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『宮女朱華(しゅか)』帝国の新たな風。

高橋ひなとしての現実世界の生活――テスト勉強、友人たちとの他愛ないおしゃべり、放課後の部活動。それらを全力で駆け抜けたひなは、約束通り再び『ヴァーチャル・ダイブ』の世界へと帰ってきた。

『フルダイブ・バルブ、装着――リンク・スタート!』

光の眩暈めまいを抜けた先、彼女――皇太子妃・朱華しゅかを迎えたのは、かつての騒乱が嘘のように穏やかな光に満ちた東宮の広間だった。

あれからゲーム内時間で三年という月日が流れていた。

「母上! 見てください、蝶々です!」

愛らしい声とともに、朱華の衣の裾を小さく引っ張る手がひとつ。 見上げれば、そこには愛らしく健やかに成長した第一王子・李蒼りそうの姿があった。三歳になった蒼は、黒真珠のような瞳と美しい顔立ちで、すでに父である李蓮の面影を色濃く残している。

「まあ、蒼。とても綺麗な黄金色の蝶ね。でも、追いかけて転ばないようにしなさい」

「はい、母上!」

元気よくお辞儀をして庭園へと駆けていく我が子の背中を、朱華は愛おしそうに見つめた。 失脚した貴妃の一派が去った後、後宮は劇的な変化を遂げていた。朱華の提案により、理不尽な理由で囚われていた宮女たちの待遇改善や、身分にとらわれない人材登用が進められ、宮中はかつてない活気と平和に包まれていたのだ。

「朱華様、お茶のご用意が整いました」

控えていた侍女の翠蘭が、香しい雲南茶を注ぎながら微笑む。

「本当におだやかな毎日ですね。貴妃様の一件以来、他宮からの嫌がらせもなくなり、蒼殿下もこのようにすくすくと育たれて……」

「ええ。でも、おだやかすぎて時々怖くなるくらいよ。あの凄惨な権力闘争が、まるで夢だったみたいで」

「ふふ、それだけ李蓮様が朱華様と殿下のために、裏で徹底的に目を光らせていらっしゃるからでございますよ。……おや、お噂をすれば」

庭園の回廊の向こうから、重厚な足音が近づいてくる。 漆黒に金の刺繍をあしらった格式高い長袍ながはかまを纏い、威厳に満ちた佇まいで現れたのは、大華帝国の皇太子・李蓮りれんその人であった。

「父上!」

蝶を追いかけていた蒼が、李蓮の姿を見るやいなや、トコトコと小さな足で駆け寄っていく。 李蓮は普段の冷徹な仮面を即座に剥ぎ取り、膝をついて蒼をそのたくましい腕の中にしっかりと抱き上げた。

「蒼、今日も元気に走っていたな。母上を困らせてはいないか?」

「はい! 母上に綺麗なお花と蝶々をお見せしていたのです!」

「そうか、偉いぞ」

息子の頭を優しく撫でた後、李蓮は蒼を翠蘭に預け、朱華の元へと歩み寄った。 その表情には父としての温かさが残っていたものの、どこか瞳の奥に深い憂いの色が差しているのを、朱華は見逃さなかった。

「……蓮様? 何か政務で困ったことでも?」

朱華が心配そうに尋ねると、李蓮は隣に腰を下ろし、彼女の繊細な手を自分の大きな手で包み込んだ。

「……朱華。お前に隠し事はできんな」

李蓮は静かに息を吐くと、トーンを落として語り始めた。

「本日、北方の遊牧大国『狼牙ろうが国』より、正式な講和使節団が帝都に到着した」

「狼牙国……。数年前まで、我が国の国境を脅かしていたという、あの騎士と武人の国ですか?」

「そうだ。先代の狼王が没し、若き新王が即位したことで、我が国との長年の交戦状態を打ち切り、平和条約を結びたいと申し出てきたのだ。一見すれば目出たい話なのだが……」

李蓮の握る手が、微かに力を増す。

「使節団の代表としてやってきた新王の弟――『ハザル王子』が、明晩の歓迎宴にて……『帝国の皇太子妃である朱華に謁見したい』と指名してきた」

「えっ……? 私を……ですか?」

朱華は驚きで目を見開いた。 彼女は宮女から皇太子妃へと上り詰めたとはいえ、諸外国との外交表舞台に立つ機会はまだ少なかった。なぜ、一度も会ったことのない異国の王子が、自分を指名してくるのか。

「ハザル王子は、貴妃の失脚劇、そしてお前が短刀ひとつで刺客に立ち向かい、後宮改革を成し遂げた『賢妃けんひ』としての噂を聞きつけているらしい。……奴の狙いがただの好奇心か、それとも我が国の動揺を誘う策謀か、まだ見極めがついておらん」

