↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/114

『宮女朱華』ダイブ5年の歳月

「母上、見てください! 庭園の牡丹が、こんなに大きく咲いています!」

朱色の回廊を、小さな靴音が軽やかに響いていく。 深緑の絹地に金の刺繍が施された小さな衣装を揺らし、振り返った少年の瞳は、まるで秋の澄み切った空のように深く、透き通っていた。

第一王子、李蒼リソウ。御歳、四歳。

「蒼、回廊を走っては転んでしまいますよ。ほら、お召し物が乱れております」

追いついた女性——大華帝国の皇后となった朱華しゅかは、優しく微笑みながら腰を落とし、蒼の小さな胸元を丁寧に整えた。

五年の歳月が流れていた。

かつて平民の宮女として東宮に上がり、数々の陰謀や波乱を乗り越えて皇太子・李蓮の正妻となった朱華。先帝の崩御に伴い、李蓮が即位して皇帝となってからは、彼女もまた全土の民から敬愛される皇后となっていた。

そして、二人ふたりの愛の結晶として生まれたのが、この李蒼であった。

「母上、父上はお忙しいのですか? 今日は一緒に『小弓こゆみ』の練習をしてくださると約束したのです」

蒼は少しだけ唇を尖らせ、愛らしく眉をひそめた。その面影は、若き日の李蓮に驚くほどよく似ている。

「陛下は今、北方の使者とお会いになっておられます。ですが、蒼との約束を忘れるような方ではありませんよ」

朱華が蒼の柔らかい頬を撫でたその時、回廊の奥から重厚で温かい声が響いた。

「左様。私が息子の蒼との約束を忘れるはずがなかろう」

振り返ると、そこには深い紫に金の九頭龍が躍る帝衣を纏った男が佇んでいた。 大華帝国第十五代皇帝、李蓮。

五年の歳月は、彼の纏う雰囲気をより一層気高く、堂々たるものへと変えていた。しかし、その漆黒の瞳に宿る温かな光と、朱華に向ける甘やかな慈愛は、かつて出会った頃と何一つ変わっていない。

「父上!」

蒼が顔を輝かせて駆け寄ると、李蓮は豪快に腕を伸ばし、一気に我が子を抱き上げた。高い高いと持ち上げられた蒼は、弾けたような歓声を上げる。

「どうだ蒼、今日の勉強は終わったか?」

「はい! 太師たいし様から『論語』の一説を暗記するよう言われ、すべてそらんじて見せました!」

「ほう、さすがは我が息子だ」

李蓮は満足そうに目を細めると、蒼を抱っこしたまま歩み寄り、朱華の額へそっと優しく口づけを落とした。

「待たせたな、朱華。今日の公務はこれで終わりだ。家族の時間を過ごそう」

「お疲れ様でございました、陛下。お茶の用意をしております」

朱華の微笑みに、李蓮もまた深く頷く。

ここは、北海道ニセコに鎮座するスーパーコンピュータ『樹林ジュリン』が生み出すフル体験型VRゲーム『ヴァーチャル・ダイブ』の世界。 1万5000台のゲーム機が紡ぎ出す膨大なデータは、年月の経過とともにさらに深化し、完璧なひとつの歴史と生命のドラマを紡ぎ続けていた。

第二章 現実リアル仮想バーチャルの調和

その日の夜。皇宮の奥深くにある鳳凰殿の寝所で、蒼がすやすやと寝息を立て始めた。

小さな寝顔を見つめながら、朱華——現実世界での高橋ひなは、そっと自分の手を見つめた。

五年の歳月は、現実世界のひなにとっても大きな変化をもたらしていた。 高校生だった彼女は現在、大学の文学部で東洋史を専攻する二十一歳の大学生となっていた。

『ヴァーチャル・ダイブ』の運用システムは、佐藤志乃率いる事業体によってさらに洗練されていた。 睡眠学習システム『S4』を応用した超効率的な時間体感技術により、現実世界での睡眠数時間が、仮想空間内では数ヶ月、数年という密度の濃い経験として脳内で処理される。

かつてのひなのように「現実逃避」として世界に溺れるのではなく、現実の人生を豊かにするための「もう一つの人生」として、この世界を愛せるようになっていた。

(現実の私も、もうすぐ二十二歳。大学の論文で大華帝国の宮廷文化について書いて、教授にすごく褒められたっけ……)

