第11話 夜のシフト
部屋の扉が静かに開いた。
冬の冷気が僅かに流れ込み、その向こうから銀髪の少女が姿を現す。
セレナだった。
月明かりを受けた銀髪は淡く輝き、その蒼い瞳は真っ直ぐこちらを見つめている。
その姿を見た瞬間。
胸の奥で張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ。
「エンド」
短く名を呼ぶ。
それだけだった。
だが、その一言に込められた安堵は十分すぎるほど伝わった。
「……無事だったのね」
セレナが小さく息を吐く。
僕は苦笑した。
「ごめん」
喉が少し痛む。
「吸血鬼に遭遇した」
セレナの眉が僅かに動く。
「やられて気絶したんだ」
自嘲気味に笑う。
「目が覚めたらここだった」
セレナは何も言わなかった。
ただ僕の身体を確認するように見つめる。
怪我の具合。
魔力の流れ。
吸血衝動。
そういうものを確認しているのだろう。
「……そう」
ようやく漏れた声は小さかった。
怒っているわけでもない。
安心しているわけでもない。
その中間だった。
きっと彼女自身も整理できていないのだ。
沈黙が落ちる。
その静寂を破ったのは、ゆっくりと近づいてくる足音だった。
中村だ。
銀色のトレイを片手に部屋へ入ってくる。
湯気の立つコーヒーが二つ。
香ばしい香りが部屋いっぱいに広がった。
「少し話をしよう」
中村はテーブルへカップを置いた。
「君達は吸血鬼をどう見ている?」
セレナの目が細くなる。
「人を襲う怪物」
即答だった。
「大多数はそうよ」
中村は頷く。
「間違ってはいない」
カップを持ち上げる。
「実際そういう連中は多い」
窓の外を見る。
東京の夜景が遠く輝いていた。
「だが全部じゃない」
その声は穏やかだった。
「人間と同じだよ」
「善人もいる」
「屑もいる」
「それだけの話だ」
セレナは黙る。
反論しない。
いや、できないのだろう。
この一年。
彼女は僕と旅をした。
怪物と呼ばれる存在と共に歩いた。
だからこそ昔のように割り切れなくなっている。
中村は続ける。
「ここはそんな連中の居場所だ」
古びた本棚へ視線を向ける。
「人を襲いたくない吸血鬼」
「夜を静かに生きたい吸血鬼」
「そういう者達が集まる」
そして僕を見る。
「君もその一人だろう?」
言葉に詰まった。
吸血鬼。
怪物。
異端。
そう呼ばれ続けてきた。
だから。
居場所と言われるだけで胸が痛かった。
「私はここの管理をしている」
中村は微笑む。
「どうだい」
「ここで働いてみないか」
静かな提案だった。
「表向きは古書店だ」
「だが裏では違う」
少し笑う。
「夜を生きる者達の交差点みたいな場所さ」
僕は視線を落とした。
頭の中が整理できない。
突然与えられた居場所。
突然与えられた選択肢。
今までの人生で。
そんなものは一度もなかった。
「……少し考えさせてください」
そう言って。
僕は隣のセレナを見る。
「君はどうする?」
その瞬間だった。
セレナの瞳が僅かに揺れた。
迷い。
躊躇い。
葛藤。
それらが一瞬だけ表情を横切る。
やがて彼女は小さく息を吐いた。
「私は……G.O.Dへ行く」
胸がざわついた。
G.O.D。
怪物を狩る者達。
吸血鬼を殺す組織。
僕達が最も警戒している相手。
「情報が必要だから」
セレナは続ける。
「あなたを守るためには外から動ける人間も必要なの」
拳を握る。
彼女自身も不安なのだろう。
それでも前へ進もうとしている。
「……危険だろ」
思わず口に出た。
「ええ」
即答だった。
「危険よ」
少しだけ笑う。
「でも、それでもやらなきゃいけない」
その瞳は真っ直ぐだった。
「あなたを助けるためには」
「私も戦わなきゃいけないから」
胸が苦しくなる。
一年間。
ずっと一緒だった。
吸血衝動に苦しんだ夜も。
追われ続けた夜も。
化け物になった自分を見失いそうになった夜も。
いつだって彼女が隣にいた。
