黒猫エドワード。黒猫先祖の墓参りをする。
「『ダイブ』スタート」
自室のベッドに横たわり、聡太は頭部に装着した重厚なヘルメット――『フルダイブ・バルブ』の冷却ファンが静かに唸りを上げる音を聞いていた。
視界を覆う漆黒のバイザーに、青白い幾何学模様のUIが浮かび上がる。視覚、聴覚、感覚、そして嗅覚に至るまで、生体の神経信号を人工データへと置換する最新鋭のフルダイブVRゲームシステム『ヴァーチャル・ダイブ』。それは望んだ者が、望んだ世界で、望んだ姿になれる約束された夢の領域だった。
【ユーザー認証:聡太(SOTA)】 【アバター選択:『エドワード』】 【ログイン領域:日本・幕末~明治初期階層 『霊山・猫影の里』】
息を吸い込むような浮遊感とともに、意識が急速に引きずり降ろされていく。五感が現実の肉体から切り離され、デジタルで構築された広大な仮想空間へと接続された。
「……ん」
まぶたを開く。いや、正確には「まぶたを開いた感覚」が脳に直接送られてきた。 目の前に広がっていたのは、夕暮れ時の赤紫色の空と、青々とした苔に覆われた古代の竹林だった。風が竹葉を揺らすサワサワという音が、異様なほど生々しく耳に響く。
聡太はふと己の手――ではなく、前脚を見た。 そこにあるのは、艶やかな漆黒の毛並みに包まれた小さな肉球だった。後ろを振り向けば、しなやかにしなる一本の黒い尾。
アバター名:エドワード。 毛色は一切の混じりけがない純黒。金色の瞳を持つ、小柄だが引き締まった黒猫のアバターだ。
「よし、感触は完璧だな。肉球の接地感もリアルだ」
エドワードは前脚をグッと伸ばし、猫特有のストレッチをした。背骨が心地よく伸びる感覚すら忠実に再現されている。
エドワードがこの地を訪れた理由はただ一つ。
黒猫の先祖――『権三郎』の墓参りをするためだった。
◇
権三郎。それはこの『ヴァーチャル・ダイブ』の歴史伝承イベント・エリアにおいて、知る人ぞ知る伝説の黒猫である。
時は幕末。動乱の京都において、ある貧乏長屋の侍に飼われていた一匹の黒猫がいた。その名は権三郎。一見するとただの愛くるしい野良あがりの黒猫だったが、夜な夜な街に繰り出し、人知れず街を脅かす「怪異」や「影の刺客」と戦い、長屋の住人たちを守り抜いたという。
最後は、長屋を襲った大火のさなか、逃げ遅れた子供を守るために炎の中へ飛び込み、そのまま姿を消したとされる。後に住人たちは彼を「影の守護神」と称え、竹林の奥深くに小さな猫塚を建てた。
聡太がなぜこの伝説に惹かれたのか。 それは、かつて現実世界で実家で飼っていた黒猫「クロ」の面影を、権三郎の逸話に重ねていたからかもしれない。そして、このゲームの公式設定において「権三郎の血を引くアバター(黒猫限定)」で墓参りをすると、特殊なエピソードが解放されるという隠し要素の噂をネットの掲示板で目にしたからだ。
「竹林を抜けた先の、風の渡る丘……だったな」
エドワードは四足歩行の感覚に身体を馴染ませながら、軽やかに竹林の小径を走り出した。
猫のアバターは、人間型アバターとは次元の違う身体能力を持っている。跳躍力、平衡感覚、そして夜目が効く視界。静寂に包まれた竹林を、黒い影となって疾走する感覚は、得も言われぬ快感だった。
ガサリ、と草むらが揺れた。
「ん……? 雑魚モンスターか?」
エドワードは足を止め、耳をピクピクと動かした。竹林の陰から現れたのは、赤く光る目を持ったデジタルな存在――『影狐』と呼ばれる低階級の敵エネミーが三匹。
『ヴァーチャル・ダイブ』は非戦闘エリア以外では戦闘が発生する。 敵はこちらが小さな黒猫と見て、舐めたように牙を剥き出しにして唸り声を上げた。
「ハッ、猫だからってナメないでほしいね」
エドワードは低く身構え、黄金色の瞳を鋭く光らせた。 いくら墓参りが目的とはいえ、このアバターのレベルは伊達に上げていない。
影狐の一匹が鋭い爪を立てて飛びかかってくる。 エドワードは垂直に跳躍し、空中で身を翻すと、敵の脳天に向けて前脚を振り下ろした。
「スキル発動――【漆黒の爪】!」
シャキィン! と鮮烈な効果音とともに、光の軌跡が刻まれる。影狐は一撃でポリゴンとなって霧散した。 着地と同時に、残る二匹の攻撃を身軽なフットワークでかわし、尾を鞭のようにしならせて払う。
「ふう……準備運動にもならないな」
毛並みを前脚でサッサッと整え、エドワードはふっと不敵に笑った。黒猫の姿で格好をつけるのはどこかシュールだが、感覚としては完全にノリノリである。
◇
竹林を抜け出すと、急に視界が開けた。
そこは断崖絶壁の上に広がる、小さな小高い丘だった。 眼下には、幕末の情緒を残したノスタルジックな町並みが一望でき、遠くの地平線には茜色から深い群青色へとグラデーションを描く美しい夕闇が広がっている。