李蓮は朱華の目を真っ直ぐに見つめ、悔しそうに眉をひそめた。

「本来ならば、お前をそのような危険な宴に出したくはない。だが、相手は講和を求めてきた使節団の要人。突っぱねれば『大華帝国は無礼だ』と交戦の口実を与えかねん……」

朱華は李蓮の手を両手で包み返し、柔らかく微笑んだ。

「蓮様、大丈夫です。私を行かせてください」

「朱華……!」

「私は大華帝国の皇太子妃です。蓮様の妻であり、蒼の母です。これまで数々の陰謀を蓮様とともに乗り越えてきました。異国の王子の使者くらい、堂々と迎えて見せます」

朱華の瞳に宿る力強い光を見て、李蓮は一瞬目を見張り、やがて敗北を認めるように苦笑した。

「本当に……お前という女性は、どこまでも私を驚かせるな。分かった。だが、当日は一刻たりとも私の傍を離れるな。お前に髪の毛一本触れさせはせん」

「はい、蓮様!」

翌晩。帝国の中心である紫雲殿にて、狼牙国使節団を迎える盛大な歓迎宴が催された。

金色と赤の絢爛豪華な装飾が施された大広間には、百官が居並び、豪華な料理と雅楽の音が満ちている。 朱華は深みのある鳳凰の刺繍が施された朱色の礼服を纏い、李蓮の隣の玉座に堂々と着席していた。

「狼牙国使節団代表、ハザル王子、お進み――!」

太監の朗々とした声が響き渡り、大広間の扉が開かれた。

現れたのは、大華帝国の衣服とは全く異なる、獣の皮と銀の甲冑を纏った男たちだった。その先頭を歩く青年――ハザル王子は、野性味溢れる褐色肌に、鋭い鷹のような金の瞳を持っていた。その背には巨大な弓が背負われている。

「大華帝国皇帝陛下、ならびに皇太子殿下。狼牙国を代表し、平和の印を捧げに参りました」

ハザルは型通りの礼を執ったが、その態度は不遜であり、帝国の臣下たちの間に不快感のざわめきが広がった。 そしてハザルは、ゆっくりと顔を上げると、李蓮の隣に座る朱華へと視線を射抜いた。

「……あなたが、噂の皇太子妃・朱華様ですか」

「いかにも。遠路はるばる帝都までお越しいただいたこと、歓迎いたします、ハザル王子」

朱華は気品ある微笑みを浮かべ、凛とした声で応じた。

ハザルは不敵に口元を歪めると、懐からひとつの飾りのない木箱を取り出し、広場の真っ只中に掲げた。

「我が狼牙国は、力と知恵を重んじる国。言葉だけの平和条約など意味をなしません。我らが大華帝国を同等の盟友と認めるか否か……この箱に課された『謎』を、帝国一の賢妃と名高い朱華様が解き明かせるか否かで決めさせていただきたい!」

大広間が騒然となった。

「不礼だぞ! 使節の身でありながら皇太子妃殿下に試練を課すとは!」 臣下たちが怒号を上げるが、ハザルは意に介さず木箱の蓋を開けた。

箱の中に納められていたのは、複雑に絡み合った無数の金属のリングと、中央に閉じ込められた一粒の巨大な漆黒の真珠だった。

「これは我が国の古代の知恵『九連環きゅうれんかんの極致』。道具を使わず、力で破壊もせず、この真珠を取り出すことができれば、我が国は大華帝国に永遠の忠誠と平和を誓いましょう。……しかし、解けぬならば、大華帝国は口先だけの弱小国とみなし、講和の話は白紙とさせていただきます!」

明らかな挑発。 李蓮の瞳に氷のような殺気が宿り、腰の剣に手をかけた。

「ハザル王子、私の妻を試すような真似、タダで済むと思うなよ――」

「蓮様、お待ちください」

朱華は静かに李蓮の腕を制した。

(九連環……!? これって、現実世界でいう超難解な『知恵の輪』じゃない……!)

朱華は席を立ち、優雅な足取りで大広間の中央へと降り立った。

「ハザル王子。その挑戦、皇太子妃としてお受けいたします」

「ほう……度胸はおありのようだ。だが、この九連環は我が国の智者たちが十年かけても解けなかった代物。制限時間は、この香が焚き終わるまでの僅かな時間です」

ハザルが香炉に火を点ける。甘い香煙が立ち上り始めた。

朱華は膝をつき、繊細な指先で金属の環に触れた。 触覚フィードバックを通じ、ひんやりとした金属の重みと、複雑に入り組んだ構造が脳に伝わってくる。

(すごい……! 複雑に交差しているけれど、論理的なパターンがある。数学の組み換え問題と同じだ!)

