。


「……楽しみ」


 小さな声。


 だけど。


 今まで聞いたどんな言葉よりも本音だった。


「コンビニも行ける?」


「行けるよ」


「公園も?」


「行ける」


「自販機も?」


「うん」


 ひよりは少し黙る。


 そして。


「……すごい」


 まるで旅の計画を聞く子供みたいに笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 誘ってよかったと思った。


 たった近所を歩くだけだ。


 それなのに。


 ひよりにとっては特別なんだ。


 きっと本当に欲しかったのは自由じゃない。


 普通だった。


 誰かと歩いて。


 誰かと話して。


 当たり前の時間を過ごすこと。


 その時だった。


 階段を駆け上がってくる騒がしい足音が聞こえた。


 勢いよく扉が開く。


「中村さーん!」


 真白だった。


 そして彼女はひよりの顔を見るなり眉をひそめる。


「なんだその顔」


「え?」


「浮かれすぎ」


 ひよりは慌てて真顔を作る。


 だが数秒も持たない。


「今日散歩なんだもん」


 真白の動きが止まった。


「……お前か」


 真白は呆れたように言った。


 けれど、その目は少しだけ柔らかかった。


 ひよりがこんな顔をしている理由を、なんとなく察したのだろう。


「まだ中村さんの許可もらってないけどな」


 僕がそう言うと、


「マジかよ」


 真白は額を押さえた。


 それから期待で目を輝かせているひよりを見る。


 何か言おうとして。


 結局やめた。


 大きくため息を吐く。


「……じゃあ私も行く」


 一瞬。


 ひよりの動きが止まる。


「ほんと!?」


 ぱっと顔が明るくなった。


 まるで部屋の電気が点いたみたいだった。


「大声出すな」


「真白お姉ちゃんも一緒?」


「だからそう言ってんだろ」


「やった!」


 ひよりは本を抱えたまま立ち上がった。


 嬉しそうに何度も頷いている。


 そんな彼女を見て。


 真白はわずかに口元を緩めた。


「お前一人じゃ心配なんだよ」


「子供じゃないもん」


「私から見たら子供だ」


「そんなに変わらないでしょ」


「変わる」


「変わらない」


 言い返すひよりの頭を、真白がぽんと軽く叩く。


 乱暴に見える。


 けれど不思議と優しかった。


 長い時間を一緒に過ごしてきた者同士の距離感だった。


 血は繋がっていない。


 だけど。


 きっと姉妹と呼んでも誰も疑わない。


「そういえば」


 真白がふと視線を落とした。


「何読んでたんだ?」


 ひよりは待ってましたと言わんばかりに本を持ち上げる。


「これ」


「また読んでたのか」


「三回目」


「読みすぎだろ」


 呆れた声だった。


 だが本を取り上げたりはしない。


 むしろ表紙を見て少しだけ笑う。


「そんなに面白いのか」


「うん」


 ひよりは迷いなく頷いた。


「みんなで旅してるのが好き」


 その言葉に。


 部屋が少し静かになった。


 旅。


 仲間。


 自由。


 どれも。


 ひよりが憧れているものだった。


 真白も気付いたのだろう。


 何も言わなかった。


 代わりに。


 ぽん、と頭を撫でる。


「じゃあ今日は旅だな」


 ひよりが首を傾げる。


「旅?」


「散歩じゃなくて旅」


 真白は窓の外を指差した。


「コンビニ行って」


「公園行って」


「適当に歩いて」


「店に帰る」


 肩を竦める。


「十分旅だろ」


 ひよりはぽかんとしていた。


 けれど。


 数秒後には笑っていた。


「うん」


 本当に嬉しそうだった。


 その時だった。


「楽しそうだねぇ」


 扉の向こうから声がした。


 振り返る。


 そこには中村と柚葉が立っていた。


 どうやら途中から聞いていたらしい。


 二人とも少し笑っている。


「お母さん!」


 ひよりが立ち上がる。


「今日ね――」


「聞こえてたよ」


 柚葉が優しく言った。


 娘の顔を見る。


 その表情を見た瞬間。


 彼女の目が少しだけ細くなる。


 ひよりがこんな顔をするのは久しぶりだった。


 吸血鬼であることを理解してから。


 外に出たいとも言わなくなった。


 友達が欲しいとも言わなくなった。


 欲しいものを欲しいと言わなくなった。


 諦めることに慣れてしまったのだ。


 だから今。


 こんな風に目を輝かせている姿を見るだけで胸がいっぱいになる。


「良かったね」


 柚葉はそう言った。


 その声は優しかった。


 けれど少しだけ震えていた。


 娘が普通の女の子みたいに笑っている。


 ただそれだけのことが。


 どうしようもなく嬉しかった。


「もちろん許可するよ」


 中村が微笑む。


「ただし条件がある」


 ひよりが少し緊張した顔で見上げる。


「条件?」


「私も同行する」


 柚葉が言った。


「えー」


 今度は真白が露骨に嫌そうな顔をした。


「なんだいその反応は」


「保護者が増えた」


「当然だろう」


 中村が即答する。


「君が一番不安なんだから」


「失礼なんだけど」


「事実だろう?」


 ひよりが吹き出した。


 柚葉も笑う。


 部屋の空気が柔らかくなる。


 窓の外を見る。


 夕日はもう沈みかけていた。


 空がゆっくりと群青色へ染まっていく。


 街にも少しずつ灯りがともり始める。


 夜が来る。


 吸血鬼達の時間。


 だけど今日は少し違った。


 誰かと戦うための夜じゃない。


 隠れて生きるための夜でもない。


 ただ。


 四人で歩くための夜だった。


 ひよりは何度も窓の外を見ていた。


 まだかな。


 まだかな。


 そんな風に夜を待つ姿は、どこにでもいる年相応の少女そのものだった。


 そして三十分後。


 店の前に集まった四人は、それぞれ上着を羽織りながら夜の街へと足を踏み出した。


 ひよりは店の扉を出たところで立ち止まる。


 夜風が黒髪を揺らした。


 ネオンが遠くで瞬いている。


 行き交う人々の話し声。


 コンビニの明かり。


 信号機の電子音。


 どれも見慣れているはずの景色なのに。


 彼女はまるで初めて見る世界みたいに目を輝かせていた。


「……すごい」


 ぽつりと呟く。


 その声は小さかった。


 けれど。


 確かに幸せそうだった。


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