『ニュートピア』第3話:檻の中の選別
1.甘美な報復
神都白鳳の夜は、現実世界のいかなる夜よりも静寂に満ちている。外敵を完全に退ける結界の内部では、風の音すらもシステムによって最適化され、心地よい揺らぎとしてのみ少年の宿舎に届けられていた。
しかし、僕――アバター名『剣斗』の個別スペースに漂う空気は、昨夜から一変して、肺をじりじりと灼くような緊張感に支配されていた。
「――起床時間です。若き兵士諸君、今日も皇帝陛下のためにその肉体を捧げなさい」
午前五時。まだ夜明け前の薄暗い宿舎に、黎華の鈴を転がすような声が響き渡った。
僕は弾かれたようにベッドから起き上がり、素早く白い長袍に袖を通す。カーテンを開けると、通路の中央に立つ黎華の姿があった。
彼女は昨日見せた薄絹の寝衣ではなく、再び階級六五の威厳を示す、銀刺繍の施された深い紺色の長袍を完璧に着こなしていた。その切れ上がった美しい瞳が、新兵たちを順番に捉えていく。
「おはようございます、黎華さん」
同期のロクが、まだ眠気の残る顔を急激に紅潮させながら、嬉しそうに声をかけた。彼をはじめとする他の新兵たちにとって、この美しい大人の女性に私生活を管理される環境は、未だに夢のようなボーナスイベントなのだろう。
黎華はロクに向けて、慈愛に満ちた完璧な笑みを返した。
「ええ、おはよう、ロク。昨夜はよく眠れたかしら? あなたのシーツ、少し乱れていたから、後で私が綺麗に整えておいてあげるわね」
「う、うっす! あざっす!」
ロクの頭上に、小さな【黎華との親愛度:良好】のポップアップが躍る。
しかし、黎華の視線が列の端にいる僕へと移った瞬間、その笑みの形はそのままに、瞳の奥の温度だけが絶対零度へと急降下した。
「……そして、剣斗。あなたには、今日から特別な任務を与えます」
「特別な、任務ですか?」
僕は腰の鉄剣に手をかけながら、黎華の目を真っ直ぐに見つめ返した。昨夜、彼女の誘いを――僕の『種』を差し出し、その庇護下に入るという提案を拒絶したことへの報復が、早くも始まるのだと直感した。
「ええ。我が軍の規律では、兵卒の能力に応じた『適正な負荷』を与えることが推奨されているの」
黎華は細い指先で、携帯型の書簡(システム端末)をタップした。
「あなたは先の山賊襲撃で、新兵の中で唯一の手柄を立てた優秀な個体。ですから、他の皆が通常の剣術訓練を行う間……あなた一人で、宿舎全域の清掃、および軍用馬三百頭の厩舎の肥の汲み出しを行ってもらいます。もちろん、すべて手作業で。これが終わるまで、朝食と昼食の支給はありません」
システムログが、僕の視界を非情に塗り替えていく。
【固有イベント:黎華の試練(強制)】
【内容:厩舎の完全清掃および肥の全量処分】
【制限:午前中。完了するまで『飢餓』状態が継続】
【警告:拒否または未達成の場合、軍規違反として階級が3減少します】
「……っ」
周囲の新兵たちから、同情と、どこか安堵の混ざった視線が僕に突き刺さる。
現在の僕の階級は12。ここで3も減少すれば、第一話の選抜試験の努力が水の泡になり、最底辺の『階級一桁』に逆戻りしてしまう。それは、この女系社会において「一生、馬車の糞拾いをして過ごす」未来へと直結する底なし沼だ。
「どうかしら、剣斗? もし体調が悪いというのなら、私の部屋で少し休んでいってもいいのよ? その代わり……今後のあなたの『身の振り方』について、もう一度じっくり話し合う必要があるけれど」
黎華が、僕にだけ聞こえるような微小な声で囁いた。完璧な美貌の裏にある、システムを利用した狡猾な脅迫。
僕は奥歯を噛み締め、ステータス画面の【精神:16】という数値を睨みつけた。
現実世界の僕――阿久津優亜は、塾の模試でどんなに冷酷な判定を突きつけられても、決して机から逃げ出さなかった。その意地が、今、アバターの肉体を強引に突き動かす。
「……承知しました。黎華殿、ただちに任務に就きます」
僕は深く一礼し、黎華の顔を見ずに宿舎の扉を押し開けた。
背後で、彼女が不愉快そうに鼻を鳴らす気配が、フルダイブの聴覚を通じてリアルに伝わってきた。
2.肥溜めと、ロクの選択
「くそっ、リアルすぎるだろ、このゲーム……!」
午前十時。僕は広大な軍用厩舎の片隅で、巨大な木製の桶を担ぎながら、赤土の地面に膝をついていた。
ツンと鼻を突く、強烈なアンモニア臭と、発酵した馬糞の熱気。
第一話で訓練官が言っていた「肥溜めの掃除」という最底辺の労働を、僕は今、文字通り全身で体験させられていた。
【状態:過労 / 飢餓(全ステータス -30%)】
視界の端の耐久ゲージが、じわじわと減少して赤く点滅を始めている。腹の奥が焼けるように熱く、喉は砂漠のように乾ききっていた。手のひらには、激しい作業のせいで新しいマメができ、それが潰れて生々しい痛みを訴えている。
だが、僕は手を止めなかった。木製のシャベルを泥臭く動かし、ただひたすらに肥を掬い上げ、桶へと放り込んでいく。
(負けるか。これしきのことで、あの女の思い通りにされてたまるか!)