高校生のひなとして、最近の中間テストのために猛勉強した数学の『組み合わせ論』と『空間認識』の知識が、朱華の頭の中で急速に組み上がっていく。 一見、力任せに外そうとすれば噛み合ってしまう構造。だが、特定の順番で環をスライドさせれば、連鎖的に解けていく仕組みだ。

カチャ……カチャカチャ……。

朱華の細い指先が、迷いなく金属の環を動かしていく。 その速さと正確さに、不遜だったハザルの表情から余裕が消え去った。

「な……!? なぜその手順を知っている……!? 我が国の秘伝の構造だぞ!?」

「秘伝も何もありませんわ。万物のことわりには必ず法則があります。力で支配しようとするから見えなくなるのです」

朱華は冷静に答えながら、最後の環を滑らせた。

カチャン!!

静かな音とともに、九つの金属環が一斉に分解し、バラバラと床に転がった。 そして、朱華の手のひらには、見事に解き放たれた漆黒の真珠だけが残された。

大広間が、静寂に包まれる。

香炉の香は、まだ三分の一も燃え尽きていなかった。

「……見事です」

朱華は立ち上がり、黒真珠をハザル王子の手にそっと返した。

「力と武力だけでは、真の平和は築けません。相手を慈しみ、理をもって接すること……それが我が大華帝国の誇る力です。ハザル王子、これでも我が国は、貴国と盟友になるに値しませんでしょうか?」

ハザルは呆然と手の中の真珠を見つめていたが、やがて深く、深く朱華に向かって頭を下げた。

「……参りました。大華帝国の賢妃・朱華様。我が無礼をお許しください。狼牙国は本日より、大華帝国と永遠の友誼を結ぶことを誓います!」

「「おおおおおーーーーーっっっ!!」」

大広間から、雷鳴のような歓声と拍手が巻き起こった! 臣下たちも、皇帝も、皆が朱華の知恵と威厳に惜しみない賛辞を送っていた。

宴が最高潮に達する中、朱華と李蓮は喧騒を離れ、静かな東宮のテラスへと抜け出していた。

夜空には、満月が青白い光を投げかけている。 風が朱華の髪を優しく揺らしていた。

「……凄かったぞ、朱華」

後ろから、李蓮がそっと朱華の腰を抱き寄せる。彼の胸の鼓動が、背中を通じて直に伝わってきた。

「蓮様……」

「ハザルを完璧に打ち負かしたあの瞬間、私はお前を誇らしく思うと同時に……あまりの美しさに、他の男たちの視線をすべて遮りたくてたまらなかった」

李蓮は朱華の耳元で、嫉妬と愛しさに満ちた低く甘い声を囁いた。

「また私を置いて、遠くへ行ってしまうのではないかと……一瞬、胸が締め付けられたのだ」

(蓮様……)

現実世界の高橋ひなとしての自分と、この世界で生きる朱華としての自分。 二つの意識が重なり合い、胸がキュッと熱くなる。 ゲーム内のキャラクター(NPC)だとは思えないほど、李蓮の愛は深く、温かく、そしてリアルだった。

「どこにも行きませんわ、蓮様。私は……いつだってあなたの傍にいます」

朱華は振り向き、李蓮の首にそっと腕を回した。

「あなたがこの国を守るなら、私はあなたと、この国の人々の笑顔を守ります。蒼と一緒に、ずっと……ずっとです」

「朱華……」

李蓮は愛おしさを抑えきれない様子で、朱華を強く強く抱きしめた。 そして、月の光の下で、二人は幾度も甘い誓いの口づけを交わしたのだった。

『フルダイブ・バルブ、システムアナウンス:タイマー満了により、強制ログアウトを開始します――』

静かな電子音が脳内に響く。

「あ……」

視界が少しずつ白く光に包まれていく。 抱きしめ合っていた李蓮の体温が、愛しい我が子・蒼の声が、沈香の香りが、遠ざかっていく。

「……また戻ってくるからね、蓮様……蒼……」

心のなかでそう呟き、朱華――ひなは光の中に身を委ねた。

「……ん……ふぅ!」

光が収まり、ひなは自室のベッドの上で大きく息を吐きながら『フルダイブ・バルブ』を外した。

窓の外は、爽やかな現実の朝の光が差し込んでいる。 机の上には、昨日まで頭を抱えていた数学の教科書とノート。

ひなはゆっくりと起き上がり、自分の手をじっと見つめた。 仮想空間で九連環を解き明かした、あの指先の感覚。異国の王子の前で堂々と胸を張った、あの誇り高さ。 それらは決して「単なるゲームの思い出」ではなく、現実のひな自身の強さとして、しっかりと身についていた。

「さて! 今日も学校、頑張りますか!」

ひなは制服に着替えると、手早く髪を結い、鏡に向かってニッコリと弾けるような笑顔を作った。

現実の高校生活も、大華帝国での皇太子妃としての生活も、どちらも大切な彼女の「本物の人生」だ。 部活で汗を流し、テストで良い点を取り、友達と笑い合う。 そしてまた夜になれば、愛する夫と我が子が待つあの美しい帝国へとダイブする。

「行ってきます!」

少女は元気に部屋のドアを開けた。 無限の可能性を秘めた明日へと、まっすぐに踏み出すために。

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