第15話 影喰い
夜の街は、ひどく静かだった。
昼間は人で溢れていた通りも、今は別世界のようだった。
コンビニの白い明かり。
遠くを走る車の音。
頭上を横切る電車の振動。
東京は眠らない街だと言われている。
けれど、それは表側の話だ。
夜には夜の世界がある。
人間が知らない世界。
吸血鬼達が息を潜めて生きる世界。
(調達って……何をだ?)
僕はポケットに手を突っ込みながら歩く。
(コーヒー豆? 本? いや、そんなわけないよな)
中村さんは詳しい説明をしなかった。
ただ地図だけを渡して。
『行けば分かるよ』
そう笑っただけだった。
そして今。
僕は人気のない工業地帯に立っていた。
倉庫が並ぶ港湾地区。
海風が冷たい。
鉄と潮の匂いが混ざり合い、どこか無機質な空気が漂っている。
人の気配はない。
あるのは街灯の白い光と、遠くで鳴る船の汽笛だけだった。
(……ここで合ってるはずだけど)
スマホの地図を確認した時だった。
「……遠藤か」
背後から声がした。
低い。
地面を這うような声だった。
反射的に振り返る。
そこにいた男を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
大きい。
身長だけじゃない。
存在感そのものが大きかった。
黒いロングコート。
痩せた頬。
無精髭。
煙草を咥えたままの口元。
まるで長い夜を何十年も歩き続けてきたような男だった。
男はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
靴音だけが静かに響く。
「……中村さんから聞いてる」
短く言う。
それだけだった。
愛想もない。
自己紹介すらない。
だが敵意もなかった。
男は足元に置かれた銀色のケースを軽く蹴った。
ゴン、と鈍い音が響く。
「これだ」
無機質なケースだった。
軍用品のような頑丈な作り。
表面には温度管理用の装置まで取り付けられている。
「開けるな」
男は煙を吐きながら言った。
「見ても面白くねぇ」
その声に冗談はなかった。
僕は無言で頷く。
男はしばらくケースを見つめていた。
そして。
「血だ」
ぽつりと言った。
「中には血液パックが入ってる」
夜風が吹く。
煙草の煙が流れていく。
「この街にはな」
男は続けた。
「人を襲いたくない連中がいる」
その横顔は妙に疲れて見えた。
「理性で耐えてる奴」
「家族を守ろうとしてる奴」
「人間として生きようとしてる馬鹿」
少しだけ笑う。
だが笑顔ではなかった。
「そいつらの明日が入ってる」
ケースを見つめる視線だけが優しかった。
「だから落とすな」
男はケースを持ち上げる。
僕へ差し出す。
受け取った瞬間。
予想以上の重さに腕が沈んだ。
「っ……」
思わず声が漏れる。
重い。
ただの血液パックの重さじゃない。
もっと別の何かが詰まっている気がした。
誰かの命。
誰かの理性。
誰かが人を殺さずに済む未来。
そんなものが全部詰め込まれているような重さだった。
(これが……)
ケースを見つめる。
(吸血鬼達の命綱)
男は煙草を地面へ落とした。
靴で火を消す。
「俺は玄」
ようやく名乗った。
「運ぶだけの仕事だ」
そう言うが。
その声には妙な重みがあった。
運ぶだけ。
きっと何十年も続けてきたのだろう。
誰にも感謝されず。
誰にも知られず。
ただ夜の中を。
血液を運び続けてきた。
「――気をつけろ」
玄は背を向けた。
「最近、この辺を嗅ぎ回ってる連中がいる」
「杭ですか?」
玄は振り返らない。
「両方だ」
その一言だけだった。
G.O.D。
そして吸血鬼。
どちらも血を欲している。
目的は違う。
だが争いは同じ場所へ集まる。
玄はそのまま闇の中へ消えていった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
僕は一人残される。
冷たい海風が頬を撫でた。
腕の中のケースは重い。
けれど。
その重さの意味を、少しだけ理解できた気がした。
