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『ニュートピア』第4話:檻を穿つ刃

1.路地裏の絶対格差

「やれ! その生意気な新兵の肉体を破壊し、少女を連れ戻せ!」

肥満体のプレイヤー――階級45の『金満キンマン』が放った罵声が、夜の祇園の裏路地に反響した。

直後、無表情な二頭の私兵NPCが、同時にその重厚な鉄剣を抜き放ち、僕へと突進してきた。頭上に浮かぶ文字は【祇園守備隊・レベル20】。現在の僕のレベル4を遥かに凌駕する強敵だ。

「っ……!」

背後で林檎リンゴが小さく息を呑み、僕の長袍の裾をさらに強く握りしめる。彼女の手の震えが、フルダイブの触覚を通じて僕の背中に直接伝わってきた。恐怖に駆られ、現実世界の一四歳の僕の心臓が早鐘を打つ。

(落ち着け。相手はNPCだ。動きのパターンはシステムに依存してる。僕の【精神:16】なら、ラグを視認できるはずだ!)

塾の模試の難問を前にした時のように、僕は脳内の雑音を強引にシャットアウトした。視界の端で、迫り来る私兵たちのブレードの軌跡が、かすかに光の残像となってスローモーションのように見え始める。高い精神値がもたらす、フルダイブ環境特有の『認識加速』だ。

右側の私兵が、大上段から剣を振り下ろす。その軌道は直線的。

僕は一歩、左斜め前へと踏み込んだ。路地の狭さが、逆に相手の剣の可動域を狭めている。

ガキィン!!

私兵の鉄剣が、僕のすぐ脇の石畳を叩き、激しい火花を散らした。衝撃波が僕の頬をかすめ、ペイン・インデックスを通じてじりじりとした熱さを伝える。

「はあああっ!」

僕は姿勢を低く保ったまま、相手の懐へと滑り込み、腰の鉄剣を斜め下方から斬り上げた。

ザシュッ! と肉を切る生々しい手応え。

【耐久:11】を【筋力:14】で補強した僕の一撃は、私兵の革鎧の隙間、脇腹を正確に捉えていた。

【クリティカルヒット!:私兵Aの耐久が 20% 減少】

「なぁにをやっている! たかが階級15の新兵一人に、手間取るな!」

後方で金満がヒステリックに叫ぶ。その声に応じるように、もう一頭の私兵が、僕の死角である左側から横一文字の薙ぎ払いを繰り出してきた。

「剣斗、危ない!」

林檎の叫び。僕は強引に身体を後ろへと反らした。

ブンッ、と鼓膜を震わせる風切り音。辛うじて直撃は避けたものの、剣先が僕の白い長袍の胸元を切り裂き、硬い牛革の胸当てにガチリと浅い傷を刻む。

【耐久:12 → 9】

【状態:軽度裂傷(持続ダメージ 小)】

じわじわと滲み出る痛みが、僕の理性を鋭く尖らせる。

二対一。真っ向から殴り合えば、こちらの耐久値が先に底を突くのは明白だった。しかも、林檎の首筋にある『追跡コード』の赤い紋章は、今もなお明滅を続け、祇園の管理システムに僕たちの位置を通報し続けている。

(ここでこいつらを全滅させる必要はない。……一瞬でも隙を作って、走ればいい!)

