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境界の森のレストラン  作者: 海和 喜助


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5/13

火を消せない夜


 扉を閉めても、森の音は消えなかった。


 壁の隙間で風が鳴る。屋根の上を何かが走り、ユータは思わず肩を縮めた。昼間は気にならなかった窓の暗がりが、今はひどく大きく見える。


 泉は小屋の裏。魔族の村へは、そこから沢沿いに歩いて小一時間。リゼに教わった道を忘れまいと頭の中でたどったが、途中から、どちらへ曲がったのか自信がなくなった。


 りんが窓へ鼻を向けた。耳を交互に動かし、短く空気を嗅ぐ。


『しらないにおい、いっぱい』


「……そうだな」


 ユータは扉に立てかけた『食堂』の板を、内側へ取り込んだ。


 店を開く。


 さっきまでは、それがいい考えに思えた。けれど、欠けた皿は四枚。椅子は一脚がぐらつき、寝床さえない。明日使う水をどれだけ汲めばいいのかも、この森で夜を越せるのかも、わからなかった。


 膝から力が抜けた。


 床へ座った途端、右手が震え始めた。


 昼間、ガレスに向けられた剣を思い出す。鈍い刃ではなかった。手入れされた鋼の縁が、日差しを細く返していた。


 あれが、もう少し近づいていたら。


 りんがいなかったら。


「……怖かったんだな、俺」


 声に出すと、急に息が苦しくなった。


 料理をして、人と話して、次にやることを探していた。その間だけは、考えずにいられたのかもしれない。


 ポケットを探る。携帯電話も、家の鍵もない。


 明日の仕込みを誰がするのだろう。冷蔵庫には、寝かせている生地があった。りんの水皿は、散歩に出る前に替えてきた。


 そこまで考えて、ユータは顔を伏せた。


 もう帰れないのか、まだ誰にも聞けていない。


 膝に、温かい重みが乗った。


 りんだった。いつものように体を押しつけ、前足でユータの袖を一度だけ掻く。


『いたい?』


「いや」


 首の後ろを撫でる。柔らかな毛の下に、確かな体温があった。


「お前、あのとき……苦しくなかったか」


 轟音の中、抱き締めた腕の感触が戻ってくる。


 りんは少し首をかしげた。


『ユータ、ぎゅってした』


「……うん」


『いまも、していい』


 ユータは返事をせず、その体を抱き寄せた。


 薪が爆ぜた。二人とも同じ音にびくりとして、少しだけ離れた。


「最強でも、びっくりはするんだな」


 りんは不満そうに鼻を鳴らした。


     *


 しばらくして、腹が鳴った。


 誰かに食べさせるばかりで、自分は肉を数切れしか食べていなかった。


「……飯にするか」


 リゼにもらった袋を開く。黒い穀物と、しわの寄った赤根。袋の口には、ほつれを繕った細かな縫い目があった。


 明日からの食料だったものを、分けてくれたのだ。


 ユータは穀物をひと握りだけ取り出した。


 洗って水に浸し、その間に赤根を薄く削る。鍋でゆっくり煮ると、乾いて縮んでいた根が水を含み、鮮やかな橙色を取り戻した。


 ひと切れ、味をみる。


 最初は土の匂い。噛んだ奥に、栗に似た甘みがある。


「へえ……煮ると、こうなるのか」


 わからないことが、ひとつ減った。


 ふやかした穀物も加える。鍋底に張りつかないよう木べらを動かすうち、手の震えは収まっていた。


 窓の外では何かが鳴いている。それでも、今は火の加減を見ていられた。


 りんの分を先に取り、残りへわずかな塩を落とす。


 今夜は肉のだしも乳もない。けれど、煮崩れた赤根が穀物を包み、木匙を傾けると、ゆっくり、とろりと流れた。


 ひと口すする。


 熱が舌から喉へ落ちた。粒には柔らかな歯応えが残り、噛むたびに香ばしい穀物の風味が立つ。塩に引き出された赤根の甘さが、飲み込んだあとも口に残った。


「……うまいな」


 派手な味ではない。もうひと匙、もうひと匙と食べたくなる味だった。


 りんは冷ました粥を舐め、鼻先についた橙色のしずくまで舌でさらった。


『これも、すき』


「肉じゃなくても?」


『おにくは、べつ』


「別腹ってことか」


 笑うと、固まっていた胸の辺りが少し緩んだ。


 食べ終えた器を洗い、扉の前へ重い椅子を運ぶ。窓の掛け金も確かめた。できることを済ませてから、かまどのそばへ座り直す。


 りんは森へ向けて耳を立てたまま、ユータの足に顎を乗せた。


「今日は、ここで寝よう」


『あしたは?』


 ユータは取り込んだ看板を見た。


「まず、朝になったら考える」


 火を小さくする。消す勇気は、まだなかった。


 膝の上に手を置くと、りんの鼻先がそっと触れた。ユータはその温かさを確かめながら、明かりの届く範囲を、もう一度ゆっくり見回した。

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