魔族の村と、月色の粥
よろしくお願いします!
鍋をくわえたりんを先頭に、一行は境界の森を進んだ。
「こぼすなよ」
『だいじょうぶ』
直後、木の根につまずきかけたりんを見て、ユータは鍋を受け取った。
『だいじょうぶだったのに』
「汁が一滴減った」
『りんのぶん?』
「みんなの分だ」
リゼが小さく笑う。その横でガレスは剣から手を離さず、森の奥を警戒していた。
やがて木々の間に、黒い石壁が現れた。見張り台から角を持つ男たちが弓を構える。
「人族を連れてきたのか!」
「弟を助けてくれたの。この人たちは敵じゃない!」
「人族の言葉など――」
「その話は後だ!」
ユータの声に、全員が黙った。
「病人はどこですか」
*
薄暗い家の寝台に、十歳ほどの少年が横たわっていた。
「ノア」
リゼが駆け寄る。
少年の頬は赤く、息は浅い。腕には森裂きの爪痕が残っていた。薬草の汁を塗ると、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「姉ちゃん……おなか、すいた」
「すぐ何か持ってくる」
「でも、固いものは食べられない」
ユータは家の台所を見回した。
壺の中には黒い粒の穀物。干した赤い根菜と山羊の乳、それに小さな鳥の卵が三つ。
「これ、使っても?」
リゼの母親らしい女性が、不安げにうなずいた。
黒い穀物を布で包み、瓶の底で軽く砕く。鍋に残った牙猪のスープへ加え、弱火でゆっくり煮た。
ふつ、ふつ。
固い粒が熱い汁を吸い、次第にふっくら開いていく。細かく刻んだ赤根を加えると、土のような甘い香りが立った。
「その白いのも入れるの?」
「少しだけ。味を丸くする」
山羊乳を注ぐと、琥珀色のスープが柔らかな乳白色へ変わる。最後に溶き卵を細く流し入れた。
黄色い卵が、月明かりのようにふわりと広がった。
塩をひとつまみ。
木匙ですくい、何度も息を吹いて冷ます。
「急がなくていい。ひと口ずつな」
ノアは粥を口へ含んだ。
とろりと煮えた穀物が舌の上でほどける。牙猪の旨味を山羊乳が優しく包み、赤根の甘さがあとから広がった。ふわふわの卵は、噛む力さえ要らない。
「……あったかい」
少年の喉が、こくりと動く。
「もうひと口」
リゼが目元を拭いながら、粥を運んだ。
「おいしい?」
「うん。姉ちゃんの料理より、ずっと」
「元気になったら覚えてなさい」
泣きながら怒る姉を見て、ノアが笑った。
その様子を、入口に立つ魔族と人族の兵士たちが黙って見守っていた。
ガレスが鼻をすすり、顔を背ける。
「煙が目に入っただけだ」
『たべたいだけ』
「犬に何がわかる!」
りんの言葉は聞こえないはずなのに、返事だけは妙に噛み合っていた。
ユータが残りの粥を器へ分けると、魔族たちの警戒は湯気と一緒に少しずつ薄れていった。
帰り際、リゼが小さな袋を差し出した。中には黒い穀物と赤根が入っている。
「お礼。それと……また料理を教えて」
見上げる赤い瞳に、ユータの胸がわずかに鳴った。
「もちろん」
外ではガレスが、魔族の見張りと同じ鍋を挟んで座っていた。
「今度は肉を多めにしろ」
「人族は遠慮を知らないのか」
二人とも口では争いながら、器だけは空だった。
境界の森へ戻ったユータは、石造りの小屋の扉に一枚の板を立てかけた。
炭で書いた文字は、たった二つ。
『食堂』
最初の客が誰になるのか、そのときはまだ誰も知らなかった。
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