『宮女朱華(しゅか)』かけがえのないものとは
「……ううん……」
重い瞼を開くと、目に入ってきたのは見慣れた自室の天井だった。 蛍光灯の白い光。壁に貼られた大好きなアイドルのポスター。そして、机の上に置かれた教科書とノート。
高橋ひな(たかはし ひな)はゆっくりと体を起こし、頭に装着していた重厚なVRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』を外した。
「……そっか。私、帰ってきたんだ……」
指先で髪を弄りながら、ひなは小さく息を吐いた。 彼女が今しがたまで没入していたのは、最新型フルダイブVRシステム『ヴァーチャル・ダイブ』。
五感のすべてを仮想空間へ転送し、望んだ世界で望んだ人生を疑似体験できる夢のゲームだ。
ひなはそこで、過酷な後宮で宮女『朱華』として生きていた。 幾多の嫉妬、陰謀、泥沼の権力闘争――それらを持ち前の機転と持ち前の前向きさで乗り越え、美麗にして冷徹と恐れられた皇太子・李蓮の深い愛を勝ち取ったのだ。
やがて二人は結ばれて結婚。ひな(朱華)は皇太子妃となり、先日ついに、二人の愛の結晶である第一王子――李蒼を出産したばかりだった。
赤ん坊の小さな温もり。李蓮の愛おしそうな眼差しと、自分を抱きしめる腕の力強さ。 すべてが、現実と区別がつかないほどのリアリティで脳に刻み込まれていた。
「蒼……蓮様……」
ぽつりと呟いた自分の声が、静かな部屋に寂しく響く。 現実のひなは、ごく普通の高校3年生だ。明日にはテストが控えている。
「ダメダメ! いつまでも余韻に浸ってちゃダメ。現実に戻らなきゃ……!」
ひなは両頬をパンと叩き、机に向かおうとした。 しかし――心の一番深い場所が、あの黄金に輝く大華帝国の宮殿と、愛する家族を求めて激しく疼いていた。
「……あと、あと1時間だけ……! 蒼の顔を見て、蓮様におやすみを言ったら、絶対にログアウトして勉強するから……!」
自分にそう言い訳をすると、ひなは再び『フルダイブ・バルブ』を頭に装着した。
『フルダイブ・バルブ、装着――リンク・スタート!』
電子音が弾け、ひなの意識は再び、華やかなる中華風異世界へと沈んでいった。
◇
視界が眩い光に包まれ、次に彼女の鼻腔をくすぐったのは、上質な沈香の甘い香りだった。
耳に飛び込んでくるのは、庭園の池で跳ねる水の音と、小鳥の囀り。 ひなが身を横たえているのは、肌触りの良いシルクの布団と、彫刻が施された豪奢な天蓋付きベッドの上だった。
衣装は、高校生の制服から、朱色と金糸で刺繍された皇太子妃の華美な衣装へと変わっている。
「……ふぅ、戻ってこれた……」
安堵の息をついた瞬間、部屋の扉が静かに開いた。
「朱華様、お目覚めでございますか?」
入ってきたのは、宮女時代からの忠実な侍女である翠蘭だ。お盆には、湯気を立てる薬膳粥と温かい茶が載せられている。
「ええ、翠蘭。おはよう。……蒼は?」
ひなが尋ねると、翠蘭は心底嬉しそうに目を細めた。
「蒼殿下なら、乳母の元でぐっすりとお休みでございます。それにしても……殿下は日に日に李蓮様に似てまいりましたね。将来はきっと、多くの女性を狂わせる美男子になられますよ」
「もう、翠蘭ったら……まだ生まれて数ヶ月よ?」
ひな――いや、この世界における『朱華』は苦笑しながらベッドから起き上がった。
朱華が皇太子妃となり、男児を出産したことで、彼女が暮らす『東宮』の立場は盤石なものとなったはずだった。しかし、ここは広大な大華帝国。権力の頂点に近づけば近づくほど、渦巻く陰謀の毒針は鋭さを増す。
「李蓮様は……お仕事?」
「はい。今朝早くから、皇帝陛下との朝議へ向かわれました。北方国境の動きが穏やかではないらしく……李蓮様もここ数日、お忙しそうにされております」
「そう……」