「うわぁ……すごいな」
システムが作り出したデータだと分かっていても、肌を撫でる夜風の冷たさや、草の匂いがあまりにもリアルで、聡太は思わず感嘆の息を漏らした。
そして、その丘の中央に、ひっそりと佇むものがあった。
長年の風雨に晒されたようにテクスチャ加工された、小さな石の塔。 「猫塚」と刻まれたその古い墓標の周囲には、誰かが供えたのか、デジタルな鈴や、小魚の形をした木彫りの玩具が置かれていた。
「ここが……権三郎の墓か」
エドワードは足音を殺しながら、静かに墓標へと近づいた。
ここに来るまでに、アイテムショップで奮発して買い揃えた特別な供え物がある。 インベントリ画面を開き、透明なウィンドウからアイテムを取り出した。
『特選・極上鰹節(神饌仕様)』 『幻のまたたび酒』
これらはこのエリアの隠しクエストを達成しなければ手に入らない貴重なアイテムだ。 エドワードは小さな前脚を使って器用にそれらを墓標の前に並べ、さらに頭を低く下げて、ちょこんと座り込んだ。
「権三郎さん。俺は聡太……今は黒猫のエドワードだ。あんたの噂を聞いて、ずっとここに来たかったんだ。……幕末の街を守って散ったあんたの生き様、すごく格好いいと思ってる。安らかに眠ってくれ」
猫の姿のまま、深くお辞儀をする。
現実世界の聡太は、ただのどこにでもいる高校生だ。部活動に打ち込むわけでもなく、将来の進路に強い希望があるわけでもない。日々をなんとなく過ごしている中で、この『ヴァーチャル・ダイブ』の世界と、権三郎の伝承に出会った。
誇りを持って何かを守り抜いた権三郎への敬意。それは聡太自身の「こうありたい」という密かな憧れでもあった。
その時だった。
墓標の前に置いた『幻のまたたび酒』が、ほのかに青白い光を放ち始めた。
『システムメッセージ:特殊フラグ『先祖への参拝』が成立しました』 『ワールドイベント:【影を継ぐ者】を開始します』
「え……!?」
◇
突如、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。 夕闇だった空が一瞬で漆黒の夜空へと変わり、巨大な満月が頭上に浮かび上がる。竹林のざわめきが消え、静寂が世界を包み込んだ。
墓標から立ち上る青白い光の粒子が寄り集まり、一筋の影を形作っていく。
それは、エドワードよりも一回り大きな、傷だらけの毛並みを持つ黒猫の姿だった。 首には古びた赤い首輪が巻かれ、その眼光はまるで鋭い刀のようにギラギラと輝いている。
(権三郎……!?)
言葉が出なかった。データで作られたNPC(非プレイヤーキャラクター)のはずなのに、目の前に現れたその黒猫からは、圧倒的な存在感と威厳が放たれていた。
『――我が墓前にて、真心を捧げし黒き同胞よ』
頭の中に直接、低く渋い声が響いた。システムによるテキスト読み上げではない。まるで魂に訴えかけてくるような、重厚なボイスだ。
『我が名は権三郎。かつてこの地で影となり、弱きを助け、牙を振るった者なり』
権三郎の幻影は、ゆっくりと歩み寄り、エドワードの顔をじっと見つめた。
『お主の瞳……迷いがありながらも、澄んでおるな。ただの冷やかしや力を求める者ではない。心から我を敬い、ここに足を運んだことが伝わってくる』
「権三郎さん……俺は、あんたの伝説を聞いて……あんたみたいな強さと誇りに触れたくて、ここに来たんだ」
エドワードは思わず語りかけていた。NPC相手の会話ロジックだと分かっていても、感情を抑えきれなかった。
権三郎はふっと目を細め、満足そうにヒゲを揺らした。
『誇り、か。……良い言葉だ。だが若き猫よ、力なき誇りは虚しく、志なき力は身を滅ぼす。お主には、我が残した「最後の影」を受け継ぐ資格があるかどうか……試させてもらうぞ!』
「えっ、試すって――!?」
次の瞬間、権三郎の幻影が掻き消えた。
空中から襲いかかる圧迫感! エドワードは本能的にバックステップを踏んだ。直後、さっきまで自分がいた地面が、目に見えない衝撃波によって激しく削り取られた。
「うおっ!? まじかよ、いきなりボス戦!?」
『来い、エドワード! お主の「覚悟」を我に見せてみよ!』
満月の光を背に、権三郎が滑空するように襲いかかってくる。その速さは、これまで戦ってきたどのモンスターとも比べものにならない。
◇
「クッ……速すぎる!」
エドワードは必死に身をかわすが、権三郎の連続攻撃に追いつかない。 鋭い爪の閃光が幾重にも交差し、エドワードのHPゲージがジワジワと削られていく。
(強い……! これが伝説の猫の力か!?)
