火を消せない夜
扉を閉めても、森の音は消えなかった。
壁の隙間で風が鳴る。屋根の上を何かが走り、ユータは思わず肩を縮めた。昼間は気にならなかった窓の暗がりが、今はひどく大きく見える。
泉は小屋の裏。魔族の村へは、そこから沢沿いに歩いて小一時間。リゼに教わった道を忘れまいと頭の中でたどったが、途中から、どちらへ曲がったのか自信がなくなった。
りんが窓へ鼻を向けた。耳を交互に動かし、短く空気を嗅ぐ。
『しらないにおい、いっぱい』
「……そうだな」
ユータは扉に立てかけた『食堂』の板を、内側へ取り込んだ。
店を開く。
さっきまでは、それがいい考えに思えた。けれど、欠けた皿は四枚。椅子は一脚がぐらつき、寝床さえない。明日使う水をどれだけ汲めばいいのかも、この森で夜を越せるのかも、わからなかった。
膝から力が抜けた。
床へ座った途端、右手が震え始めた。
昼間、ガレスに向けられた剣を思い出す。鈍い刃ではなかった。手入れされた鋼の縁が、日差しを細く返していた。
あれが、もう少し近づいていたら。
りんがいなかったら。
「……怖かったんだな、俺」
声に出すと、急に息が苦しくなった。
料理をして、人と話して、次にやることを探していた。その間だけは、考えずにいられたのかもしれない。
ポケットを探る。携帯電話も、家の鍵もない。
明日の仕込みを誰がするのだろう。冷蔵庫には、寝かせている生地があった。りんの水皿は、散歩に出る前に替えてきた。
そこまで考えて、ユータは顔を伏せた。
もう帰れないのか、まだ誰にも聞けていない。
膝に、温かい重みが乗った。
りんだった。いつものように体を押しつけ、前足でユータの袖を一度だけ掻く。
『いたい?』
「いや」
首の後ろを撫でる。柔らかな毛の下に、確かな体温があった。
「お前、あのとき……苦しくなかったか」
轟音の中、抱き締めた腕の感触が戻ってくる。
りんは少し首をかしげた。
『ユータ、ぎゅってした』
「……うん」
『いまも、していい』
ユータは返事をせず、その体を抱き寄せた。
薪が爆ぜた。二人とも同じ音にびくりとして、少しだけ離れた。
「最強でも、びっくりはするんだな」
りんは不満そうに鼻を鳴らした。
*
しばらくして、腹が鳴った。
誰かに食べさせるばかりで、自分は肉を数切れしか食べていなかった。
「……飯にするか」
リゼにもらった袋を開く。黒い穀物と、しわの寄った赤根。袋の口には、ほつれを繕った細かな縫い目があった。
明日からの食料だったものを、分けてくれたのだ。
ユータは穀物をひと握りだけ取り出した。
洗って水に浸し、その間に赤根を薄く削る。鍋でゆっくり煮ると、乾いて縮んでいた根が水を含み、鮮やかな橙色を取り戻した。
ひと切れ、味をみる。
最初は土の匂い。噛んだ奥に、栗に似た甘みがある。
「へえ……煮ると、こうなるのか」
わからないことが、ひとつ減った。
ふやかした穀物も加える。鍋底に張りつかないよう木べらを動かすうち、手の震えは収まっていた。
窓の外では何かが鳴いている。それでも、今は火の加減を見ていられた。
りんの分を先に取り、残りへわずかな塩を落とす。
今夜は肉のだしも乳もない。けれど、煮崩れた赤根が穀物を包み、木匙を傾けると、ゆっくり、とろりと流れた。
ひと口すする。
熱が舌から喉へ落ちた。粒には柔らかな歯応えが残り、噛むたびに香ばしい穀物の風味が立つ。塩に引き出された赤根の甘さが、飲み込んだあとも口に残った。
「……うまいな」
派手な味ではない。もうひと匙、もうひと匙と食べたくなる味だった。
りんは冷ました粥を舐め、鼻先についた橙色のしずくまで舌でさらった。
『これも、すき』
「肉じゃなくても?」
『おにくは、べつ』
「別腹ってことか」
笑うと、固まっていた胸の辺りが少し緩んだ。
食べ終えた器を洗い、扉の前へ重い椅子を運ぶ。窓の掛け金も確かめた。できることを済ませてから、かまどのそばへ座り直す。
りんは森へ向けて耳を立てたまま、ユータの足に顎を乗せた。
「今日は、ここで寝よう」
『あしたは?』
ユータは取り込んだ看板を見た。
「まず、朝になったら考える」
火を小さくする。消す勇気は、まだなかった。
膝の上に手を置くと、りんの鼻先がそっと触れた。ユータはその温かさを確かめながら、明かりの届く範囲を、もう一度ゆっくり見回した。