政務に追われ、疲れた顔を見せる夫の姿が脳裏に浮かぶ。 皇帝の長男であり、次期皇帝として絶大な期待を背負う李蓮。彼は冷徹な執政者として恐れられているが、朱華の前でだけは、甘えん坊で脆い一人の男の顔を見せてくれる。
(私にできることで、蓮様を支えなきゃ……)
朱華が身支度を整え、薬膳粥を口に運んでいたその時だった。
「皇太子妃殿下! 大変でございます!!」
部屋の外から、若い太監の悲鳴のような声が響き渡った。
◇
「何事です、静かになさい!」
翠蘭が叱りつけるが、飛び込んできた太監は顔を真っ青にして地にひれ伏した。
「も、申し訳ございません! しかし……貴妃様のお言づてにより、皇帝陛下の御前会議にて、大変な審議が始まっているとの知らせが……!」
貴妃――皇帝の第一側室であり、第二王子を産んだ実力者。 朱華が宮女だった頃から、彼女を目の敵にし、幾度となく陥れようとしてきた宿敵である。
「貴妃様が……何を?」
「朱華様の生家……いえ、朱華様が後宮に入る前に身を寄せていた商家が、北方の反乱軍と内通し、不法に武器を流していたとの疑いがかけられたのです!」
「なんですって……!?」
朱華の顔から血の気が引いた。 朱華の生家は貧しい農家であり、後宮に入る前に一時期、遠縁の商家に引き取られていた過去がある。その商家が謀反に関わっているというのだ。
「そんなはずないわ! あの人たちはただの真面目な商人よ! 謀反なんて……!」
「……ですが、貴妃様は『謀反人の親族である朱華様を皇太子妃の座に留めておくわけにはいかない。また、その血を引く蒼殿下も、不吉な子である』と、皇帝陛下にお訴えになっているとか……!」
「蒼まで……!?」
朱華は激しい怒りと恐怖で拳を強く握りしめた。 貴妃の狙いは明確だ。朱華の過去の経歴に言いがかりをつけ、彼女を皇太子妃の座から引きずり下ろし、第一王子である蒼の即位権を剥奪すること。そして、自分の連れ子である第二王子を次の皇太子に繰り上げさせることだ。
「李蓮様は……李蓮様はどうなさっているの!?」
「皇太子様は御前で、必死に朱華様と蒼殿下をお庇いになっておられます! ですが……貴妃派の臣下たちが一斉に声を上げ、李蓮様お一人では押され気味だと……!」
(そんな……私のせいで、蓮様まで窮地に……!)
朱華は立ち上がった。足元がふらつくが、翠蘭が慌てて支える。
「朱華様! いけません、今は軽はずみな行動をとれば、かえって貴妃様の思うツボです!」
「でも、黙ってここで待っているなんてできないわ! 蓮様が、蒼が危険に晒されているのに……!」
その時――。
「誰が軽はずみな行動をとると?」
重厚で凛とした、聞き覚えのある声が部屋に響き渡った。
引き戸が開かれ、一人の男が踏み込んでくる。 漆黒の髪を金の冠で結い上げ、黒と金の龍の刺繍が施された朝服を纏った美しい男――皇太子、李蓮であった。
◇
「蓮様……!」
朱華は弾かれたように駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。 李蓮は力強い腕で朱華をしっかりと抱きとめ、その頭を優しく撫でた。
「無事だったか、朱華。蒼は?」
「ええ、蒼は無事です……! 蓮様、朝議の話は本当なのですか!? 私のせいで、蓮様が……!」
朱華が涙ぐみながら見上げると、李蓮の美貌に、どこか冷酷で不敵な笑みが浮かんだ。
「心配いらん。貴妃の老婆が、浅はかな罠を仕掛けてきただけだ」
李蓮は朱華の腰を抱いたまま、部屋のソファーへと腰掛けさせた。彼の手は少し冷たかったが、握り返してくる力は力強かった。
「……あの商家が反乱軍と通じていたというのは、事実だ」
「え……!?」
朱華が目を見張ると、李蓮は静かに頷いた。