僕は深く息を吐き、ケースを抱え直す。
そして古書店へ向かって歩き出した。
「遠藤君、調達ありがとう」
古書店へ戻ると、中村さんがカウンターの奥で本の整理をしていた。
僕がケースを差し出す。
中村さんはそれを当たり前のように受け取った。
重そうな素振りもない。
まるで空箱でも扱うような自然さだった。
「お疲れ様」
そう言ってケースを足元へ置く。
あれだけ重かったはずなのに、中村さんにとっては日常の一部なのだろう。
「それと」
中村さんは何かを思い出したように振り返った。
「これを渡しておこう」
一冊の本が差し出される。
黒い表紙。
革張り。
角は擦り切れ、何度も誰かに読まれた跡が残っている。
古い。
少なくとも数十年は経っているように見えた。
表紙には銀色の文字が刻まれている。
『吸血鬼の系譜』
「吸血鬼の系譜?」
「うん」
中村さんは頷く。
「奥の棚を整理していたら見つけたんだ」
そして少しだけ真面目な顔になる。
「どの過程で吸血鬼になるのか」
「どんな進化を辿るのか」
「君には必要な知識だと思う」
それだけ言うと、中村さんは再び仕事へ戻っていった。
僕は本を持って二階へ上がった。
部屋は静かだった。
窓の外では東京の夜が広がっている。
ネオン。
車のライト。
眠らない街。
だけど、この部屋だけは妙に静かだった。
ベッドへ腰掛ける。
そして本を開いた。
『吸血鬼の系譜』
古びた革表紙。
黄ばんだページ。
何十年も前に書かれた本なのだろう。
紙の匂いが鼻をくすぐる。
ページをめくる。
吸血鬼の起源。
血族。
進化。
特殊個体。
知らないことばかりだった。
吸血鬼にも歴史がある。
人間と同じように。
いや、人間以上に長い歴史を持っているのかもしれない。
そんなことを考えながら読み進めていると。
一つのページで手が止まった。
『屍鬼』
その文字だった。
僕は無意識に続きを読む。
本来、吸血鬼になるには段階が存在するらしい。
屍鬼。
夜魔。
影喰い。
そして吸血鬼。
長い年月をかけて変異を繰り返し、ようやく一体の吸血鬼になる。
だが。
僕は違う。
あの日。
研究所で。
あまりにも異常な方法で吸血鬼になった。
本来積み重ねるはずだった時間を飛び越えて。
本来通るはずだった過程を無理やり踏み潰して。
だからなのかもしれない。
妙に気になった。
ページをめくる。
そして。
そこに書かれていた一文に目が止まる。
それは本文ではなかった。
誰かが後から書き加えたような。
警告文のような文章だった。
『夜に気配を感じたら、決して振り返るな』
僕は眉をひそめる。
続きを読む。
『振り返れば、そこに《シャドウグリム》がいるから』
シャドウグリム。
聞いたことのない名前だった。
さらに下には短い説明が記されている。
『影喰い』
『屍鬼が辿る変異の一種』
『飢餓』
『拒絶』
『不完全な転化』
『発生条件不明』
『生存記録なし』
それだけだった。
「……なんだよ、それ」
思わず呟く。
説明が少なすぎる。
まるで書いた本人もよく分かっていないみたいだった。
僕はページを眺める。
シャドウグリム。
影喰い。
その単語だけが妙に頭に残った。
不気味だった。
吸血鬼よりも。
夜魔よりも。
なぜか、その名前だけが。
胸の奥に引っかかる。
まるで。
ずっと前から知っていた言葉みたいに。
その時だった。
ふと。
誰かに見られている気がした。
僕は顔を上げる。
部屋には誰もいない。
窓の外には夜の東京。
ネオンが光っているだけだ。
気のせいだろう。
そう思う。
だが。
ほんの一瞬だけ。
窓ガラスに映る自分の影が。
少しだけ動いたような気がした。
僕は目を擦る。
もう何もなかった。
「……疲れてるな」
そう呟き、本へ視線を戻す。
だから気付かなかった。
ページの隅に。
掠れた文字で書かれていた最後の一文に。
『影喰いは、人を喰わない』
『喰えないのだ』
『故に夜を喰う』
窓の外で。
東京の夜が静かに揺れていた。




