第13話 新人と亡者
「本日付で配属となりました、四ノ宮凛と言います! よろしくお願いします!」
背筋を伸ばし、声を張る。
清潔な制服に身を包んだ青年は、どこまでも真っ直ぐな目をしていた。迷いを知らないというより、まだ迷い方を知らない目だった。胸に抱えているのは正義感であり、使命感であり、そして自分がこれから踏み込む世界の本当の暗さを知らない者だけが持てる、眩しいほどの青さだった。
ここは――G.O.D日本支部・第三区分室。
東京本部の下部組織のひとつであり、吸血鬼絡みの案件を最前線で扱う現場だった。壁には過去の事件資料が貼られ、机の上には未処理の報告書が積み上げられている。古い空調は低い音を立て、消毒液と煙草、そして鉄錆のような臭いが混ざった空気が部屋全体に染み付いていた。
上官は腕を組みながら頷き、軽く手を振った。
「四ノ宮くん、まずは彼とバディを組んでもらうよ。現場の経験が豊富だから、しっかり学ぶといい」
そう言って紹介された男は、四ノ宮が想像していた“頼れる先輩”とはかけ離れていた。
病的に痩せていて、目の下には深い隈がある。ぼさぼさの前髪が額を覆い、皮膚は不健康なほど白かった。制服も着崩れているわけではないのに、なぜか清潔感よりも疲弊の方が先に目につく。長く眠っていない人間のようでもあり、眠ることを諦めた人間のようでもあった。
「……四ノ宮くん、よろしく。私の名前は根津伶牙だ」
声は低く、どこか湿り気を帯びていた。目を見て話さない。視線は四ノ宮の顔ではなく、その少し横、あるいはもっと遠くの何かを見ているようだった。
一目でわかる。
四ノ宮とは、何もかもが正反対だった。
(この人……大丈夫か?)
そう思ったが、口には出さなかった。ここにいる以上、この男もG.O.Dの実働隊員であり、吸血鬼を相手に生き残ってきた人間なのだ。見た目だけで判断してはいけないと頭では分かっているのに、それでも本能は奇妙な警戒を覚えていた。
「じゃあ、さっそく仕事に入ろうか」
根津は淡々と言い、すでに用意していたファイルを手渡してくる。
「対象は吸血鬼ナンバー86。ここ一ヶ月で民間人五人を殺してる。吸血衝動への耐性が低く、狩りの頻度も増えている。放置すれば次の犠牲者が出るだろうね」
地図を広げ、細い指で一点を示す。
「目撃情報があったのは港区の倉庫群。すでに目星はついてる。……行こう」
根津は言い終えると、四ノ宮の返事を待たずに背を向けた。
待っていたかのように足を進めるその後ろ姿に、四ノ宮は思わず息を呑む。足取りは軽いわけではない。むしろ重く、気だるげですらある。けれど、その背中には現場へ向かうことへの躊躇が一切なかった。
(この人……何年、この仕事を続けてるんだ?)
その背中からは、“慣れ”とも“諦め”ともつかない、奇妙な重さが滲んでいた。
――同じ頃。
支部内の休憩室では、別の隊員達が噂話をしていた。
「なあ、聞いたか? この前、あの黎明騎士団の奴が入ってきたらしいぜ」
「マジで? ヴァチカンの連中って、本部で大事にされてんじゃねぇのか? なんでわざわざ、こんな現場に?」
「どうせ“訳あり”だろ。誰だって、正義の象徴が来たなんて素直に信じられねぇって」
「ま、俺らには関係ないさ。吸血鬼を処理するだけの仕事なんだから」
どこか皮肉混じりの笑いが部屋に残る。
その笑いは軽いものだったが、底には疲労が沈んでいた。G.O.Dにいる者達は、誰もが何かしらの形で夜の世界を見ている。だからこそ、黎明騎士団という“光”の象徴が現場に降りてきたことを、素直な歓迎ではなく疑念と噂で受け止めていた。
正義の象徴。
英雄候補。
そんな言葉は、血と死体と報告書に囲まれたこの場所では、あまりにも眩しすぎた。
◇
「さて、四ノ宮くん。……レヴナントは、ちゃんと持ってるかい?」
