戸口を守るもの
「りんが、何かに気づいたみたいで」
ユータの声は、自分でも嫌になるほど小さかった。
ガレスが窓の脇へ移る。
「森裂きは、普段はもっと北の岩場にいる。こんな沢沿いへ続けて出るのは、おかしい」
戸外では、葉が風と違う方向へ揺れていた。
りんの喉から、低い音が漏れる。
『くる』
次の瞬間、茂みが裂けた。
黒い体が敷石へ落ち、四本の腕で地面を叩く。長い爪が石を削り、白い筋を残した。
「奥へ!」
ガレスが剣を抜いた。
リゼがサナの腕を引く。ユータも動こうとしたが、膝が卓の脚へぶつかった。椅子が倒れ、その音に魔獣の顔がこちらを向く。
黄色い目。
剥き出しの歯。
頭では戸を閉めなければと思っているのに、手が上がらなかった。
りんが敷居を越えた。
「りん!」
呼び声より早く、森裂きの腕が振り下ろされる。
爪が空を切った。
りんは低く潜り、後ろ足で地面を蹴った。金色の紋様が額に浮かぶ。
どん、と鈍い音がした。
体当たりを受けた魔獣が横へ倒れる。だが、残った腕で地面を掻き、再び跳ね起きた。
「右へ寄せるな! 窓がある!」
ガレスが戸口から踏み出し、剣を構える。
りんの耳が動いた。
森裂きが男へ飛びかかる。その脇腹へ、りんが斜めからぶつかった。巨体が敷石の中央へ転がる。
今度は、起き上がれなかった。
首の後ろへ置かれた小さな前足。その下で、四本の腕が激しく震えている。
『ユータ。ここ、いて』
頭に届いた声は、いつもより短かった。
ユータは戸板を握った。
「ああ……いる。ここにいる」
*
ガレスは魔獣の腕を避けて回り込み、落ちていた長い枝を口元へ差し入れた。鋭い歯が枝を砕く。
ユータの胃が縮んだ。
あれが、りんの足だったら。
「縄はあるか!」
サナが棚の下を指した。
「荷紐の束!」
ユータは這うように取りに行った。ほどこうとして指が滑る。
リゼが隣へ膝をつき、結び目を引いた。
「こっちを持って」
役割を言われると、ようやく手が動いた。
二人で紐を差し出す。ガレスはまず後ろ脚を縛り、サナの指示で四本の腕を一本ずつまとめた。
「よし。その犬を離してくれ」
ユータはすぐには呼べなかった。
押さえていなければ、また襲ってくるのではないか。
りんも、まだこちらを見なかった。
「大丈夫だ。縛った。俺が見ている」
ガレスの剣先は、魔獣から動いていない。
「……りん、おいで」
前足が離れる。
魔獣は暴れたが、縄は切れなかった。
戻ってきたりんを、ユータは戸口で抱き留めた。脇腹、足、耳。触れるたびに、りんが身をよじる。
『けが、ない』
「うん。確かめさせて」
声が震えた。
りんは抵抗をやめ、ユータの顎を一度だけ舐めた。
*
「前の個体とは違う。こいつには鼻の傷がない」
ガレスが言った。
サナは窓越しに、魔獣の左腕を見ていた。
「そこ、毛が抜けてるね」
太い縄が、手首へ食い込んでいた。こちらで縛った荷紐ではない。黒く汚れた繊維の先に、折れた木片がぶら下がっている。
「罠を引きちぎったのか」
「誰が、森裂きなんて捕まえるんですか」
ユータの問いに、ガレスは答えなかった。
「兵を呼ぶ。調べるまでは近づくな」
男は腰の角笛を取り出し、森へ向けて短く三度吹いた。
返る音はなかった。
待つ間、ユータは冷え始めたかまどへ薪を一本足した。
何もしないでいると、爪が石を削った音ばかり思い出す。
鍋には、昼の蒸し煮が少し残っていた。
「温めます。皆さんも、少し」
リゼがうなずき、残ったパンを割った。
ユータはそれを鍋の縁へ並べる。湿気を飛ばすようにゆっくり焼くと、表面に細かな焦げ目がついた。
小皿へ蒸し煮を分け、焼いたパンを添える。
ガレスは戸口から魔獣を見張ったまま、片手で受け取った。
パンの端を汁へ浸し、噛む。
かりっとした縁のあとから、熱い肉汁を吸った柔らかな部分がほどけた。巻き菜の甘みと燻した肉の香りが、冷えた口の中へ広がる。
男は長く息を吐いた。
「……助かる」
リゼも両手で皿を持っていた。食べようとして、匙が器に触れ、小さく鳴る。
彼女の手も震えているのだと、ユータは初めて気づいた。
「熱いから、ゆっくり」
「……うん」
りんはユータの足の上へ座った。
『きょうは、ここ』
重い。温かい。
ユータはその背へ手を置いたまま、自分のひと口を飲み込んだ。
やがて、遠くで角笛が応えた。
ガレスの肩がわずかに下がる。
けれど森裂きは、兵の来る東ではなく、北の木立を見つめていた。縛られた体を縮め、何かから隠れるように。