僕は視線を路地の上方へと向けた。

祇園の外壁には、夜間照明用の赤い提灯ランタンがいくつも吊るされている。その一つが、ちょうど金満と私兵たちの頭上に位置していた。

「これでも、喰らえ!」

僕は突進してくる私兵の剣をあえて鉄剣の腹で受け流し、その反動を利用して跳躍した。

昼間の「肥溜め掃除」という名の過酷な負荷訓練によって、僕の脚力は新兵の初期値を遥かに超えるレベルにまで引き上げられている。

ザッ、と垂直の石壁を一度蹴り、さらに上方へ。僕の刃が、提灯を吊るしている太い麻縄を正確に切断した。

「ぬ、大火おおびかっ!?」

ドサリ、と燃え盛る巨大な油提灯が、金満たちの目の前に落下した。飛び散る炎と、黒い煙が狭い路地を一瞬にして包み込む。

「目が、前が見えん! 新兵め、どこへ行った!」

「林檎、走るよ!」

僕は着地すると同時に、呆然としていた林檎の手首を強く掴んだ。

「え、あ……、うん!」

僕たちは炎と煙を背に、祇園の白い外壁に沿って、夜の神都のさらに深い暗がりへと向かって全力で疾走し始めた。

2.女帝の介入

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

どれくらい走り続けた片だろう。

壮麗な第一和区を抜け、僕たちが辿り着いたのは、中央軍の宿舎のさらに裏手に位置する、使われなくなった古い資材置き場だった。

高く積まれた木材の影に林檎を隠し、僕も壁に背を預けて荒い息を吐き出す。

【耐久:3 / 12(極度の疲労状態)】

【状態:飢餓(全ステータス -30%)】

再び減少した耐久ゲージ。昼間の労働の疲れが、ここへ来て一気にアバターの肉体を蝕んでいた。手足が鉛のように重く、指先一つ動かすのにも凄まじい精神力が必要だった。

「剣斗……、大丈夫?」

林檎が心配そうに僕の顔を覗き込んできた。月光に照らされた彼女の顔は、先ほどよりも精神拘束の紫色が薄くなっている。僕の反逆によって、金満との距離が離れたため、システムの強制力が減衰したのだろう。

「大丈夫……、これくらい、なんともないよ」

僕は無理に笑顔を作ったが、喉がカラカラに渇いて声が掠れていた。

「それより、君の首のそれ……。どうにかして消せないのかな」

林檎の首筋で、未だに鈍く赤光を放つ追跡コードの紋章。これが消えない限り、金満や、あるいは神都のより強力な憲兵たちが、すぐに僕たちの居場所を突き止めてしまう。

「それは、無理よ」

不意に、暗闇の奥から、冷徹で、それでいて酷く艶やかな声が響いた。

心臓が凍りつくような感覚。木材の影からゆっくりと姿を現したのは、深い紺色の長袍をまとい、優雅に携帯端末を操作している女性――黎華レイファだった。

「黎華、さん……っ」

僕は本能的に鉄剣の柄に手をかけたが、黎華は僕を一瞥すら見せず、ただ冷ややかな笑みを浮かべて林檎を見つめた。

「祇園の華官見習いが、上位市民の指名を拒んで脱走。そして、我が宿舎の新兵が、その脱走を手引きし、上位市民に暴行を加えた……。これが軍の上層部に知れ渡れば、剣斗、あなたの市民階級は『一』に落とされ、二度とこのゲーム――いいえ、この世界で陽の目を見ることはできなくなるわね」

黎華の言葉は、完璧な事実だった。

この白鳳の絶対的なルールにおいて、新兵が上位市民に歯向かうなど、最大の重罪だ。

林檎が怯えたように僕の背後に隠れる。

「……黎華殿。僕を罰するなら、好きにしてください」

僕は林檎をかばうように一歩前に出た。

「だけど、彼女は……林檎は関係ない。彼女はこの街の狂ったシステムに、金を払えば何でも思い通りになるっていう理不尽に、ただ耐えられなかっただけだ」

黎華は僕の言葉を聞くと、わずかに眉を動かした。そして、僕の泥だらけの長袍と、その奥にある【精神:16】の揺るぎない光をじっと見つめ、ふっとため息をついた。

「相変わらず、生意気で、頑固な男の子ね。……昼間の過酷な肥汲みを終えたばかりだというのに、夜には上位市民の私兵二頭を相手に立ち回り、こうして逃げ延びるなんて。あなたの肉体適性と精神値の成長速度、私の見立て以上に凄まじいわ」

黎華は一歩、僕へと近づいた。彼女の衣服から漂う、濃厚な花の香りが鼻腔をくすぐる。

「ねえ、剣斗。私は昨日、あなたに言ったはずよ。『この女系の檻から逃れることはできない』と。……でもね、私はこうも言ったわ。『あなたが軍で出世できるよう、私のコネを使うこともできる』と」

「それが、どういう意味ですか?」

「簡単なことよ。――私は、この事態を『揉み消す』ことができる、と言っているの」

黎華は薄い唇を釣り上げ、不敵に微笑んだ。

「金満という男は、確かに階級45の上位市民だけど、その実態は現実世界で大金をシステムに課金しているだけの『木偶の坊』よ。我が軍の最高位である女性総主教庁に繋がる私の実家(女系)の権力を使えば、あのような男の抗議など、一瞬で握り潰すことができるわ」