「だが、それは貴妃派の臣下が裏で手を回し、意図的に濡れ衣を着せたのだ。証拠の帳簿も偽造されたもの。奴らは前々からこの仕掛けを準備していたのだろう。お前が蒼を産み、東宮の地位が盤石になる前に、潰しておきたかったのだな」
「そんな……じゃあ、やっぱり私が……」
「自分を責めるな、朱華」
李蓮の強い瞳が、朱華の言葉を遮った。彼は朱華の頬を両手で挟み込み、至近距離でその目を真っ直ぐに見つめた。
「お前は私の妻であり、大華帝国の皇太子妃だ。そして何より……私の命よりも大切な存在だ。お前と蒼を傷つけようとする者は、たとえ貴妃であろうと、皇帝陛下であろうと……私は絶対に許さない」
その声には、氷のような冷たさと、苛烈なまでの愛が込められていた。
李蓮は本来、冷徹無比な政治家だ。朱華と出会うまでは、誰も愛さず、誰も信用しない孤高の皇太子だった。そんな彼が、朱華のためだけにその苛烈な刃を振るおうとしている。
「蓮様……どうなさるおつもりですか?」
「毒には毒を、陰謀には陰謀をだ」
李蓮は唇の端を吊り上げた。
「貴妃が偽造した帳簿の元データを、すでにこちらの密偵が入手している。さらに、貴妃の生家が北方で私腹を肥やすために行っていた、本物の密輸の証拠もな」
「えっ……じゃあ、蓮様は最初から気づいていたのですか?」
「当たり前だ。お前と蒼の周りに張り巡らせた仕掛けを、私が見逃すと思うか?」
李蓮は朱華の額にそっと自分の額を押し当てた。
「明日の朝議で、決着をつける。貴妃とその一派を、二度と這い上がれない奈落の底へ叩き落としてやる。だから……お前は何も心配せず、蒼とともに私を待っていればいい」
「蓮様……」
朱華は涙を拭い、小さく頷いた。 目の前にいる男は、どんな困難からも自分を守り抜いてくれる絶対的な味方だ。
「わかりました。私は……あなたの妻として、ここで信じて待っています。……でも、無茶だけはしないでくださいね?」
「ふっ……お前にそう言われると、断れなくなるな」
李蓮は愛おしそうに目を細めると、朱華の唇に優しく、けれど深く重なる口づけを落とした。
第五章:母としての覚悟と、王子の産声
李蓮が再び政務へと戻った後、東宮は不気味な静けさに包まれていた。
朱華は奥の部屋へ向かい、すやすやと眠る我が子――李蒼の元へ歩み寄った。 小さなベビーベッドの中で、蒼は小さな拳を握りしめ、規則正しい寝息を立てている。
「蒼……」
朱華はそっと小さな手に触れた。吸い付くような温かさ。 現実世界ではただの高校生であるひなが、この仮想空間で経験した「母になる」という感覚。それは単なるゲームのプレイ体験を超えて、彼女の魂に深く刻み込まれていた。
(私は……この子を守る。たとえここがVRの世界だとしても、私にとって蒼も蓮様も、本物の家族なんだから……!)
その時、ふと部屋の窓の外、庭園の陰に怪しい影が動いたのを朱華は見逃さなかった。
(……!? 誰かいる……!?)
「翠蘭!」
朱華が声をかけようとした瞬間、パリンとガラス(※紙障子)が破れる音が響き、黒装束を纏った男が二人、部屋へと侵入してきた。
「「ッ――!!」」
「なっ……刺客!?」
「皇太子妃殿下、そして第一王子……死んでもらう!」
貴妃の一派が、明日の朝議を待たずに強行突破に出たのだ。朝議で負けることを悟った貴妃が、朱華と蒼を暗殺し、証拠隠滅を図ろうとしている。
「朱華様ぁぁぁっ!」
悲鳴を上げて飛び出してきた翠蘭が、刺客の一人に突き飛ばされる。
「くっ……蒼には触らせない!!」
朱華は身を挺してベビーベッドの前に立ちふさがった。 宮女時代、過酷な後宮で生き抜くために身につけた観察眼と、護身用の短刀。朱華は衣装の袖口から、李蓮から護身用にと贈られていた小さな短刀を引き抜いた。
「フン、女子供が抵抗するか!」
刺客が刀を振り下ろす。
(速い……! でも、見えないほどじゃない!)
