本を読む怪物
1年後。
ネオンの光が毒々しく夜空を彩り、無数の人々が忙しなく行き交う中、僕は東京の街に足を踏み入れた。
吐き出す息は白く凍りつき、冬の冷気は手袋越しでも骨の髄まで冷え切らせる。
熱気と寒気が混沌と混ざり合うこの街は、まるで巨大な胃袋のように、あらゆる欲望を飲み込み、そして腐敗させていた。
「人が多すぎる。それに、何よりも……騒がしいな」
フードを深く被り、周囲の雑音と、獲物を探るような人々の視線を遮断するように歩き続ける。
東京は、その活気の裏に、確かに“暗闇”が潜んでいる。
G.O.D.と吸血鬼の抗争が激化し、本来は影に徹していた異端者たちが、力に溺れて表社会の隙間へと溢れ出していた。
表向きは平和な日常。
だが、その裏では、人間の皮を被った獣たちが、飢えに震えながら次の獲物を狙っている。
この1年間、セレナと各地を巡ってきた。
今回、東京に来た目的は2つ。
G.O.D.日本支部の制圧。
そして、この街に眠る僕の出自に関する「真実」。
それらを引き寄せる磁場が、この街にはある。
だが、今の街は異常だった。
吸血鬼同士の縄張り争いが激化し、路地裏は血の匂いに満ちている。
僕も変わった。
吸血衝動は以前として猛毒のように体内を巡っている。
セレナから血を直接もらうことは絶った。
準備しておいた保存血で耐え凌ぐ日々だが、その代償は小さくない。
飢えが理性を蝕むたび、背中を冷たい汗が伝う。
「まずは、活動拠点と資金源を確保しなきゃな」
「うん、分かった」
傍らで、セレナが僕の様子を検分するように見つめる。
「……エンド。あなた、ずっと限界ギリギリで抑えてるよね。油断した瞬間に、内側の牙が喉元を突き破るわよ」
彼女の優しさが、今の僕には何よりも痛い。
今は甘えるわけにはいかない。
「私はG.O.D.支部を探って、あなたの指名手配の状況を確認してくる。何かあったら合図して」
セレナが雑踏の中に消えていく。
僕は再び、独り夜の東京を彷徨い始めた。
⸻
複雑に入り組む路地を抜ける。
記憶を頼りに待ち合わせ場所へ向かうが、この街の磁場は僕の感覚を狂わせる。
(迷ったか……いや、この辺りに間違いないはずだ)
視線を鋭くし、周囲の音を拾う。
人々の喧騒。
車の排気音。
そして――微かな鉄錆のような、甘ったるい血の匂い。
直感が足を止めた。
匂いの源を辿り、人気のない橋の下へ足を踏み入れる。
吹き溜まりの冷気が、僕の首筋を撫でた。
そこにいたのは、獲物をいたぶる若き吸血鬼だった。
人間の男を捕らえ、頸動脈から直接血を啜り上げている。
目は吸血衝動で赤黒く染まり、その様は食事というよりも、ただの破壊行為だった。
「あぁ?……人間じゃねぇな? ここは俺の“喰い場”だって言ったろ。死にてぇのか?」
男が僕を見つけると、血に汚れた口元を歪めて侮蔑の笑みを浮かべた。
吸血鬼の五感は、僕の存在を即座に「敵」と定義する。
「教えろよ。この場所のルールをな」
吸血鬼が僕に向かって歩み寄る。
その動きには、洗練された殺意があった。
身構える間もなく、凄まじい衝撃が僕の腹部を襲う。
強烈な突き。
身体がくの字に折れ、コンクリートの壁に叩きつけられた。
背中に走る激痛とともに、アスファルトの冷たさが肺の奥まで凍えさせていく。
「ふん、弱すぎだろ。ちゃんと喰ってんのか? 餓鬼の鳴き声かと思ったぜ」
男の言葉に侮蔑が滲む。
立ち上がろうと腕に力を込めるが、吸血欲に支配された飢えと、保存血の限界が僕の筋肉を麻痺させていた。
僕は吸血鬼の力を見誤っていた。
男は容赦なく追撃を加える。
鋭い蹴りが肩を砕き、視界が明滅する。
男の指先から血液が溢れ出し、空中で冷酷な槍の形を成した。
赤黒い槍は脈打つ心臓のように蠢きながら、静かに殺意を研ぎ澄ませていく。
「これ以上やりすぎると、“杭”の連中に嗅ぎ回られる」
男は槍を肩へ担ぐ。
その顔には余裕しかなかった。
「……これで終わりだ」
冷徹な宣告とともに、その槍が僕の胸を正確に貫いた。
「クハァッ……!」
肺が焼けるような激痛。
血の味が口内に溢れ、世界が急速に暗転していく。
冬の夜空に浮かぶ星すらも、遠く、遠くへ消えていった。
この街は――僕が考えていた以上に、死に満ちている。
僕は知らない天井を見上げていた。
天井の色は白く、どこか清潔感がある。だが、その場所がどこなのか分からなかった。
ゆっくりと身体を起こす。
背中に伝わる寝具の感触は柔らかい。
冷え切っていた身体へ少しずつ熱が戻っていく。
窓の外では風が鳴っていた。
冬だ。
それだけは分かる。
部屋の中には紙の匂いが漂っていた。
古い本特有の。
少し湿ったような匂い。
病院ともホテルとも違う。
