第12話 半端もん
二人の瞳が、闇の中で赤く光っていた。
吸血鬼が戦う時。
あるいは、“喰いたい”という衝動に理性が呑まれた時。
その瞳は必ず紅く染まる。
それは怒りの色ではない。
憎しみの色でもない。
もっと本能的で。
もっと原始的な。
捕食者として生きるための証。
人間という皮の下で脈打つ、もう一つの命の色だった。
冬の夜風が路地を吹き抜ける。
アスファルトの上には血が広がっていた。
先ほど真白が殺した男の血。
まだ温かい。
まだ湯気を立てている。
鉄臭い匂いが辺り一帯を満たしていた。
その匂いだけで喉が疼く。
胃の奥が熱を帯びる。
吸血衝動が静かに目を覚まし始めていた。
蓮司の指先が裂ける。
滲み出た鮮血が夜空へ舞い上がった。
ぽたり。
ぽたり。
本来なら地面へ落ちるはずの血液が、重力を無視するように宙へ留まる。
血は集まり。
捻じれ。
圧縮され。
一本の槍へと姿を変えた。
それは武器ではない。
蓮司自身の血肉。
命を削って生み出した凶器だった。
黒ずんだ赤色の槍身が街灯を反射する。
まるで誰かの呪いを固めたような禍々しさだった。
「やっぱお前は気に食わねぇ」
蓮司が吐き捨てる。
「血の味もしねぇようなヤツがよ」
赤い瞳が細く歪む。
「偉そうな顔してんのがムカつくんだよ」
次の瞬間。
地面が爆ぜた。
アスファルトが砕け散る。
吸血鬼の脚力による踏み込み。
人間なら目で追うことすらできない速度だった。
槍が唸る。
空気が裂ける。
一直線。
真白の心臓だけを狙った殺意。
だが――
「遅いって言ったろ?」
真白は退屈そうに呟いた。
紙一重。
本当に数センチだけ身体をずらす。
それだけで必殺の一撃を躱していた。
槍は背後の壁へ突き刺さる。
轟音。
コンクリートが爆発したように砕け散った。
破片が雨のように降り注ぐ。
その中を真白は歩く。
散歩でもするかのように。
余裕のまま。
左手の甲が裂けた。
鮮血が噴き出す。
飛び散った血液は空中で螺旋を描きながら凝固していった。
液体が形を得る。
刃となる。
鋼を超える硬度を持った血の剣。
その刀身は鼓動に合わせて脈打っていた。
まるで生きているかのように。
「血剣――」
それは吸血鬼が己の血を武器として凝固させる技術。
だが単なる能力ではない。
血は命。
血は飢え。
血は生存そのもの。
その刃は真白自身の命だった。
(武器じゃない……)
僕は息を呑む。
(意思を持った血だ)
真白の握る刃は、彼女の心音と同期するように脈打っている。
生きている。
そうとしか思えなかった。
「アンタみたいな雑なやつと一緒にされるの、ほんとムカつくんだよね」
真白の姿が消えた。
否。
速すぎて見えなかった。
次の瞬間には蓮司の背後。
一閃。
赤い軌跡だけが夜に残る。
肩口が裂けた。
肉が断たれる。
鮮血が噴水のように吹き上がった。
「がっ……!」
蓮司が苦悶の声を漏らす。
「その程度で文句言うなよ」
真白は吐き捨てる。
「こっちは血、無駄にしたくないんだ」
右手の甲も裂く。
もう一本。
今度は小太刀のような血の刃が形成される。
吸血鬼にとって血は命だ。
削れば削るほど飢える。
だが真白は躊躇しない。
それだけ喰っている。
それだけ生き残っている。
強者の戦い方だった。
一滴の浪費すら許さない。
その動きに僕は言葉を失った。
(これが……本物の吸血鬼)
僕とは違う。
覚悟も。
生き方も。
何もかも。
「アンタ、もう終わりだよ」
真白が最後の一撃を構えた。
だが、その前に蓮司の膝が崩れる。
血が足りない。
心臓が空回りしている。
もう槍を維持する力も残っていなかった。
血は刃にならない。
ただ干上がっただけの肉袋。
蓮司の身体は力なく崩れ落ちた。
勝負は終わっていた。
圧倒的だった。
最初から最後まで。
真白が蓮司を蹂躙しただけだった。
真白は静かに近づく。
そして。
無言で鳩尾へ蹴りを叩き込んだ。
骨が軋む音が響く。
蓮司の身体が地面を転がった。
「弱いくせに強がりやがって」
真白が吐き捨てる。
「ダサ」
それから彼女は踵を返した。
先ほど殺した男の死体へ近づく。
腕を掴む。
ずるり。
肉の擦れる嫌な音が路地へ響いた。
そして。
その腕を僕の目の前へ突き出してくる。
まだ温かい。
まだ血が流れている。
「喰え」
乾いた声だった。
「そんなんだから弱いんだよ」
血の匂いが鼻を刺す。
喉が鳴る。
胃が疼く。
本能が叫ぶ。
喰え。
喰え。
喰え。
だが――
「……やめろ」
僕はその手を払いのけた。
震える声だった。
それでも。
目だけは逸らさなかった。
「僕は……まだ、人間でいたいんだ」
真白の瞳が細くなる。
まるで理解できないものを見るように。
「……マジで言ってんの?」
静かな声だった。
「店長から聞いてる。吸血鬼になる前の記憶があるって」
死体を指差す。
「あれ見せられて何も感じなかったの?」
「感じたさ」
喉が焼ける。
血が欲しい。
死ぬほど欲しい。
それでも。
「それでも僕は――」
「“それでも”じゃねぇよ」
真白が遮った。
「結局お前、自分の幻想に酔ってるだけじゃん」
その一言が胸に突き刺さる。
痛いほどに。
否定できないほどに。
真白は血まみれの手を僕の胸へ押し付けた。
「人間でいたい?」
鼻で笑う。
「お前がどれだけ綺麗事並べてもな」
赤い瞳が真っ直ぐ僕を見据える。
「あいつらにとっちゃ吸血鬼は全部“杭”対象だ」
冷たい声だった。
「喰わなきゃ喰われる」
一歩近づく。
「それ以外なんてねぇよ」
「それでも……」
声が震える。
けれど。
目だけは逸らさなかった。
「僕は誰かを喰って生きたくない」
一瞬だけ。
真白の表情が曇った気がした。
だがすぐ消える。
「チッ……」
舌打ち。
そして冷たく言い放つ。
「弱ぇくせに喰おうともしねぇ」
一拍。
「――半端もんだな」
その言葉は。
蓮司の槍よりも深く胸へ突き刺さった。
否定できなかった。
どこかで。
僕自身がそれを正しいと思ってしまったから。
(僕は……何を守りたいんだ……)
真白は背を向ける。
赤い瞳だけを残して。
夜の闇へ消えていった。
路地裏には死体だけが残る。
東京の夜は何事もなかったように続いている。
けれど。
僕の中では確かに何かが軋み始めていた。




