14話 本の中の学校
「おはよう、遠藤君」
朝の古書店は静かだった。
窓の外では東京の街が目を覚まし始めている。
車の走行音。
遠くを走る電車の音。
誰かの話し声。
そんな日常の音が聞こえてくるのに、この店の中だけは妙に静かだった。
紙の匂い。
古い木材の匂い。
そしてコーヒーの香り。
まるで外の世界とは切り離された別空間だった。
「昨日は真白君に随分やられたそうだね」
中村はカウンターの奥で本を整理しながら言った。
その声に僕は苦笑する。
「……まぁ」
正直、笑い話にはならなかった。
昨日の夜を思い出す。
首のない死体。
血の匂い。
真白の赤い瞳。
そして。
『喰わなきゃ、喰われるだけ』
あの言葉。
今でも耳の奥に残っている。
中村はそんな僕を見て小さく笑った。
「彼女なりに気を遣っていたんだよ」
「……あれがですか?」
「そうだよ」
意外だった。
どう考えても気遣いには見えない。
中村はコーヒー豆を挽きながら続ける。
「君はまだ弱い」
その言葉は真白と同じだった。
「吸血鬼の世界では、弱いというのは罪なんだ」
ゴリゴリと豆を挽く音が響く。
「優しいとか正しいとか、そういう話じゃない」
中村は顔を上げた。
「死ぬんだよ」
静かな声だった。
だからこそ重かった。
「この街では毎晩誰かが死んでいる。吸血鬼も、人間もね」
窓の外を見る。
朝の東京。
通勤する人々。
学校へ向かう学生達。
誰も知らない。
昨日の夜、自分達のすぐ近くで人が死んでいたことを。
「真白君はね」
中村が言う。
「昔、自分の家族を飢えで失っている」
僕は思わず顔を上げた。
「だから君を見ると腹が立つんだろう」
「……どうして」
「自分が失ったものを持っているからさ」
中村は苦笑した。
「人間でいたいなんて言える余裕をね」
その言葉に返事はできなかった。
しばらく沈黙が流れる。
やがて中村は新しいコーヒーを差し出した。
「ここに集まる連中はね」
湯気がゆっくり立ち上る。
「別に善人じゃない」
僕は少し驚いた。
「戦いたくない奴もいる」
「逃げてきた奴もいる」
「人を殺したことがある奴もいる」
「もう戻れなくなった奴もいる」
中村は静かに言う。
「ここは避難所なんだ」
その言葉が妙にしっくり来た。
憩いの場じゃない。
楽園でもない。
ただ。
行き場を失った連中が流れ着く場所。
「だから私は誰も裁かない」
中村は本棚を見渡した。
「その代わり、店の中で問題を起こしたら叩き出す」
その声は穏やかだった。
だが妙な説得力があった。
この人は本当にそうするのだろう。
誰が相手でも。
吸血鬼でも。
人間でも。
そして。
カラン――
入口のベルが鳴った。
「中村さん、お久しぶりです」
入ってきたのは三十代くらいの女性だった。
疲れた顔をしている。
隣には十七、八歳くらいの少女。
黒髪を肩まで伸ばし、人形みたいに整った顔立ちをしている。
けれど表情は暗かった。
「久しぶりだね、柚葉さん」
中村が笑う。
「ひより君も元気そうで何よりだ」
少女は小さく頭を下げる。
それだけだった。
目も合わせない。
どこか人を避けているようだった。
「遠藤君」
中村が振り返る。
「今日の夜は調達に同行してもらう」
「調達?」
「血液だよ」
中村はさらりと言った。
「この店だけじゃ足りないからね」
その言葉に。
僕は改めて思い知らされた。
ここは普通の古書店じゃない。
吸血鬼の世界の一部なのだと。
「遠藤君」
中村がカウンター越しに声をかける。
「二階にコーヒーを持っていってくれるかい」
「はい」
僕は頷いた。
トレーの上には二つのカップ。
ひとつは柚葉さん。
もうひとつは、ひよりのものだ。
階段を上る。
古い木の階段は、踏むたびに小さく軋んだ。
二階にはいくつか個室が並んでいる。
避難所。
そう中村は言った。
なら、この部屋の向こうにいる人達は皆、何かから逃げてきた人達なのだろう。
人間から。
吸血鬼から。
あるいは自分自身から。