僕が求めたのは、誰かに生殺与奪の権を握られた偽りの楽園ではない。血と泥にまみれても、自分の足で立つ、本物の冒険だ。
その強固な意志が、アバターの限界を強引に引き延ばしていく。
【ピコン!:スキル『肉体耐性』を獲得しました】
【ピコン!:『根性』のレベルが2に上昇しました】
【飢餓および過労によるステータス減少が 15% 緩和されます】
過酷な労働の対価として、システムが僕の肉体を「最適化」していくのを感じた。筋肉の繊維が、この理不尽な負荷に適応するために強靭に作り替えられていくような、奇妙な充実感が全身を駆け抜ける。
「――よお、剣斗。本当にやってるんだな」
不意に、厩舎の入り口から声がした。
振り返ると、そこには通常の剣術訓練を終えたばかりのロクが立っていた。しかし、彼の姿を見て、僕は息を呑んだ。
ロクの着ている長袍は、今朝までの新兵用の粗末なものではなかった。上質な白い絹で仕立てられ、胸元には僕にはない『青い階級章』が鈍く光っている。
「ロク……? その格好、どうしたんだよ」
僕の問いに、ロクは少し気まずそうに視線を彷徨わせた後、どこか開き直ったような不敵な笑みを浮かべた。
「ステータス画面、見てみろよ。俺、さっき『階級30』に上がったんだ」
「階級30!? 一週間で、そんなに上がるわけが――」
「上がるんだよ、この街のルール(システム)ならな」
ロクは自嘲気味に呟き、僕の担ぐ肥桶を見つめた。
「お前が昨夜、黎華さんの誘いを断ったってのは、宿舎のプレイヤーたちの間で噂になってるぜ。お前は馬鹿だよ、剣斗。あの人は、この軍宿舎の管理権限を持ってるんだぞ。……俺はさ、昨日の夜、あの人の部屋に呼ばれて、そのまま『契約』したんだ」
契約。ロクの言葉の意味を、僕の脳が瞬時に理解する。
彼は、黎華の要求に応じたのだ。三五歳を過ぎ、出産のタイムリミットが迫る高階級の女性に、自分の遺伝子を、その若い肉体を差し出したのだ。
「親権がないだの、男のプライドがどうのだの、そんなのただの設定だろ?」
ロクは自分に言い聞かせるように、激しい口調で言葉を重ねた。
「これはゲームなんだよ! 効率よくのし上がるルートがあるなら、それを使うのがゲーマーとして当然だろ。黎華さんを受け入れただけで、俺は訓練を免除されて、一気に階級30の『上位兵卒』になれた。毎月の給与も金貨5枚に増えた。お前みたいに、こんな肥溜めで泥まみれになって、一桁の階級に怯える必要なんてないんだよ!」
ロクの頭上にある【階級:30】の文字が、僕の視界の中でひときわ大きく歪んで見えた。
これが、この神都白鳳の『歪み』の正体だ。
戦って、傷ついて、命を賭けて階級を上げるルート。そして、女性に身を委ね、その繁殖の道具(交配種)となることで、一瞬にして特権階級へと引き上げられるルート。
システムそのものが、男たちのプライドをへし折り、効率という甘い毒で手懐けるように設計されている。
「お前も、今からでも黎華さんに謝って、言う通りにしろよ。お前のステータスなら、俺以上の特権が貰えるはずだ」
ロクはそう言い残し、僕に背を向けて去っていった。その上質な絹の長袍の後ろ姿が、僕にはどうしても、目に見えない強固な『鎖』で縛られているようにしか見えなかった。
「……誰が、引き下がるかよ」
僕はシャベルを地面に突き立て、最後の肥を桶へと放り込んだ。
正午を告げる、神都の中央鐘が鳴り響く。と同時に、僕の視界に緑色の文字が弾けた。
【固有イベント:黎華の試練・完了】
【経験値を大量に獲得しました】
【レベルアップ!:レベル2 → 4】
【市民階級が上昇しました:階級12 → 15】
【筋力、耐久の基礎値が永続的に+2されます】
「はは……、やったぞ」
全身の疲労と飢餓感が、レベルアップの光とともに一瞬で吹き飛んでいく。
