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夜は揺り籠の上に立つ  作者: you
夜を歩く術
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10/27

本を読む怪物

 1年後。


 ネオンの光が毒々しく夜空を彩り、無数の人々が忙しなく行き交う中、僕は東京の街に足を踏み入れた。


 吐き出す息は白く凍りつき、冬の冷気は手袋越しでも骨の髄まで冷え切らせる。


 熱気と寒気が混沌と混ざり合うこの街は、まるで巨大な胃袋のように、あらゆる欲望を飲み込み、そして腐敗させていた。


「人が多すぎる。それに、何よりも……騒がしいな」


 フードを深く被り、周囲の雑音と、獲物を探るような人々の視線を遮断するように歩き続ける。


 東京は、その活気の裏に、確かに“暗闇”が潜んでいる。


 G.O.D.と吸血鬼の抗争が激化し、本来は影に徹していた異端者たちが、力に溺れて表社会の隙間へと溢れ出していた。


 表向きは平和な日常。


 だが、その裏では、人間の皮を被った獣たちが、飢えに震えながら次の獲物を狙っている。


 この1年間、セレナと各地を巡ってきた。


 今回、東京に来た目的は2つ。


 G.O.D.日本支部の制圧。


 そして、この街に眠る僕の出自に関する「真実」。


 それらを引き寄せる磁場が、この街にはある。


 だが、今の街は異常だった。


 吸血鬼同士の縄張り争いが激化し、路地裏は血の匂いに満ちている。


 僕も変わった。


 吸血衝動は以前として猛毒のように体内を巡っている。


 セレナから血を直接もらうことは絶った。


 準備しておいた保存血で耐え凌ぐ日々だが、その代償は小さくない。


 飢えが理性を蝕むたび、背中を冷たい汗が伝う。


「まずは、活動拠点と資金源を確保しなきゃな」


「うん、分かった」


 傍らで、セレナが僕の様子を検分するように見つめる。


「……エンド。あなた、ずっと限界ギリギリで抑えてるよね。油断した瞬間に、内側の牙が喉元を突き破るわよ」


 彼女の優しさが、今の僕には何よりも痛い。


 今は甘えるわけにはいかない。


「私はG.O.D.支部を探って、あなたの指名手配の状況を確認してくる。何かあったら合図して」


 セレナが雑踏の中に消えていく。


 僕は再び、独り夜の東京を彷徨い始めた。


 ⸻


 複雑に入り組む路地を抜ける。


 記憶を頼りに待ち合わせ場所へ向かうが、この街の磁場は僕の感覚を狂わせる。


(迷ったか……いや、この辺りに間違いないはずだ)


