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境界の森のレストラン  作者: 海和 喜助


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11/13

戸口を守るもの


「りんが、何かに気づいたみたいで」


 ユータの声は、自分でも嫌になるほど小さかった。


 ガレスが窓の脇へ移る。


「森裂きは、普段はもっと北の岩場にいる。こんな沢沿いへ続けて出るのは、おかしい」


 戸外では、葉が風と違う方向へ揺れていた。


 りんの喉から、低い音が漏れる。


『くる』


 次の瞬間、茂みが裂けた。


 黒い体が敷石へ落ち、四本の腕で地面を叩く。長い爪が石を削り、白い筋を残した。


「奥へ!」


 ガレスが剣を抜いた。


 リゼがサナの腕を引く。ユータも動こうとしたが、膝が卓の脚へぶつかった。椅子が倒れ、その音に魔獣の顔がこちらを向く。


 黄色い目。


 剥き出しの歯。


 頭では戸を閉めなければと思っているのに、手が上がらなかった。


 りんが敷居を越えた。


「りん!」


 呼び声より早く、森裂きの腕が振り下ろされる。


 爪が空を切った。


 りんは低く潜り、後ろ足で地面を蹴った。金色の紋様が額に浮かぶ。


 どん、と鈍い音がした。


 体当たりを受けた魔獣が横へ倒れる。だが、残った腕で地面を掻き、再び跳ね起きた。


「右へ寄せるな! 窓がある!」


 ガレスが戸口から踏み出し、剣を構える。


 りんの耳が動いた。


 森裂きが男へ飛びかかる。その脇腹へ、りんが斜めからぶつかった。巨体が敷石の中央へ転がる。


 今度は、起き上がれなかった。


 首の後ろへ置かれた小さな前足。その下で、四本の腕が激しく震えている。


『ユータ。ここ、いて』


 頭に届いた声は、いつもより短かった。


 ユータは戸板を握った。


「ああ……いる。ここにいる」


     *


 ガレスは魔獣の腕を避けて回り込み、落ちていた長い枝を口元へ差し入れた。鋭い歯が枝を砕く。


 ユータの胃が縮んだ。


 あれが、りんの足だったら。


「縄はあるか!」


 サナが棚の下を指した。


「荷紐の束!」


 ユータは這うように取りに行った。ほどこうとして指が滑る。


 リゼが隣へ膝をつき、結び目を引いた。


「こっちを持って」


 役割を言われると、ようやく手が動いた。


 二人で紐を差し出す。ガレスはまず後ろ脚を縛り、サナの指示で四本の腕を一本ずつまとめた。


「よし。その犬を離してくれ」


 ユータはすぐには呼べなかった。


 押さえていなければ、また襲ってくるのではないか。


 りんも、まだこちらを見なかった。


「大丈夫だ。縛った。俺が見ている」


 ガレスの剣先は、魔獣から動いていない。


「……りん、おいで」


 前足が離れる。


 魔獣は暴れたが、縄は切れなかった。


 戻ってきたりんを、ユータは戸口で抱き留めた。脇腹、足、耳。触れるたびに、りんが身をよじる。


『けが、ない』


「うん。確かめさせて」


 声が震えた。


 りんは抵抗をやめ、ユータの顎を一度だけ舐めた。


     *


「前の個体とは違う。こいつには鼻の傷がない」


 ガレスが言った。


 サナは窓越しに、魔獣の左腕を見ていた。


「そこ、毛が抜けてるね」


 太い縄が、手首へ食い込んでいた。こちらで縛った荷紐ではない。黒く汚れた繊維の先に、折れた木片がぶら下がっている。


「罠を引きちぎったのか」


「誰が、森裂きなんて捕まえるんですか」


 ユータの問いに、ガレスは答えなかった。


「兵を呼ぶ。調べるまでは近づくな」


 男は腰の角笛を取り出し、森へ向けて短く三度吹いた。


 返る音はなかった。


 待つ間、ユータは冷え始めたかまどへ薪を一本足した。


 何もしないでいると、爪が石を削った音ばかり思い出す。


 鍋には、昼の蒸し煮が少し残っていた。


「温めます。皆さんも、少し」


 リゼがうなずき、残ったパンを割った。


 ユータはそれを鍋の縁へ並べる。湿気を飛ばすようにゆっくり焼くと、表面に細かな焦げ目がついた。


 小皿へ蒸し煮を分け、焼いたパンを添える。


 ガレスは戸口から魔獣を見張ったまま、片手で受け取った。


 パンの端を汁へ浸し、噛む。


 かりっとした縁のあとから、熱い肉汁を吸った柔らかな部分がほどけた。巻き菜の甘みと燻した肉の香りが、冷えた口の中へ広がる。


 男は長く息を吐いた。


「……助かる」


 リゼも両手で皿を持っていた。食べようとして、匙が器に触れ、小さく鳴る。


 彼女の手も震えているのだと、ユータは初めて気づいた。


「熱いから、ゆっくり」


「……うん」


 りんはユータの足の上へ座った。


『きょうは、ここ』


 重い。温かい。


 ユータはその背へ手を置いたまま、自分のひと口を飲み込んだ。


 やがて、遠くで角笛が応えた。


 ガレスの肩がわずかに下がる。


 けれど森裂きは、兵の来る東ではなく、北の木立を見つめていた。縛られた体を縮め、何かから隠れるように。

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