そんなことを考えながら歩いていると、一番奥の部屋から声が聞こえた。
「だから言ったでしょ」
女の声だった。
柚葉さんだ。
「外に出るのは危険なの」
「でも……」
小さな声。
ひよりだ。
「ずっと部屋の中にいるのは嫌なの」
沈黙。
扉越しでも伝わってくる。
その言葉が何年も胸の中に溜まっていたことが。
「学校だって行きたい」
「友達だって欲しい」
「普通に暮らしたい」
か細い声だった。
けれど震えていた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
自分でも分からなくなっているような声だった。
「ひより……」
柚葉さんの声も苦しそうだった。
「お母さんだって――」
「分かってる!」
初めて強い声が響く。
「分かってるけど!」
部屋の中が静まり返る。
僕は立ち止まったまま動けなかった。
やがて。
小さな嗚咽が聞こえた。
誰も悪くない。
だけど誰も幸せじゃない。
そんな空気だった。
僕は小さく息を吐いて扉をノックする。
「遠藤です」
少し間があった。
「……どうぞ」
柚葉さんの声。
扉を開く。
部屋の中は暖房が効いていた。
窓際には柚葉さん。
ベッドにはひよりが座っている。
目元が少し赤かった。
泣いていたのだろう。
けれど本人は何事もなかったような顔をしていた。
「コーヒーです」
トレーを置く。
「ありがとうございます」
柚葉さんが頭を下げる。
ひよりは黙ったままだった。
部屋を出ようとして。
ふと足が止まった。
「あの」
部屋を出ようとして、僕は足を止めた。
二人がこちらを見る。
何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。
ただ。
さっき扉の外で聞いてしまった声が、頭から離れなかった。
学校へ行きたい。
友達が欲しい。
普通に暮らしたい。
その願いは、あまりにも当たり前で。
だからこそ、胸が痛かった。
「僕も……学校には、ほとんど行けなかったんです」
ひよりの目が少しだけ開く。
「身体が弱くて」
昔のことを思い出す。
消毒液の匂い。
白い天井。
規則正しく鳴る心電図。
窓の外から聞こえてくる子供達の笑い声。
カーテンの隙間から見える青空。
僕にとって学校は、通う場所じゃなかった。
病室のベッドの上から想像する場所だった。
「だから、学校がどんな場所なのか、実はあまり知らないんです」
苦笑する。
「友達が遊んでる話とか、運動会とか、修学旅行の話とか聞いても、あんまり想像できなくて」
ひよりは黙って聞いていた。
赤くなった目元も。
握り締められた指先も。
少しだけ力が抜けているように見えた。
「でも」
僕は続ける。
「本の中では、何度も学校に行きました」
「え?」
ひよりが顔を上げる。
「物語の中で」
僕は部屋の本棚を見る。
「冒険したり」
「友達を作ったり」
「喧嘩したり」
「好きな人ができたり」
「僕が知らないはずのことを、本はたくさん見せてくれたんです」
病室で過ごした長い時間。
退屈で。
苦しくて。
何度も泣いた。
それでも、本を開けば違う世界に行けた。
だから。
「本を読むのが好きなんです」
ひよりは黙っていた。
けれど。
さっきまで伏せられていた視線が、少しだけこちらを向いている。
「もし良かったら」
僕は笑った。
「今度おすすめ持ってきますよ」
「……本」
「うん」
「学校の話が出てくるやつとか」
「友達ができる話とか」
「少しだけ元気になれる話とか」
しばらく沈黙が流れた。
窓の外では冬の風が鳴っている。
遠くで電車が通り過ぎる音が聞こえた。
やがて。
ひよりは小さく口を開く。
「……読みたいです」
本当に小さな声だった。
だけど。
さっきまで泣きそうだった少女の顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
それは春の前の雪解けみたいな、かすかな微笑みだった。




