『宮女朱華』帝国の危機
穏やかな日常は、たった一通の緊急伝令によって破られた。
「報——っ! 北方の騎馬民族・胡族、十万の大軍をもって国境の城砦を突破! 直ちに南下を開始いたしました!」
大極殿に早馬の報が飛び込んだのを皮きりに、あたかも緻密に裏で手筈が整えられていたかのように、四方の国境から次々と絶望的な報せが届いたのだった。
東からは海を渡ってきた東夷の連合艦隊が主要な港湾を封鎖。 西からは砂漠の覇者・月氏国が交易路を遮断して侵攻。 南の蛮族までもが重なる密林を抜けて大華帝国の防衛線を脅かしていた。
「四方同時に……! 偶然ではあり得ん。我が帝国の弱体化を狙った、完璧な包囲網か!」
大極殿の重臣たちが騒然となる中、玉座に座す皇帝・李蓮は微動だにしなかった。 その漆黒の瞳は、まるで静水のように澄み渡り、冷徹な光を宿している。
「狼狽えるな」
一言。李蓮の低く重厚な声が響くだけで、殿内の喧噪が一瞬にして静まり返った。
「敵の狙いは、我らが動転し、指揮系統が混乱することにある。各地の駐屯軍に防衛命令を発令。商用サービス『ヴァーチャル・ダイブ』の『S4』超睡眠学習システムにより、私は睡眠中の僅かな時間で数ヶ月分に及ぶあらゆる軍略を想定してきた。この程度の攻勢、織り込み済みだ」
李蓮は静かに立ち上がり、腰の宝剣の柄に手を置いた。
「北方の胡族十万は、我が直率する近衛兵および中央軍をもって迎え撃つ。私が自ら陣頭に立つ」
「へ、陛下!? 皇帝自らの出征など、あまりに危険でございます!」 重臣たちが一斉にひざまずき、声を張り上げて引き止める。
しかし、李蓮の決意は揺るがなかった。 「一番の脅威は北の騎馬軍団だ。ここを破らねば、大華帝国の存続はない。私が自ら立ち、奴らの出鼻をくじく」
◆
その夜、鳳凰殿。
朱華(高橋ひな)は、李蓮の出陣の支度を自らの手で行っていた。 漆黒の甲冑に金の龍が躍る重厚な鎧。それを李蓮の身体に合わせ、紐をひとつひとつ結び直していく。
手先が微かに震えていた。
「朱華」 李蓮がそっと彼女の手に自分の手を重ねた。
「……怖いです、李蓮様」 朱華は伏せっていた目を上げ、まっすぐに夫を見つめた。
「四方からの侵攻……そして、あなたが自ら戦場へ赴くなんて。私、胸が押しつぶされそうで……」
現実に生きる高校3年生の高橋ひなにとっても、そして仮想現実の世界で大華帝国の皇后として生きる朱華にとっても、これほどの危機は初めてだった。睡眠学習システム『S4』が生み出すあまりにもリアルな臨場感と時間体感は、受験勉強に追われる彼女の心に、容赦ない重圧と恐怖を叩きつけていた。
心労により、朱華の顔色は青白く、唇も乾いていた。
しかし、李蓮は愛おしそうに彼女の頬を撫で、優しく微笑んだ。
「大丈夫だ、朱華。私は必ず生きてお前の元へ戻る。だから……私に背後を預けてはくれまいか」
「背後を……?」
「私が北の敵を叩いている間、この都、そして皇宮を守れるのはお前しかいない。幼い蒼を護り、動転する臣下たちを統べ、この城塞を死守してほしい」
李蓮の瞳には、妻に対する絶対的な信頼が宿っていた。
「私が出陣すれば、都の留守を狙う不穏分子や、他の三方からの敵の圧力がこの皇宮に集中するだろう。だが、お前ならば……我が妃、朱華ならば、この城を守り抜けると信じている」
その言葉に、朱華の胸の深奥で、何かがカッと熱く燃え上がった。
(私は……ただ守られるだけの女子高生じゃない。李蓮様が背後を気にせず全力で戦えるように、この家を、この国を守るんだ……!)