灰色の空気の中で、根津の声がぽつりと落ちた。
港区へ向かう移動中の車内。窓の外には冬の東京が流れている。高層ビルの合間を抜ける道路、鈍く光るガードレール、薄曇りの空。昼間だというのに街全体がどこか冷たく、排気ガスの白い揺らぎだけが生き物のように見えた。
「はい、こちらに」
四ノ宮は即座に返事をし、左手を差し出した。
その中指には、鈍く光る黒銀の指輪が嵌められていた。装飾品というにはあまりにも無骨で、兵器というにはあまりにも静かだった。けれど、そこから漏れる微かな冷気のようなものが、これがただの金属ではないことを示している。
「中指、か。……“魔除け”の指だな。真面目な子だ」
根津は小さく笑った。
「レヴナントとは、『還ってきた者』『亡者』を意味する――」
その言葉を呟く時、彼の声はどこか楽しげだった。
「吸血鬼の死骸から抽出した“血核”。つまり、怨念とも呼ばれるエネルギーを、装備として再構築した兵器。それを我々は日常的に使っている」
ひどく静かな声だった。だがその奥には、神への冒涜にも似た愉悦が滲んでいる。四ノ宮はその声を聞きながら、指輪の冷たさが皮膚の奥へ染み込んでくるような錯覚を覚えた。
「我々はG.O.D。名ばかりとはいえ、神の名を冠する組織だ」
根津は、四ノ宮の指輪に視線を落としたまま言葉を継ぐ。
「そんな組織が、吸血鬼の死体《怨念》を武器にするなんて……皮肉だろ?」
その時、根津の口元が不気味に吊り上がった。
笑っている。
だが、笑いは目に届いていない。
四ノ宮は不意に、背中に冷たいものが這い上がるのを感じた。
(この人……レヴナントをただの武器だと思っていない。何か……もっと別の意味で見ている)
根津は構わず続けた。
「私はね、こういうのが好きなんだ。合理的で、残酷で、そしてどこまでも人間くさい」
「人間くさい……ですか?」
「そう。誰かを倒すには、その“怨念”を使うのが一番手っ取り早い。ねじれた倫理が、最も強く作用するんだ」
根津の視線が、ようやく四ノ宮の顔を捉えた。
「後で、君のレヴナントも見せたまえ」
その目には純粋な興味があった。
いや、違う。
興味という名の“渇き”があった。
四ノ宮は無意識に中指を隠すように手を引っ込める。
(……なんだ、この人は)
けれど任務はすぐそこにある。まだ何も知らない新人の彼には、ただ頷くことしかできなかった。
◇
「すみません。この辺りで、吸血鬼の目撃情報があるんですけど……何か知りませんか?」
柔らかな声でそう尋ねたのは根津だった。
目の前にいるのは、どこにでもいそうな古びた和装の老婆だった。細い肩。曲がった背中。しわがれた指先。冬の空気に小さく震える姿は、ただの通行人にしか見えない。
だが、四ノ宮は根津の横顔を見ていた。
根津は笑っている。
穏やかに。
礼儀正しく。
けれど、その目だけは最初から老婆を人間として見ていなかった。
「さぁねぇ……そんな怖い話があるなら、私はもう家に戻らせてもらうよ」
「……ご協力ありがとうございました」
根津は軽く頭を下げ、背を向ける。
だがその目は、一切の警戒を解いていなかった。
(ナンバー86、確認済み。目撃者の証言と一致……あとは、四ノ宮がどう動くか)
その時――
「クソが、もう嗅ぎつけやがったか……ウザったいねぇ」
背後から、空気を裂く音がした。
バシュッ――!
重たい風圧と共に、老婆の姿が一変していた。
皮膚が裂ける。骨が変形する。背中が膨れ上がり、細かった四肢が不自然に伸びる。人間の形を保っていた肉体が、内側から別の生き物に作り替えられていく。
赤黒い眼が光った。
「――来るよ、四ノ宮くん」
根津はわざと背を向けたまま呟いた。
直後、振り返ることなくその右手が動く。
バンッ!