どこか懐かしい匂いだった。
「目を覚ましたかい」
声が聞こえた。
視線を向ける。
そこには白髪混じりの髪を後ろへ流した男が立っていた。
六十代ほどに見える。
手には湯気の立つマグカップ。
その姿はどこにでもいる書店の店主のようだった。
「目覚めの一杯でもどうだい」
差し出されたコーヒーから湯気が立ち昇る。
苦い香りが鼻をくすぐった。
「あの……ここは?」
警戒しながら尋ねる。
男は少し笑った。
「古書店だよ」
「古書店?」
そう言って窓の外を見る。
カーテンの隙間から見えるのは東京の夜景だった。
ネオンの光。
遠くを走る車のヘッドライト。
眠ることを知らない巨大都市。
「正式な名前はあるんだけど」
男は肩を竦める。
「みんな夜の古書店って呼んでる」
そこで男は僕を見る。
真っ直ぐ。
まるで全てを見透かすような目だった。
「吸血鬼や退魔師、それに情報屋なんかもたまに来る」
「本を買いに?」
「情報を買いに」
男は微笑む。
「本というのはね。案外、人間より多くのことを覚えているんだ」
その言葉には妙な重みがあった。
何十年。
あるいは何百年も生きてきた者の声だった。
「君みたいな吸血鬼が来るのも珍しくない」
僕の身体が強張る。
男は気にした様子もなく続けた。
「安心してくれ」
「ここで君を売る気はない」
そう言うと椅子へ腰掛ける。
「私は中村」
柔らかな口調だった。
「この店の店主をやっている」
部屋の外を見ると、本棚が並んでいるのが見えた。
壁一面を埋め尽くす古書。
革表紙の本。
古びた地図。
黄ばんだ新聞。
そして、そのさらに奥には。
東京の夜へ続く階段があった。
まるでこの場所だけが、現代から切り離されているようだった。
古書店の扉が開いた。
その瞬間、まるで東京に新しい太陽が昇ったような錯覚を覚えた。
店の前に立っていたのはセレナだった。
銀色の髪が冬の夜風に揺れる。
ネオンの光すら霞むほど、その存在感は際立っていた。
蒼い瞳は真っ直ぐ店内を見据えている。
迷いはない。
探し物を見つけるまで止まらない人間の目だった。
「あまり店の前でそのオーラを出さないでくれないか」
中村は苦笑した。
「客が入りづらくなる」
セレナは答えない。
視線は中村を通り越し、その奥を探っている。
「エンドはどこ?」
短い言葉だった。
だが、その声には隠し切れない焦りが滲んでいた。
東京へ来てから半日。
その間ずっと探し続けていたのだろう。
中村は小さく肩を竦めた。
「まずは中へ入りなさい」
「温かいコーヒーでも飲みながら話そう」
「吸血鬼の言葉なんか信じられるか」
即答だった。
一切の迷いもない。
中村は怒らない。
ただ静かに頷く。
「そうか」
店内へ視線を向ける。
壁一面の本棚。
積み上げられた古書。
黄ばんだ紙の匂い。
夜しか営業しないこの店は、東京の喧騒から切り離された別世界だった。
「だが、私は彼を助けた」
セレナの瞳が細くなる。
「彼から話も聞いた」
「少なくとも、嘘を吐いているようには見えなかったよ」
夜風が吹き込む。
古いベルが小さく鳴った。
「だから私は彼を信じた」
中村は静かに言った。
「人間に人間の秩序があるように」
「私達にも私達の秩序がある」
セレナはしばらく黙っていた。
鋭い視線が中村を見据える。
まるで本心を見抜こうとしているかのように。
やがて。
小さく息を吐いた。
そして一歩前へ踏み出す。
無言のまま店内へ入った。
木製の床が僅かに軋む。
「彼なら二階にいる」
中村はそう言った。
「私はコーヒーの準備をしておこう」
セレナは振り返らない。
そのまま階段へ向かう。
コツ。
コツ。
コツ。
冬の静かな店内に足音だけが響いた。
***
階段の下から聞こえてくる足音に、僕はゆっくりと顔を上げた。
聞き慣れた音だった。
胸の奥に張り付いていた不安が少しだけ薄れていく。
(セレナだ)
気配だけで分かった。
この一年。
どれだけ離れていても間違えたことはない。
地下施設を出てから。
誰にも追われながら。
誰にも理解されないまま旅を続けてきた。
その隣にはいつも彼女がいた。
だからだろうか。
東京へ来て初めて離れた数時間が、妙に長く感じた。
橋の下で死にかけた時も。
意識を失った時も。
頭のどこかで彼女のことを考えていた気がする。
情けない。
一年前なら認めなかっただろう。
けれど今は違う。
彼女がいるから歩けている。
それだけは間違いなかった。
コツ。
足音が止まる。
部屋の前だった。
静寂が落ちる。
数秒。
その後。
控えめなノックの音が響いた。
コン。
コン。
「エンド」
扉の向こうから聞こえた声に、僕は小さく息を吐いた。