朱華は深く息を吸い込み、震える手を強く握りしめた。
「わかりました、陛下。……この命に代えましても、鳳凰殿と都、そして蒼を護り抜いて見せます。どうか、ご無事で……!」
李蓮は満足そうに深く頷くと、朱華を強く抱きしめ、額に固い口づけを落とした。
第二章 孤立無援の都と皇后の覚醒
翌朝、皇帝・李蓮は十万の精鋭を引き連れ、北方の戦場へと出陣していった。
皇帝の不在。それは都の臣下や民にとって、底知れぬ不安の始まりだった。 数日と置かずして、恐れていた事態が勃発する。
南方の蛮族と手を結んだ旧・左相国の残党軍二万が、手薄になった都へ向け急襲を仕掛けてきたのだ。さらに、西の月氏国の別動隊も都の西門へと迫りつつあった。
都を護る留守居の兵は、わずか五千。
「もうおしまいだ! 皇帝陛下は遠く北の地! 我らは挟み撃ちにあって討ち死にするのだ!」 「降伏しよう! 降伏して命だけは助けてもらうのだ!」
大極殿では、文官たちがパニックに陥り、怒号と悲鳴が飛び交っていた。指揮をとるべき留守居役の将軍すらも顔を蒼白にし、腰を抜かしている。
その時——。
「静まりなさい!!」
雷鳴のような一声が殿内に響き渡った。
文官たちが驚愕して振り返ると、そこには豪華絢爛な鳳凰の正装を纏った皇后・朱華が立っていた。 その傍らには、四歳になる第一王子・李蒼が、母の手を握りしめ、幼いながらもキッと前を見据えて立っている。
朱華の瞳には、先ほどまでの心労の影は微塵もなかった。 そこにいたのは、愛する夫から都を託された、威厳に満ちた一国の「皇后」その人であった。
「降伏など、万死に値する暴言です! 陛下は北の地で、帝国の未来を賭けて血を流しておられるのですよ! その背後で、城を守るべき私たちが真っ先に牙を折ってどうするのですか!」
「し、しかし皇后様! 敵は二万を超え、我が軍はわずか五千! 勝ち目など……!」
「数字の多寡で勝敗が決まるなら、戦術など存在しません!」
朱華は階段を毅然とした足取りで下り、動転する将軍の前に立った。
現実世界での高校3年生としての受験勉強——世界史で習った古代の城郭都市の防衛戦術や、受験用暗記として『S4』システムで脳内に叩き込まれた膨大な知識が、ひなの脳内で瞬時に組み上げられていく。『樹林』のシステムが、彼女の知識と精神力を極限まで引き出していた。
「都の城壁は厚く、濠もある。西門の橋を落とし、弓兵を城壁の上に集中配置しなさい! 南の湿地帯には油を撒き、敵が踏み込んだ瞬間に火矢を放つのです!」
テキパキと下される明瞭かつ理にかなった指示に、将軍や文官たちは呆気に取られた。
「さらに、皇宮の倉庫に眠る兵糧と備蓄品をすべて開放し、城内の民に分け与えなさい。『皇后が共に戦い、民を護る』と伝えるのです。民の士気を上げれば、五千の兵は五万の壁となります!」
朱華は幼い蒼の肩に手を置いた。
「蒼も、私も、この城から一歩も引きません。陛下が帰還されるその日まで、この都を死守します!」
その言葉と、堂々たる佇まいに、殿内の空気がガラリと変わった。 腰を抜かしていた将軍が、ガバッとひざまずく。
「……臣、不覚を恥じ入るばかりにございます! 皇后殿下のご命に従い、この身を粉にして都を守り抜きます!」
「我らも! 皇后殿下とともに!」
動揺していた臣下たちの心が一つの固い意志で束ねられた瞬間だった。