煙のように拡散したレヴナントの“鎖”が、老婆だったものの蹴りを真正面から受け止めた。空気が歪み、破裂音のような衝撃が弾ける。地面に細かな亀裂が走り、倉庫街の埃が一斉に舞い上がった。
「今回は、君がトドメを刺しなさい」
根津の言葉は冷静だった。
まるで“予習済み”の問題を投げかける教師のように。
四ノ宮は状況を飲み込めず、一歩遅れて目の前の変貌を理解する。
老婆の姿は完全に変わっていた。
肌はひび割れ、内側から骨が蠢くように変形している。皮膚の裂け目から黒い瘴気が漏れ、赤黒い眼がこちらをにやけたまま見開いていた。まるで、人間の皮を被っていた“何か”が、ようやく正体を現したかのようだった。
浮かび上がった血管。
鋭く伸びた爪。
真紅に染まった両の瞳。
――吸血鬼だった。
「そんな……人間じゃなかったのか……」
「吸血鬼ナンバー86。ここ最近、五人を殺している。全部“ただの事故”として処理されていたがね。目撃証言が決定打になった」
根津の声は淡々としていた。
まるで、今が“最初からそう決まっていた場面”であるかのように。
「行け。レヴナントを解放して、杭を打て」
その言葉に、四ノ宮は息を飲む。
震える手で、中指の指輪を強く握った。
「応じろ……!」
レヴナントが応えた。
黒いエネルギーが指輪から噴き出す。濃い靄のようなそれは、瞬く間に四ノ宮の腕へ絡みつき、骨をなぞり、筋肉の内側へ沈み込んでいった。
冷たい。
熱ではない。
死体に触れた時のような、命の抜け落ちた冷たさだった。
握るたび、手の中でうめき声のような低い音が響く。男の声。女の声。老人の声。子供の声。誰のものかも分からない怨嗟が、耳の奥でぶつぶつと渦を巻いていた。
これが、死者の塊。
そう嫌でも実感させられる。
やがて靄は形を得る。
四ノ宮の両手に凄まじい重量が落ちた。
大剣。
否、それはもはや剣というより“塊”だった。
鈍く輝く金属。血核の形を保ったまま無理やり武器へ加工したような、無骨で歪な造形。刃はある。だが、その姿は斬るためというより、叩き潰し、砕き、埋葬するための墓標に近かった。
「へぇ、ガキのくせに……そんなもの持ってんのかい」
吸血鬼ナンバー86は嗤う。
その体が膨張するように膨れ上がり、足元のアスファルトがピシリと割れる。皮膚の下で血液そのものが暴れ回っているようだった。ただ立っているだけで、周囲の空気が重くなる。
「だったら、あたしが“最初の一滴”にしてやるよ」
その瞬間、視界が跳んだ。
(速い――!)
四ノ宮は本能でレヴナントを盾のように掲げた。
衝撃音。
火花。
ぶつかり合う肉と武器の重さ。
「ぐっ――!」
一撃で膝が沈む。両腕が痺れ、肩の骨が軋む。重い。訓練で受けたどんな打撃とも違う。殺すためだけに放たれた暴力が、全身の芯まで響いていた。
けれど――
(耐えられる……この武器があれば……!)
レヴナントが手の中で震えていた。
怨嗟が流れ込む。
殺せ。
潰せ。
終わらせろ。
死者達の声が背骨を伝って脳へ響いてくる。
「ォォォアアアッ!!」
雄叫びと共に、四ノ宮は大剣を振り払った。
吸血鬼の体を跳ね返し、再び距離を取る。
「いいじゃないか……殺る気になったじゃないかァ」
吸血鬼は狂ったように笑い、爪で自らの腕を引き裂いた。
血が飛ぶ。
その血が宙で凝固し、槍のような形へと変化していく。空気が一瞬、どす黒く濁ったように淀み、周囲の音が遠のいた。まるでこの場に、血に飢えた別の存在が降り立ったような気配だった。
(……血剣……!)
本物の吸血鬼の技。
そして、それを前にした自分は、まだ“真似事”の延長にすぎない。
それでも。
「……俺は、喰わない……俺は、杭になる……!」
両足を強く踏み込み、大剣を地面に滑らせながら構える。
手は震えていた。
怖くないわけがない。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
「いけるかい?」
背後から根津の声が落ちる。
「やれ、杭。迷うな」
四ノ宮は歯を食いしばり、真っ直ぐに踏み込んだ。
吸血鬼の血槍が放たれる。
槍は空気を裂き、四ノ宮の胸を正確に狙っていた。だが大剣がその軌道を受け止める。血と怨念がぶつかり、赤黒い火花が散った。
折る。
折れた。
次の瞬間、大剣が吸血鬼の腹部を横薙ぎに叩きつけた。
「がはっ……ッ!」
血が舞う。
がらんどうの身体が地面に叩きつけられ、倉庫の壁際まで転がっていく。それでもまだ、吸血鬼は呻きながら立ち上がろうとしていた。
吸血鬼は簡単には死なない。
人間なら致命傷でも、彼らにとっては足止めにしかならないことがある。
(まだだ……止めなきゃ……)
四ノ宮は重い息を吐きながら、大剣を構えなおした。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。
目の前の吸血鬼にか。
殺された五人にか。
それとも、これから命を奪う自分自身にか。
レヴナントが再び、命を喰らう武器として光る。握るたび、手の中で低く呻くような音が響き、まるで嗤っているようだった。
振り下ろした一撃は、吸血鬼の胸を真っ直ぐに貫く。
命を飲み込むように、武器そのものが脈打った。
血飛沫。
そして――沈黙。
吸血鬼ナンバー86の体が、力を失い崩れ落ちる。
四ノ宮はしばらく動けなかった。
レヴナントが、脈を打つようにまだ震えている。
それが、命を喰った“証”だった。
「……よくやった」
根津が後ろから声をかける。
「これで君も一人前だ。杭として、な」
四ノ宮は小さく頷いた。
でもその表情に、喜びはなかった。
(俺は……杭になったのか。……それとも、ただの殺し屋か)
血と鉄の臭いが、冬の夜風に溶けていった。