驚くべき提案だった。黎華の持つ「権力」の大きさが、このディストピア社会の根深さを物語っていた。

「その代わり……条件があるわ」

黎華の瞳に、昨夜と同じ、獲物を狩る肉食獣のギラギラとした光が戻った。

「この一ヶ月の間に、私を受け入れなさい。私の胎内に、あなたの優秀な遺伝子を植え付け、私を『上位市民』へと押し上げなさい。それができれば、あなたの今回の反逆は、すべて『軍の極秘任務』として処理してあげる。……どうかしら? これ以上の救済策は、この世界には存在しないわよ?」

究極の取引。

ロクが選んだ、あの甘い従属のルートが、さらに巨大な利権を伴って僕の前に提示された。

断れば、階級は1に落とされ、僕も林檎も破滅する。受け入れれば、すべてが許され、僕は黎華の強大な庇護のもとで、エリートとしての道を約束される。

僕は、背中に感じる林檎の小さな体温を意識した。

ここで黎華に従うということは、林檎を救うことにも繋がるかもしれない。だけど……それは同時に、僕自身が、この少女を苦しめている「人間をただの記号と繁殖の道具として扱うシステム」の一部に、完全に成り下がることを意味していた。

(そんなの……、やっぱり、絶対に嫌だ)

僕の【根性:レベル2】が、魂の底からの叫びとなって脳内を駆け巡る。

僕は黎華を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと首を横に振った。

「――お断りします、黎華殿」

「……何ですって?」

黎華の顔から、完璧な笑みがピキリと凍りついた。二度目の拒絶。彼女のプライドは、今度こそ完全に限界を迎えたようだった。

「僕は、あなたの道具にはならない。そして、林檎も、誰の道具にもさせない。僕たちは、この街のルールなんかに関係なく、自分の足で生きていく」

「愚かな……、本当に愚かな子供ね!」

黎華の声が、怒りで激しく震えた。彼女の頭上の【黎華との親愛度:警戒】の文字が、赤黒い【敵対】へと変化する。

「私の慈悲を二度までも踏みにじるとは……! いいわ、そこまで言うなら、あなたたち二人まとめて、今すぐ憲兵団に引き渡して――」

「――おいおい。美しい管理官殿が、夜中に新兵を虐めて、何を楽しんでるんだ?」

突如として、資材置き場の高い木材の上から、別の、野太く低い声が降ってきた。

3.外の世界からの風

「誰だっ!?」

黎華が鋭く上方を睨みつける。

月光を浴びながら、木材の山の上にしなやかに着地したのは、一人の男だった。

その男の格好は、白鳳の軍人のような整った長袍ではなく、獣の皮を繋ぎ合わせた、粗野で強固な野戦用の防具だった。腰には、無数の刃こぼれが刻まれた、実戦の匂いが染みついた長刀を帯びている。

その頭上に浮かぶ文字を見て、僕は息を呑んだ。

【名前:雷牙ライガ / 所属:無所属(山賊頭目) / レベル 32】

「山賊……!? なぜ、この神都の内部に!」

黎華が初めて、明確な動揺の声を上げた。絶対に陥落しない、外敵の侵入を許さないはずの神都白鳳。しかし、第一話の襲撃といい、この男の存在といい、その『絶対の安全』の裏側には、すでに大きな綻びが生じているようだった。

「神都の結界なんてな、裏の流通経路ルートを知っていれば、いくらでも潜り込めるんだよ」

雷牙はニカッと白い歯を見せて笑い、腰の長刀の柄を軽く叩いた。

「それより、管理官の姉ちゃん。そこのガキの言う通りだぜ。子供を何人産んだだの、階級がどうのだの、そんなクソみたいな数字で人間を縛り付けてるこの街は、ハナから腐ってんだよ。……俺たち『外の世界』の人間から見れば、お前ら全員、ただの檻の中の家畜だ」