第三章 血戦の城壁
猛攻が始まった。
「打てーっ! 敵を寄せ付けるな!」
城壁の上で、朱華は自ら甲冑の上に鳳凰の羽織を纏い、太鼓のバチを握りしめて指揮を執っていた。
ドォン! ドォン! と、朱華が打ち鳴らす戦鼓の音が、兵士たちの腹の底に響き渡る。
「皇后様が自ら陣頭に立っておられるぞ!」 「城を守れ! 敵を押し返せ!」
皇后が城壁の上に立ち続け、危険を顧みずに鼓舞する姿に、兵士たちの士気は限界突破していた。
西門では、朱華の指示通りに橋が落とされ、押し寄せた月氏国の騎兵が堀へと転落。上空から降り注ぐ矢の雨によって敵軍は大混乱に陥った。
南門では、油を撒いた湿地帯に足を取られた残党軍に対し、一斉に火矢が放たれた。激しい炎の壁が上がり、敵の悲鳴が都の空にこだまする。
しかし、敵の数もまた膨大だった。 昼夜を問わぬ猛攻に、城壁の兵たちは疲弊し、傷ついていった。
三日三晩。朱華は一秒たりとも横にならなかった。 現実世界であれば、受験勉強の疲労と重なって倒れていてもおかしくないほどの精神的・肉体的負担。だが、現実の脳波を巧みにコントロールする『樹林』のサポートと、「李蓮との約束を守る」という強烈な意志が、彼女の身体を支え続けていた。
「母上、お水です」
四歳の蒼が、小さな手で木彫りの杯を差し出してきた。 幼い蒼もまた、怯えることなく、城壁の裏で傷ついた兵士たちに布を運ぶ手伝いをしていたのだ。
「ありがとう、蒼……。怖くはないですか?」
朱華が杯を受け取り、蒼の頭を撫でると、幼い王子は力強く首を振った。
「怖くありません! 父上が勝って戻られるまで、僕が母上とこの城を守るのです!」
「……ええ。ええ、そうですね」
朱華は溢れ出そうになる涙を必死にこらえ、蒼を強く抱きしめた。 この小さな命、そしてこの国を守るためなら、自分はどんな悪魔にでもなれる。
四日目の夜。ついに敵の総攻撃が城門を打ち破ろうとしていた。 巨大な破城槌が、重厚な城門を何度も叩きつける。
ズドォン! ズドォン!
「城門が持たん! 破れるぞ!」 兵士たちに動揺が走る。
朱華は太鼓のバチを捨て、自ら剣を抜いた。
「全軍、城門の裏へ集結しなさい! ここが正念場です! 門が破れたら、私が先陣を切ります!」
「殿下!? それはなりませぬ!」 将軍が叫ぶが、朱華の瞳は燃え上がる炎のように爛爛と輝いていた。
「私は大華帝国の皇后、李蓮の妻です! 敵に背を見せるくらいなら、ここで華々しく散ります! 皆、私に続きなさい!!」
『うおおおおおおおっ!!』
絶望に包まれかけていた兵士たちの腹から、野獣のような雄叫びが上がった。 死を恐れぬ皇后の覚悟が、兵士たちの魂に火をつけたのだ。
城門の木屑が弾け飛び、ついに扉が押し開かれた。敵兵たちが雪崩のように雪崩れ込んでくる。
「者共、突撃——っ!!」
朱華が剣を掲げ、叫んだその瞬間であった。
第四章 漆黒の風と勝利の咆哮
バシューッ!!
夜空を切り裂いて飛来した数本の巨大な槍が、城門へ雪崩れ込もうとしていた敵の先頭集団を穿ち、地へと縫い付けた。
「な、なんだ!?」
困惑する敵軍の背後、地平線の彼方から、大地を激しく揺らす地鳴りのような騎行音が響き渡った。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ——!!