黎華が与えた「嫌がらせ」という名の過酷な負荷は、僕自身の【根性】のスキルと組み合わさることで、皮肉にも通常の訓練を遥かに凌駕する『爆発的な成長の糧』へと昇華されたのだ。
僕は自分の泥だらけの手を握りしめ、確かな力の実感を噛み締めていた。
3.祇園の裏の邂逅
試練を乗り越え、階級15に達した僕に、その日の夕刻、新たな任務が下された。
「新兵・剣斗。貴様にはこれより、神都中心部、第一和区の『夜間巡回』を命ずる」
兵舎の広場で案内を出したのは、あの右目に傷を持つ大男――訓練官だった。彼は僕のレベルと階級の急上昇に気づいているはずだったが、何も言わず、ただニヤリと凶暴な笑みを浮かべて僕の肩を叩いた。
「黎華殿のシゴキに耐えたようだな。その頑強な肉体、街のネズミどもの退治に役立ててこい」
僕が向かったのは、夕闇が本格的に街を包み込み、無数の赤い提灯が灯り始めたエリアだった。
そこは、第一話でも訪れた、男たちの立ち入りが厳しく制限された楽園――【祇園】の巨大な外壁が続く一角だった。
昼間の喧騒とは違い、夜の祇園の周辺は、どこか退廃的で、濃密な空気が漂っている。
壁の向こうからは、美しい女たちの嬌声や、大金を支払って入園した富裕層の男たちの笑い声が、風に乗って聞こえてくる。だが、その華やかな表舞台の裏側――僕が巡回している狭い路地は、光の届かない完全な暗がりに沈んでいた。
(本当に、綺麗なだけの街だな……)
僕は腰の鉄剣の柄に手をかけながら、一歩一歩、石畳を踏みしめて進んだ。
ロクは「これはゲームの設定だ」と言った。確かにその通りだ。だけど、このフルダイブのリアルな感覚のなかで、男たちがプライドを捨てて繁殖の道具になり下がり、女性たちが子供の数というシステム上の数値だけで支配階級へと上り詰めていく構造は、僕にとって、生理的な嫌悪感を拭いきれないものだった。
その時だった。
「――誰だっ!?」
路地の奥、祇園の外壁に設置された、業務用の小さな勝手口(木製の扉)の前に、人影があるのを見つけた。
僕の静止の声に、その人影がビクリと肩を揺らす。
月光が、その人物の姿を微かに照らし出した。
「あ……」
僕は思わず、息を呑んだ。
そこにいたのは、薄紅色の絹の衣をまとい、美しい黒髪を後ろで結い上げた、僕と同世代の少女だった。
間違いない。第一話の巡回の際、祇園の門前で、僕たち新兵をゴミ屑を見るような冷たい目で見下ろしていった、あの少女だ。
だが、今の彼女の様子は、あの時の凛とした姿とはまるで違っていた。
彼女の美しい絹の衣は、ところどころが泥で汚れ、細い手首には、何かに強く掴まれたような生々しい『赤い手形』の痕が残っていた。その大きな瞳には、激しい恐怖と、システムによる何らかの異常状態を示す、鈍い紫色の光が明滅している。
「軍の……兵卒? 来ないで……!」
少女は怯えた声で、僕を拒絶するように背後の木扉へと身体を押し付けた。その頭上には、半透明のタグが現れる。
【名前:林檎 / 職業:華官見習い】
【状態:精神拘束(魅了・弱) / 階級:5】
(華官見習い……。彼女もまた、この世界のシステムに組み込まれた住人なんだ)
設定によれば、女子は一二歳から祇園で働き、一七歳から正式な『華官』として働く。彼女の見た目は一四〜一五歳。まさに、大人の女性たちの手伝いをしながら、夜の世界のルールを叩き込まれている最中の「見習い」だった。
「待って、僕は怪しいものじゃない。中央第一軍団の新兵で、ここの巡回任務中だ」
僕は剣から手を離し、両手を上げて敵意がないことを示した。【精神:16】の数値が、僕の声に不思議な落ち着きと、他者を安心させる響きを与えていた。
「状態異常(精神拘束)にかかっているみたいだけど……何があったんだ?」
僕が静かに問いかけると、少女――林檎は、小さく唇を震わせながら、路地の奥、祇園の内部へと続く扉を見つめた。