「無礼な……! 私兵ども、この賊を――」

黎華が端末を操作しようとした瞬間、雷牙の身体が文字通り『消えた』。

凄まじい敏捷値スピード。次の瞬間には、雷牙の長刀の鞘が、黎華の持つシステム端末を正確に弾き飛ばしていた。カラカラと音を立てて、端末が暗闇の奥へと転がっていく。

「っ……!?」

「悪いな、姉ちゃん。俺は、そのシステム仕掛けのオモチャが大嫌いなんだ。……さて、新兵のガキ、それに華官の嬢ちゃん。こっちへ来な」

雷牙は僕と林檎を振り返り、親指で宿舎のさらに裏手、神都の最外周へと続く排水溝のハッチを指差した。

「この街のシステム(檻)が嫌なら、俺たちの世界へ来い。一歩外へ出れば、十以上の国が本気で殺し合ってる地獄だがな……。少なくとも、自分の腕一本、剣一本で、誰の道具にもならずに生きていける自由だけはあるぜ?」

外の世界。

山賊やチンピラと本気の殺し合いになるという、このゲーム本来の超ハードモードの舞台。

林檎は僕の顔を見つめた。彼女の目には、恐れとともに、この街から脱出できるかもしれないという、微かな希望の光が宿っていた。

【緊急分岐イベント:神都白鳳からの脱出】

① 神都に残り、憲兵に降伏する(階級はリセットされますが、安全は保障されます)

② 雷牙に従い、神都を脱出する(『反逆者』となり、白鳳から永久に手配されますが、外の世界の自由を得られます)

僕の答えは、最初から決まっていた。

「……行きます。僕を、外の世界へ連れて行ってください」

僕は泥だらけの鉄剣をしっかりと鞘に収め、雷牙の目を見据えて言った。

「黎華殿」

僕は最後に、呆然と立ち尽くす美しい管理官を見つめた。

「お世話になりました。……肥溜めの掃除、僕のステータスを上げるのには最高のお手本でしたよ」

「剣斗……! あなた、本気で……っ」

黎華の叫びを背に、僕は林檎の手を強く引き、雷牙が開き放った地下排水溝の暗闇へと飛び込んだ。

4.檻の向こうの地平線

暗く湿った、しかしどこか解放感のある地下水道を走り抜け、僕たちが地上へと這い出た時――。

そこには、これまで見たこともない、圧倒的な光景が広がっていた。

「うわあ……」

林檎が歓声とも嘆息ともつかない声を上げる。

僕たちの目の前に広がっていたのは、神都白鳳のあの整えられた朱塗りの街並みではなかった。

どこまでも続く広大な荒野、天を突き刺すような巨大な岩山、そして遥か彼方の地平線で、幾筋もの赤い狼煙のろしが上がっている、本物の戦場の大地。

夜空を見上げれば、神都の内部では決して見えなかった、降るような満天の星々と、巨大な二つの月が、僕たちの行く手を冷たく、しかし等しく照らし出していた。

【エリア移動:神都白鳳・外縁荒野(無法地帯)】

【警告:このエリアではプレイヤー間の戦闘(PK)が完全に許可されています。死亡時のデスペナルティは甚大です】

脳内に響くシステムのアナウンス。それは、僕たちが本当の『ニュートピア』の、過酷で、しかし無限の自由が広がる世界へと足を踏み入れた証拠だった。

「ようこそ、檻の外へ」

雷牙が長刀を肩に担ぎ、不敵に笑った。

「ここから先は、階級も、子供の数も、何の役にも立たない。信じられるのは、自分の剣と、隣にいる仲間の強さだけだ。……行くぞ、ガキども。俺たちの砦へ案内してやる」

「うん……!」

林檎が僕の隣で、力強く頷いた。彼女の首筋の追跡コードの紋章は、神都の結界を越えた瞬間、まるで嘘のようにその光を失い、完全に消滅していた。彼女は今、本当の意味で自由になったのだ。

僕は自分のステータス画面を開いた。

【名前:剣斗】

【レベル:4 / 市民階級:――(剥奪・反逆者)】

【所属:無所属(放浪者)】

【精神:16 / 筋力:14 / 耐久:11(回復中)】

社会的地位(階級)はすべて失った。白鳳の社会におけるエリートへの道も、完全に閉ざされた。

だけど、僕の胸の奥は、これまでにないほどの熱い高揚感で満たされていた。

一四歳の阿久津優亜としての、嘘偽りのない、本当の冒険。この世界のすべての理不尽なルールを、僕自身の力で切り開いていく旅路が、今、この広大な荒野の果てに向かって、確かに始まったのだ。


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