だから。
「……嫌だな」
気付けば口にしていた。
セレナが目を見開く。
僕も驚いた。
だが本音だった。
「やっと居場所が見つかったのに」
「また別行動かよ」
情けない声だった。
でも。
セレナは笑った。
とても優しく。
「少しだけよ」
静かな声だった。
「ちゃんと戻ってくる」
その言葉が妙に胸に残った。
僕はしばらく黙り込む。
そして。
ゆっくり頷いた。
「……わかった」
深く息を吐く。
「僕はここに残る」
中村を見る。
「吸血鬼のことを知りたい」
「自分のことも」
中村は静かに頷いた。
「いい返事だ」
窓の外では雪が降り始めていた。
東京の冬。
冷たい夜。
だが。
不思議と寒くなかった。
テーブルの上のコーヒーから湯気が立ち上る。
白い湯気はゆっくりと天井へ昇っていく。
まるで。
止まっていた時間が再び動き出したみたいに。
夜はまだ長い。
けれど。
その夜を過ごす場所は、もう見つかっていた。
朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、ジリジリと僕の皮膚を焦がす。
ただ触れているだけなのに、微かな焼け焦げの匂いが鼻を突いた。
(……やっぱり、まだ完全には慣れない)
ベッドの上で上体を起こし、手の甲を見つめる。
そこには薄く赤みを帯びた跡が残っていた。
けれど、慣れというのは恐ろしい。
痛みを痛みとして認識しなくなる。
これくらいなら平気だと、自分に言い聞かせる癖がついていた。
下の階からはカップが触れ合う音が聞こえる。
それに混じって漂うコーヒーの香ばしい香り。
日常のようで。
どこか偽物のような朝だった。
ゆっくりと階段を降りる。
古書店の店内には朝の静けさが満ちていた。
並べられた本の背表紙。
紙の匂い。
コーヒーの香り。
窓から差し込む冬の日差し。
まるで時間だけがゆっくり流れているみたいだった。
カウンターの向こうで、中村が顔を上げる。
「さて、今日から働いてもらうよ」
穏やかな声だった。
「君は今日から遠藤と名乗りなさい」
だが、その瞳には僕を観察するような光があった。
「吸血鬼は陽の光に弱い。でも夜しか活動しないと、G.O.Dの連中に目を付けられる」
中村はコーヒー豆を挽きながら続ける。
「吸血鬼達はG.O.Dを『杭』と呼ぶ」
「杭?」
「棺桶に打ち込まれる最後の杭だよ」
軽く笑う。
だが冗談には聞こえなかった。
G.O.D。
吸血鬼にとっては死そのものだ。
「その前に、遠藤くんにはこれを飲んでもらおう」
カップが差し出される。
立ち昇る湯気。
焦がした果実のような香り。
中村はポケットから小さな銀色の容器を取り出した。
中から角砂糖のようなものを摘まみ、カップへ落とす。
「よく混ぜて飲んでごらん」
カラン。
カラン。
スプーンの音が静かに響く。
「……何が入ってるんですか?」
中村は少しだけ笑った。
「君がまだ人間でいたいなら、聞かない方がいい」
僕は黙った。
少し迷ったあと、カップを口元へ運ぶ。
一口。
温かい。
そして微かに鉄のような味。
苦味の奥に甘さがある。
それが冷え切った身体へゆっくりと染み込んでいった。
(……楽になる)
胸の奥で燻っていた渇きが少しだけ静まる。
吸血衝動が和らいでいく。
久しぶりだった。
こんな感覚。
「どうかな?」
「……効いてます」
思わず息が漏れた。
「久しぶりに落ち着いた気がします」
「それは良かった」
中村は窓の外を見た。
冬の東京。
人々が行き交う街。
そのどこかに杭がいる。
そのどこかに吸血鬼もいる。
そして僕も。
その世界の住人になってしまった。
僕はエプロンを手に取る。
時間は止まらない。
だから前へ進むしかなかった。
カランカラン――
扉のベルが鳴った。
「お疲れ様でーす」
軽い声と共に店へ入ってきたのは制服姿の少女だった。
肩まで伸びた黒髪。
鋭く跳ねた前髪。
愛想が良いタイプには見えない。