ひなが思考を巡らせていると、背後から温かい腕が伸び、彼女の細い腰を優しく抱き寄せた。

「何を考えている、朱華」

耳元で響く、李蓮の低い声。彼の胸の温もりと、変わらない沈香の香りがひなを包み込む。

「……これまでのことを、少し思い出しておりました。陛下と出会い、宮女から后となり、そして蒼が生まれて……すべてが夢のように幸福で」

李蓮はふっと優しく口元を緩め、ひなの髪に顔をうずめた。

「夢ではない。お前が私に与えてくれた温もりも、蒼がもたらした歓びも、すべてここに存在する真実だ。お前が現実という世界で強く生き、この世界へ帰ってきてくれるからこそ、私もまた皇帝として立つことができる」

李蓮の言葉に、ひなは胸が熱くなった。

かつて『自我の不測の補完』システムが作動しかけた時、李蓮は彼女に「堂々と現実を生きろ」と背中を押してくれた。その言葉があったからこそ、ひなは現実世界で逃げずに立ち向かい、成長することができたのだ。

そして今、二つの世界は互いを傷つけることなく、美しく調和していた。 現実のひなが成長するに従い、仮想世界の大華帝国もまた、平和で豊かな黄金期を迎えていたのだった。

「陛下……蒼は、どんどんあなたに似ていきますね。頑固なところまでそっくりです」

「ふっ、私に似て何が悪い。いずれはこの広大な帝国を背負う男だ。頑固なくらいがちょうど良い」

「もう……親バカなのですから」

ふたりは顔を見合わせ、静かにクスリと笑い合った。

第三章 陰謀の影と父としての決意

だが、平和に見える帝国の裏側では、微かな不穏な風が吹き始めていた。

翌日、大極殿での政務を終えた李蓮の元に、密偵からの報告が届いた。

「陛下、旧・左相国の一派の残党が、極秘裏に動きを見せております。彼らは北方諸国と手を結び、第一王子・李蒼殿下の立太子りったいしの儀を狙って暴動を計画している模様です」

報告を聞いた李蓮の瞳に、氷のような冷徹な光が宿った。

「愚かな……。かつて朱華を陥れようとして失脚した者どもが、今度は私の息子に牙を剥くか」

かつて皇太子だった頃の李蓮であれば、単身で敵陣へ乗り込み、冷酷に粛清して終わりだっただろう。しかし、今の彼には守るべき「家族」があった。

「陛下、いかがなさいますか? 警備を理由に、蒼殿下の立太子の儀を延期なさいますか?」

臣下の問いに、李蓮はゆっくりと首を振った。

「否。儀式は予定通り行う。逃げ隠れすれば、奴らはつけ上がるだけだ。我が息子の旅立ちの儀を、そのような不忠の輩に邪魔させてなるものか」

李蓮は立ち上がり、窓の外に広がる壮大な都を見下ろした。

「全近衛兵を配置につけよ。ただし、朱華と蒼には余計な心配をかけるな。祭典の裏で、すべてを完璧に処理する」

「御意!」

李蓮の手が、固く握りしめられた。 皇帝としての威厳と、父としての絶対的な決意。どんな陰謀があろうとも、自分が築き上げたこの平和と、愛する妻子の未来を断じて脅かさせはしない。

第四章 立太子の儀と輝く絆

そして訪れた、立太子の儀当日。

大華帝国の都は、色とりどりの旗と眩い飾りに彩られ、全土から集まった数万の民の歓声に包まれていた。

大極殿へと続く白玉石の巨大な階段。 その頂点には、金糸の龍袍を纏った皇帝・李蓮と、鳳凰の冠を戴いた皇后・朱華が並んで立っていた。

そして、その中央を歩み登ってくるのが、第一王子・李蒼であった。

四歳とは思えぬ堂々とした足取り。その手には、父から与えられた小さな宝剣が握られている。

(蒼……なんて立派になったのでしょう)

朱華は胸を詰まらせながら、息子の姿を見つめていた。 五年前、右も左も分からなかった自分たちが、今こうして一国の未来を紡ぐ小さな命を育て上げ、民の前に立たせている。その事実が、たまらなく愛おしかった。