『ヴァーチャル・ダイブ』のフルダイブ技術は、痛覚フィードバックを極力抑える設計になっている。だが、冷や汗が吹き出すような緊張感と、相手の気迫はリアルそのものだった。
「だめだ……ただ逃げてるだけじゃ勝てない!」
聡太は頭を冷やした。 現実での自分は、いつも面倒なことから逃げてばかりいた。勉強も、人間関係も、傷つくのを恐れて適当な距離を保っていた。だからゲームの中でも、どこか「冷めた客」のような気持ちでプレイしていたのかもしれない。
だが、今この瞬間、目の前にいる権三郎は本気だ。 データかもしれない。プログラミングされたイベントかもしれない。 それでも、この黒猫は命を懸けて何かを守り抜いた「誇り」を自分に突きつけているのだ。
「逃げるのは……もうやめだ!」
エドワードは足を止め、低く身構えた。 相手の動きを冷静に見極める。権三郎のスピードは圧倒的だが、攻撃の軌道には独特の「タメ」がある。幕末の居合切りのような、溜めてから一気に放つ踏み込みだ。
『ほう……目つきが変わったな』
権三郎が低く唸り、最後の決着をつけるべく大跳躍した。満月を覆うように巨大な影となり、上空から必殺の一撃を繰り出してくる。
【奥義・影断ち】
必殺の領域。普通に避けることは不可能。
(なら――カウンターだ!)
エドワードは直感に全てを委ねた。 肉球でしっかりと地面を捉え、全身の筋肉をバネのように収縮させる。相手が間合いに入る極限のコンマ一秒まで引きつけ――
「いっけえぇぇぇぇ!!」
【カウンターアビリティ・爪嵐】!
ガツン!!
激しい光と衝撃波が丘全体を吹き抜けた。 二匹の黒猫が空中で交錯し、背中合わせに着地する。
静寂が戻った。
ポツリ、ポツリと、エドワードのHPゲージはギリギリ緑色の残量を残して止まっていた。 そして、ゆっくりと振り返ると――権三郎の幻影の身体が、金色の光の粒子となって崩れ始めていた。
『……見事だ』
権三郎は穏やかな顔で振り返り、エドワードを見つめていた。
『見事な気迫、そして見事な返し技であった。お主の内に眠る牙、確かに見届けたぞ』
「権三郎さん……」
『我が影は、今ここにお主に託された。姿形が猫であろうと、人であろうと関係ない。己の誇りを賭けて守りたいものを守れ。それこそが、我が血を引く者の証なり――』
権三郎の姿が、光の帯となってエドワードの身体へと吸い込まれていく。
『システムメッセージ:試練【影を継ぐ者】をクリアしました』 『限定アビリティ【権三郎の影歩み(隠密・超加速)】を獲得しました』 『限定装飾アイテム【先祖伝来の赤首輪】を獲得しました』
◇
光が収まると、世界は元の静かな夕暮れの丘に戻っていた。 墓標の前には、誰もいない。
ただ、エドワードの首元には、権三郎が巻いていたものと同じ、古風で粋な赤首輪が装着されていた。ステータス画面を確認すると、そこには【権三郎の継承者】という特別な称号が刻まれている。
「守りたいものを、守れ……か」
エドワードは自分の小さな肉球を見つめた。 ただのゲームのイベントだったかもしれない。だが、胸の奥で熱く燃え上がるこの感覚は、紛れもなく本物だった。
現実の世界に戻っても、自分はただの高校生だ。魔法も使えなければ、空を飛ぶこともできない。 だけど、誰かに優しくすること、自分の限界から逃げずに立ち向かうこと、自分の大切なものを誇りを持って守ることは、現実世界でもできるはずだ。
「ありがとう、権三郎さん。良い墓参りになったよ」
エドワードはもう一度墓標に向かって深く頭を下げると、くるりと背を向けた。
「さて……そろそろログアウトして、現実の課題でも終わらせるか!」
軽やかなステップで丘を駆け下りる。首元の赤首輪についた小さな鈴が、チリンと心地よい音を立てて鳴り響いた。
【システム:ログアウトシークエンスを開始します】
視界がゆっくりと白光に包まれていく。 感覚が徐々に肉体へと戻り、耳元で『フルダイブ・バルブ』の冷却ファンが止まる音がした。
バイザーを持ち上げ、聡太は自室の天井を見上げた。 いつもの見慣れた部屋。机の上には積み残した宿題と、テストのプリント。
「よしっ」
聡太はベッドから勢いよく起き上がると、両手を握りしめた。 その手のひらには、あのフルダイブの世界で感じた、確かな肉球の温もりと、先祖から受け継いだ誇りの感触が、まだ残っているような気がした。