「お、ちょうど良かった」
中村が声を掛ける。
「昼は学校だったから紹介できなかったね」
少女がこちらを見る。
「遠藤くん。彼女は真白くん」
「夜のシフトを任せてる」
「は?」
真白は露骨に嫌そうな顔をした。
「聞いてないんですけど」
そして僕を見る。
頭の先から足元まで値踏みするように。
「なんか頼りなさそう」
「こういう男、ちょっと苦手なんだけど」
思わず目を逸らした。
反論できない。
「まぁまぁ」
中村が苦笑する。
「君が一番教えるの上手いからね」
「どこ見て言ってんの?」
呆れたように返す。
だが本気で嫌がっているようには見えなかった。
「……よろしくお願いします」
僕が頭を下げる。
「まぁよろしく」
真白は興味なさそうに答えた。
「で?」
「私が一から教えるわけ?」
「そのつもりだよ」
「マジかー……」
盛大にため息を吐く。
「まぁいいけど」
制服の袖をまくりながらカウンターへ入る。
その動きは慣れていた。
まるで自分の家みたいに。
「まずカップの位置」
「常連さんは意外と覚えてるから」
「はい」
「返事じゃなくて動く」
「……はい」
「だから動く」
思ったより厳しい。
だが指示は的確だった。
僕は必死に彼女の動きを追う。
その姿を見ながら思う。
真白は普通の女子高生にしか見えなかった。
吸血鬼特有の異質さも。
血の匂いも。
何も感じない。
だからこそ。
今思えば、それ自体が異常だったのかもしれない。
◇
仕事終わり。
夜の東京を歩いていた。
ネオンの残光が濡れたアスファルトを照らしている。
冷たい風が吹き抜ける。
静かだった。
だが平穏ではない。
耳を澄ませば何かが蠢いている気配がある。
そんな時だった。
前方の路地で人影が揉み合っている。
制服姿の少女。
そして男。
「……真白?」
思わず足を止めた。
男が腕を掴んでいる。
慌てて駆け寄る。
「真白!?」
少女が振り返った。
その目を見た瞬間。
背筋が凍った。
値踏みされる。
そんな感覚。
「はぁ……」
真白がため息を吐く。
「めんどくさ」
次の瞬間だった。
バキィッ――!!
空気が爆ぜる。
真白の蹴りが男の側頭部を捉えた。
骨が砕ける音。
首の骨が耐え切れず折れる。
男の身体は糸の切れた人形みたいに崩れ落ちた。
あまりにも自然だった。
まるで虫を払うみたいに。
「……え」
声が出ない。
真白は口元の血を拭う。
「今日飯食う気なかったんだけど」
つまらなそうに言った。
「なんかイライラするし」
その瞳がこちらを向く。
「新人は仕事できねーし」
ゾクリとした。
「それにさ」
真白の口元が歪む。
「どうせあんたも吸血鬼なんでしょ?」
見抜かれていた。
最初から。
「見た感じ身体は悪くないけど」
「全然喰ってないよね?」
喉が鳴る。
目の前にいるのは女子高生なんかじゃない。
本物の吸血鬼だ。
その時だった。
「おいおい」
別の声が響く。
「そこ、俺の喰い場なんだけど?」
路地の奥。
街灯の下から男が現れる。
見覚えがあった。
あの日。
橋の下で僕を叩きのめした吸血鬼。
「……蓮司」
真白が面倒そうに呟く。
「うるさいな」
「お前のせいで杭が嗅ぎ回ってんだろ」
蓮司が笑う。
「今人間殺した奴が言うなよ」
「そもそもここお前の縄張りじゃないじゃん」
真白が吐き捨てる。
「弱いから追い出されたくせに」
蓮司の笑みが消えた。
「……前から思ってたけど」
「お前ムカつくな」
「奇遇」
真白も笑っていない。
「私もそう思ってた」
一歩。
蓮司が前へ出る。
一歩。
真白も前へ出る。
空気が変わった。
吸血鬼同士が本気で殺意を向け合った瞬間。
路地裏の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
本能が警鐘を鳴らしていた。
逃げろ。
関わるな。
これは人間が覗いていい世界じゃない。
だが。
僕はもう人間じゃなかった。