暗闇の中から現れたのは、漆黒の甲冑を纏い、返り血で真っ赤に染まった龍の旗を掲げる一団。
その先頭を走るのは——。
「そこまでだ、不忠の逆賊どもめ!!」
雷霆のごとき咆哮とともに、黒馬を駆る男が閃光のごとく敵陣へ突入した。 手にした大槍が一閃するたびに、敵の兵士たちが空へと舞い上がる。
「へ、皇帝だ……! 皇帝・李蓮が戻ってきたぞーっ!!」
敵軍から狂乱の悲鳴が上がった。
北の十万の胡族軍を、不眠不休の電撃戦によってわずか三日で壊滅させ、そのまま馬を乗り換えて不眠不休で都へと駆け戻ってきた——漆黒の魔神、李蓮であった。
「我が妻、我が子、我が都に手を出す愚か者どもよ……一人として生かして帰さん!」
李蓮の率いる精鋭近衛騎兵軍団が、挟み撃ちの形で敵の背後を蹂躙していく。 城門を守っていた兵士たちからも、地鳴りのような歓声が上がった。
「陛下がお戻りになられたぞーっ!」 「全軍反撃! 敵を討ち払えーっ!」
城門の裏から朱華率いる防衛軍が打って出て、内と外からの挟み撃ちとなった敵軍は、ものの短時間で完全に壊滅・無力化されたのだった。
第五章 鳳凰の城塞と永遠の絆
朝焼けの光が、都の城壁を赤く染め上げていた。
激しい戦闘の終わりを告げる静寂の中、李蓮は馬から降り、血に濡れた甲冑のまま、開け放たれた城門へと歩みを進めた。
その視線の先——。 手に剣を握りしめ、ボロボロになりながらも気高く立ち続ける朱華の姿があった。
「……朱華」
李蓮の声が、微かに震えていた。
朱華は剣を地面に落とすと、もつれる足で走り出した。
「李蓮様……! 李蓮様……っ!」
二人は激しく抱き合った。 甲冑の冷たさと、その奥にある熱い体温。血と汗の匂い。 李蓮は力強く朱華を腕の中に閉じ込め、彼女の髪に何度も何度も顔をうずめた。
「よく守ってくれた……よくぞ無事でいてくれた、朱華……!」
「あなたが……あなたが無事に戻ってきてくださると、信じていました……っ」
朱華の目から、溢れ出る涙が止まらなかった。 極限の緊張から解放され、夫の腕の中で子供のように声を上げて泣いた。
そこへ、城門の陰から小さな影が走ってきた。
「父上ーっ!」
「蒼!」
李蓮は片腕で朱華を抱きしめたまま、もう片方の腕で走ってきた蒼を一気に抱き上げた。
「蒼……お前も、母上をよく守ったな。立派な皇太子だ」
「はい! 僕、泣きませんでした! 母上と一緒に、城を守りました!」
李蓮は感極まったように、二人を同時に強く、強く抱きしめた。
都の兵士たち、そして城壁の陰から様子を見ていた民たちが、一斉に膝をつき、割れんばかりの歓声を上げた。
『皇帝陛下、万歳! 皇后殿下、万歳! 大華帝国、万歳!!』
朝焼けの黄金の光が、傷つきながらも立ち尽くす鳳凰の城と、しっかりと抱き合う三人の家族を温かく照らし出していた。
◆
ピピピピ、ピピピピ。
現実世界の朝を告げるアラームが響いた。
高橋ひなはゆっくりと目を開け、見慣れた自分の部屋の天井を見つめた。 頭から最新型VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』を外すと、全身に心地よい満足感と、それ以上の圧倒的な達成感が満ちていた。
「……やり切ったんだ、私」
自分の手を見つめる。 画面の向こう、仮想世界での激闘。 極限の状況下で都を守り抜き、夫である李蓮と愛する息子の蒼とともに生き残った記憶。
それは単なるVRゲームの体験を超え、高校3年生という受験期でプレッシャーに押しつぶされそうだった彼女の精神を、根本から逞しく、強く成長させていた。
「ひなー! 朝ごはんよ! 今日は模試の日でしょう、早く起きなさい!」 階段の下から、母の声が聞こえる。
「はい! 今行く!」
ひなは元気よく返事をすると、ベッドから飛び起きた。
制服に袖を通し、鏡を見る。以前までのどこか自分に自信が持てなかった表情は消え、そこには力強い眼差しをした一人の少女が立っていた。
『S4』の超睡眠学習システムにより、睡眠中に日中の数百倍とも言える圧倒的な学習効果と精神補完を得たひなにとって、大学受験の模試など、もはや怖れる対象ではなかった。
「ふふ……十万の敵を前にしても諦めなかったんだもの。受験なんて、絶対に乗り越えて見せるわ」
ひなはカバンに筆記用具を詰め込むと、自室の机の上に置かれた『フルダイブ・バルブ』にそっと微笑みかけた。
現実がどんなに困難な壁を突きつけてこようとも、彼女はもう逃げない。 なぜなら彼女には、立ち向かう強さと、夜になれば温かく迎えてくれる「もう一つの世界」と「最高の家族」がいるのだから。
(終幕)