「……上位市民の、男の人が……。入園料を、私の三倍の階級分も払ったからって……、まだ見習いの私を、無理やり自分の部屋へ連れて行こうとして……」
林檎の言葉に、僕の脳裏に白鳳の冷酷なルールが浮かび上がる。
『入園料を払わないと男性は入ることができない』。逆に言えば、莫大な金を払い、高い階級を持つ男性プレイヤーや上級NPCにとって、祇園の内部は「金を払った分の権利」が完全に保障された空間なのだ。たとえそれが、まだ成人前の見習いの少女であっても、システムの強制力(精神拘束)によって、拒絶することが難しくなる。
「私は……、あんな、自分の母親ほどの年齢の女性たちに囲まれて、子供を産ませるためだけに金を配っているような男の道具になるなんて、絶対に嫌……! だから、結界の隙間を使って、ここまで逃げてきたの。でも、システムの追跡コードが……」
林檎が自分の細い首筋を指差した。そこには、赤く発光する小さな『紋章』が浮かび上がっていた。祇園の管理システムが、脱走した彼女を「違反オブジェクト」として検知しているのだ。
(彼女も、僕と同じだ……)
僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。
ロクのように効率のために身を委ねる者がいる一方で、この世界の狂ったシステム――子供の数で序列が決まり、人間が記号として処理されるディストピアに、必死で抗おうとしている少女が、目の前にいる。
「――見つけたぞ、不条理な脱走者め」
突如として、路地の入り口から、低く不快な声が響いた。
現れたのは、派手な金刺繍の施された長袍を着た、肥満体のプレイヤーだった。その頭上には【階級:45】という高位の文字と、悪趣味なギルドの紋章が躍っている。彼の背後には、祇園の警備担当である、無表情な私兵NPCが二頭立ちはだかっていた。
「おい、そこらの新兵のガキ。その華官見習いは、私が大金を投じて購入した『一ヶ月の指名権』の対象だ。システム的にも私の所有物となっている。さっさとこちらに引き渡せ」
肥満体のプレイヤーが、下卑た笑みを浮かべながら僕を指差した。
林檎が、僕の背中の衣服を、震える指先できゅっと掴んだ。
「お、お願い……。助けて……」
システム画面が、僕の視界に選択肢を突きつける。
【分岐イベント:華官見習いの処遇】
① 少女を上位市民に引き渡す(階級+3、上位市民との親愛度上昇)
② 少女を保護し、上位市民に抵抗する(神都白鳳のシステムに対する『反逆』とみなされる可能性があります)
普通のプレイヤーなら、迷わず①を選ぶだろう。新兵の分際で、階級45の上位市民と、その私兵に逆らうメリットなど何一つないからだ。最悪の場合、ここで殺され、デスペナルティで最底辺へと落とされる。
だけど――。
僕は、現実世界の自分の部屋で、このゲームの規約にチェックを入れた時の情熱を思い出した。
僕は大人たちの敷いたレールの上を歩くために、サバを読んでまでこの世界に来たんじゃない。
誰も見たことのない、僕だけの冒険をするために、ここにいるんだ。
「――断る」
僕は腰の鉄剣を、スラリと引き抜いた。
レベル4、階級15。昼間の過酷な試練によって鍛え上げられた僕の肉体が、月光の下で鋭く躍動する。
「な、んだと……!? 階級15のゴミ屑風情が、この私に逆らうというのか!」
肥満体のプレイヤーが顔を真っ赤にして激昂した。
「やれ! その生意気な新兵の肉体を破壊し、少女を連れ戻せ!」
二頭の私兵NPCが、機械的な動作で大剣を抜き、僕へと突進してくる。
圧倒的な戦力差。だけど、僕の頭脳は、【精神:16】の極限の冴えをもって、路地の狭さ、月光の角度、そして敵の動作の「ラグ」を完全に計算し尽くしていた。
「林檎、僕の後ろにいて」
僕は剣を正眼に構え、深く息を吸い込んだ。
神都白鳳の強固な女系の檻。その巨大なシステムに対する、一四歳の僕の、本当の反逆がここから始まる。