しかし、蒼が階段の中央に差し掛かったその時——。

祭典の楽隊の中に紛れていた数名の不審者が、突如として衣装を破り捨て、隠し持っていた刃を抜いた。

「今だ! 偽りの皇帝と、その血を引くガキを討て!」

悲鳴が沸き起こり、場が騒然となる。

だが、李蓮の表情は微動だにしなかった。

「動くな、朱華」

李蓮は静かに告げると、一歩前に踏み出した。 次の瞬間、周囲の建物や物陰から、影のように近衛兵たちが一斉に跳び出し、刺客たちを取り囲んだ。

「なにっ! 待ち伏せだと!?」

「浅はかな奴らめ」

李蓮の低い声が、階段全体に響き渡った。

「我が帝国を乱し、我が愛する家族に刃を向けた罪、万死に値する。者共、一人残らず捕らえよ!」

近衛兵たちの鮮やかな連携により、刺客たちは一瞬にして取り押さえられ、縄を打たれた。祭典の混乱は、ものの数分で完全に収束したのだった。

恐怖に震えることなく、じっとその光景を見つめていた蒼は、刺客たちが連行されると、再びしっかりと前を向き、父と母の元へと歩みを進めた。

階段を上りきった蒼は、両膝をつき、丁寧に頭を下げた。

「父上、母上。蒼は、恐れませんでした。父上と母上が守ってくださることを、知っていたからです」

その言葉に、李蓮の目元が緩んだ。 李蓮は屈み込み、蒼の肩を力強く抱きしめた。

「よく言った、蒼。お前は今日から、この帝国の正式な後継者だ。民を愛し、母を尊び、正しい道を歩むのだぞ」

「はい、父上!」

李蓮は蒼の手を取り、朱華の手を引き、臣下と民たちの前へと踏み出した。

『皇帝陛下、皇后殿下、皇太子殿下! 千歳! 千歳! 千千歳!』

地鳴りのような歓声が都全体を揺らし、天高く舞い上がっていく。 三人は互いに顔を見合わせ、満開の笑顔を咲かせた。

第五章 繋がる世界、未来への光

祭典の夜。賑やかな宴が終わり、皇宮に静寂が戻ってきた。

すっかり疲れ切った蒼は、宝剣を抱きしめたまま、すやすやと幸せそうな寝息を立てて眠っていた。

庭園に面した回廊に、李蓮と朱華の二人が並んで座っていた。夜空には、満月が青白い優美な光を注いでいる。

「……蒼の立太子も無事に終わり、これで一安心ですね、陛下」

朱華がそっと李蓮の肩に頭を預けると、李蓮は彼女の肩を優しく抱き返した。

「ああ。これでお前も、現実の世界へ安心して戻れるだろう」

李蓮のその言葉に、ひなは少しだけ驚いて顔を上げた。

「……気づいておられたのですか?」

「当然だ。お前が現実世界で大学の重要な試験を控えていることくらい、私には分かる。お前が向こうで全力を尽くせるよう、私もこの世界で全力を尽くしたのだからな」

李蓮の瞳には、深く、温かい理解の光が宿っていた。

スーパーコンピュータ『樹林』を介して繋がる二つの世界。 かつては「偽物の現実」と「本物の現実」として引き裂かれそうになった二つの場所は、今やひなという存在を通じて、互いを高め合う豊かな「二つの人生」となっていた。

「ありがとうございます、陛下……いいえ、李蓮様」

ひなは李蓮の唇に、そっと自分の唇を重ねた。 その熱量は、どんな言葉よりも深く、リアルに心へと響いた。

「私は、現実の世界でも頑張ってきます。そしてまた、大好きなあなたと蒼の元へ還ってきます」

「ああ、待っているぞ。私の愛しい皇后、高橋ひな」

李蓮が彼女の本当の名前を優しく呼んだ瞬間、視界が心地よい光の粒子に包まれ始めた。

朝を告げるシステムアラームの優しい音が、遠くから聞こえてくる。 ひなは微笑みながら、最後にもう一度、愛する夫の姿を目に焼き付けた。

ピピピピ、ピピピピ。

朝の清々しい光が差し込む部屋で、高橋ひなはゆっくりと目を開けた。

頭から『フルダイブ・バルブ』を静かに外すと、全身に心地よい充実感が満ちあふれていた。五年の月日を共に歩んだ大華帝国での記憶は、クリアで温かい宝物として胸の中に根づいている。

「よーし! 今日も一日、頑張ろう!」

ひなはベッドから跳ね起きると、窓を大きく開けた。 初夏の爽やかな風が、彼女の部屋を駆け抜けていく。

デスクの上には、東洋史の卒業論文の原稿が整然と並んでいた。タイトルは『大華帝国における宮廷社会と家族像の変遷』。

そこには、彼女が仮想世界で実際に見て、体感し、愛してきた「生きている歴史」のすべてが込められていた。

『ヴァーチャル・ダイブ』。 北海道ニセコの地で生まれたその技術は、ただの娯楽を超え、人が現実をより強く、豊かに生きるための「翼」となっていた。

ひなは机に向かい、ペンを握りしめた。 現実の世界で自分の未来を切り拓くために。そして、夜になれば再び、愛する夫と息子が待つ「もう一つの我が家」へと潜るために。

彼女の瞳は、朝の光を受けて、蒼空のようにどこまでも澄み渡っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。