 視線を鋭くし、周囲の音を拾う。


 人々の喧騒。


 車の排気音。


 そして――微かな鉄錆のような、甘ったるい血の匂い。


 直感が足を止めた。


 匂いの源を辿り、人気のない橋の下へ足を踏み入れる。


 吹き溜まりの冷気が、僕の首筋を撫でた。


 そこにいたのは、獲物をいたぶる若き吸血鬼だった。


 人間の男を捕らえ、頸動脈から直接血を啜り上げている。


 目は吸血衝動で赤黒く染まり、その様は食事というよりも、ただの破壊行為だった。


「あぁ?……人間じゃねぇな? ここは俺の“喰い場”だって言ったろ。死にてぇのか?」


 男が僕を見つけると、血に汚れた口元を歪めて侮蔑の笑みを浮かべた。


 吸血鬼の五感は、僕の存在を即座に「敵」と定義する。


「教えろよ。この場所のルールをな」


 吸血鬼が僕に向かって歩み寄る。


 その動きには、洗練された殺意があった。


 身構える間もなく、凄まじい衝撃が僕の腹部を襲う。


 強烈な突き。


 身体がくの字に折れ、コンクリートの壁に叩きつけられた。


 背中に走る激痛とともに、アスファルトの冷たさが肺の奥まで凍えさせていく。


「ふん、弱すぎだろ。ちゃんと喰ってんのか? 餓鬼の鳴き声かと思ったぜ」


 男の言葉に侮蔑が滲む。


 立ち上がろうと腕に力を込めるが、吸血欲に支配された飢えと、保存血の限界が僕の筋肉を麻痺させていた。


 僕は吸血鬼の力を見誤っていた。


 男は容赦なく追撃を加える。


 鋭い蹴りが肩を砕き、視界が明滅する。


 男の指先から血液が溢れ出し、空中で冷酷な槍の形を成した。


 赤黒い槍は脈打つ心臓のように蠢きながら、静かに殺意を研ぎ澄ませていく。


「これ以上やりすぎると、“杭”の連中に嗅ぎ回られる」


 男は槍を肩へ担ぐ。


 その顔には余裕しかなかった。


「……これで終わりだ」


 冷徹な宣告とともに、その槍が僕の胸を正確に貫いた。


「クハァッ……!」


 肺が焼けるような激痛。


 血の味が口内に溢れ、世界が急速に暗転していく。


 冬の夜空に浮かぶ星すらも、遠く、遠くへ消えていった。



 この街は――僕が考えていた以上に、死に満ちている。




 僕は知らない天井を見上げていた。


 天井の色は白く、どこか清潔感がある。だが、その場所がどこなのか分からなかった。


 ゆっくりと身体を起こす。


 背中に伝わる寝具の感触は柔らかい。


 冷え切っていた身体へ少しずつ熱が戻っていく。


 窓の外では風が鳴っていた。


 冬だ。


 それだけは分かる。


 部屋の中には紙の匂いが漂っていた。


 古い本特有の。


 少し湿ったような匂い。


 病院ともホテルとも違う。


 どこか懐かしい匂いだった。


「目を覚ましたかい」


 声が聞こえた。


 視線を向ける。


 そこには白髪混じりの髪を後ろへ流した男が立っていた。


 六十代ほどに見える。


 手には湯気の立つマグカップ。


 その姿はどこにでもいる書店の店主のようだった。


「目覚めの一杯でもどうだい」


 差し出されたコーヒーから湯気が立ち昇る。


 苦い香りが鼻をくすぐった。


「あの……ここは?」


 警戒しながら尋ねる。


 男は少し笑った。


「古書店だよ」


「古書店?」


 そう言って窓の外を見る。


 カーテンの隙間から見えるのは東京の夜景だった。


 ネオンの光。


 遠くを走る車のヘッドライト。


 眠ることを知らない巨大都市。


「正式な名前はあるんだけど」


 男は肩を竦める。


「みんな夜の古書店って呼んでる」


 そこで男は僕を見る。


 真っ直ぐ。


 まるで全てを見透かすような目だった。


「吸血鬼や退魔師、それに情報屋なんかもたまに来る」


「本を買いに?」


「情報を買いに」


 男は微笑む。


「本というのはね。案外、人間より多くのことを覚えているんだ」


 その言葉には妙な重みがあった。


 何十年。


 あるいは何百年も生きてきた者の声だった。


「君みたいな吸血鬼が来るのも珍しくない」


 僕の身体が強張る。


 男は気にした様子もなく続けた。


「安心してくれ」


「ここで君を売る気はない」


 そう言うと椅子へ腰掛ける。


「私は中村」


 柔らかな口調だった。


「この店の店主をやっている」


 部屋の外を見ると、本棚が並んでいるのが見えた。


 壁一面を埋め尽くす古書。


 革表紙の本。


 古びた地図。


 黄ばんだ新聞。


 そして、そのさらに奥には。


 東京の夜へ続く階段があった。


 まるでこの場所だけが、現代から切り離されているようだった。


古書店の扉が開いた。


 その瞬間、まるで東京に新しい太陽が昇ったような錯覚を覚えた。


 店の前に立っていたのはセレナだった。


 銀色の髪が冬の夜風に揺れる。


 ネオンの光すら霞むほど、その存在感は際立っていた。


 蒼い瞳は真っ直ぐ店内を見据えている。


 迷いはない。


 探し物を見つけるまで止まらない人間の目だった。


「あまり店の前でそのオーラを出さないでくれないか」


 中村は苦笑した。


「客が入りづらくなる」


 セレナは答えない。


 視線は中村を通り越し、その奥を探っている。


「エンドはどこ?」


 短い言葉だった。


 だが、その声には隠し切れない焦りが滲んでいた。


 東京へ来てから半日。


 その間ずっと探し続けていたのだろう。


 中村は小さく肩を竦めた。


「まずは中へ入りなさい」


「温かいコーヒーでも飲みながら話そう」


「吸血鬼の言葉なんか信じられるか」


 即答だった。


 一切の迷いもない。


 中村は怒らない。


 ただ静かに頷く。


「そうか」


 店内へ視線を向ける。


 壁一面の本棚。


 積み上げられた古書。


 黄ばんだ紙の匂い。


 夜しか営業しないこの店は、東京の喧騒から切り離された別世界だった。


「だが、私は彼を助けた」


 セレナの瞳が細くなる。


「彼から話も聞いた」


「少なくとも、嘘を吐いているようには見えなかったよ」


 夜風が吹き込む。


 古いベルが小さく鳴った。


「だから私は彼を信じた」


 中村は静かに言った。


「人間に人間の秩序があるように」


「私達にも私達の秩序がある」


 セレナはしばらく黙っていた。


 鋭い視線が中村を見据える。


 まるで本心を見抜こうとしているかのように。


 やがて。


 小さく息を吐いた。


 そして一歩前へ踏み出す。


 無言のまま店内へ入った。


 木製の床が僅かに軋む。


「彼なら二階にいる」


 中村はそう言った。


「私はコーヒーの準備をしておこう」


 セレナは振り返らない。


 そのまま階段へ向かう。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 冬の静かな店内に足音だけが響いた。


 ***


 階段の下から聞こえてくる足音に、僕はゆっくりと顔を上げた。


 聞き慣れた音だった。


 胸の奥に張り付いていた不安が少しだけ薄れていく。


(セレナだ)


 気配だけで分かった。


 この一年。


 どれだけ離れていても間違えたことはない。


 地下施設を出てから。


 誰にも追われながら。


 誰にも理解されないまま旅を続けてきた。


 その隣にはいつも彼女がいた。


 だからだろうか。


 東京へ来て初めて離れた数時間が、妙に長く感じた。


 橋の下で死にかけた時も。


 意識を失った時も。


 頭のどこかで彼女のことを考えていた気がする。


 情けない。


 一年前なら認めなかっただろう。


 けれど今は違う。


 彼女がいるから歩けている。


 それだけは間違いなかった。


 コツ。


 足音が止まる。


 部屋の前だった。


 静寂が落ちる。


 数秒。


 その後。


 控えめなノックの音が響いた。


 コン。


 コン。


「エンド」


 扉の向こうから聞こえた声に、僕は小さく息を吐いた。

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