ひなは現実世界でソフトボール部に所属していた運動神経と、ゲーム内のパラメータ「素早さ」の補正を最大限に活かし、間一髪で刀をかわした。
ズバッ!
朱華の華麗な衣装の袖が切り裂かれるが、彼女はひるまず、刺客の隙をついてその腕に短刀を突き刺した。
「グアッ!?」
「私は……東宮皇太子妃、朱華よ! あなたたちの思い通りにはさせない!!」
覚悟を決めた朱華の瞳に、刺客が一瞬圧倒される。 しかし、もう一人の刺客が後ろから朱華へ襲いかかろうとした――その時!
バァァァン!!
部屋の扉が爆発したかのような音を立てて吹き飛んだ。
「私の妻と子に……その汚い手を触れるな!!」
一閃。
白銀の光が部屋を駆け抜け、後ろの刺客の胴体が吹き飛んだ(※VRの安全フィルターにより光の粒子となって消滅した)。
血飛沫の中に立っていたのは、凄まじい鬼神の如きオーラを纏った李蓮だった。 彼の手に握られた長剣からは、青い霊気が立ち上っている。
「れ、李蓮様……! なぜここに……!?」
残った刺客が恐怖で腰を抜かす。
「お前たちの浅はかな動きなど、すべて読んでいると言ったはずだ」
李蓮は一歩踏み出し、瞬く間に刺客の首元へ剣を突きつけた。
「貴妃の命令だな? 全て吐いてもらうぞ。……骨の髄までな」
冷酷な李蓮の宣告に、刺客は泡を吹いて倒れ込んだ。
第六章:朝焼けの誓いと、もうひとつの現実
騒動が収まり、東宮に再び平穏が戻った頃、東の空が白み始めていた。
貴妃の一派は即座に拘束され、残された裏帳簿と刺客の証言により、明日の朝議を待つまでもなく貴妃の失脚が決定した。朱華の無実と、蒼の正当性は完全に証明されたのだ。
東宮の庭園に面した縁側で、李蓮と朱華は二人並んで座っていた。 朱華の腕の中には、騒ぎから目を覚まし、キャッキャと愛らしく笑う蒼が抱かれている。
「……怖かったか、朱華」
李蓮がそっと朱華の肩を抱き寄せる。
「いいえ。蓮様が絶対に来てくださると信じていましたから。……それに、私もただ守られるだけの存在にはなりたくなかったんです」
「ふ……相変わらず強い女だ。だからこそ、私はお前に惹かれたのだろうな」
李蓮は蒼の小さな頬を指で突き、優しく微笑んだ。
「これで、お前と蒼を脅かす者は居なくなった。これからは……二人でこの国を、そして私たちの家族を温かく満たしていこう」
「はい……蓮様」
朝日が昇り、大華帝国の壮大な宮殿を黄金色に染め上げていく。 絶景の中で、愛する夫と、愛する我が子とともに迎える朝。 これ以上ない、幸福な結末。
(ああ……本当に、最高の体験だったな……)
朱華――高橋ひなは、心の中で温かい涙を流していた。
だが、頭の片隅で、現実の警報音が小さく鳴り響いている。 『フルダイブ・バルブ』のタイマー機能だ。設定していた「1時間」が経過しようとしていた。
現実のひなには、学校があり、友達がおり、明日のテスト勉強がある。 この夢のような異世界に、いつまでも浸り続けることはできない。
(帰らなきゃ……現実の、私の世界へ)
朱華は抱きしめてくれる李蓮の胸に顔を埋め、小さく呟いた。
「蓮様……私、少しだけ長い眠りにつくかもしれません」
「ん? どうした急に」
「……でも、絶対にまた戻ってきます。あなたと蒼の元へ。だから……待っていてくれますか?」
李蓮は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに深い愛を込めて朱華の額にキスをした。
「何を言う。お前がどこへ行こうと、私の魂はお前とともにある。どれだけ待たされようと、私はお前を愛し続けるさ……朱華」
「……ありがとう、蓮様」
朱華はそっと瞳を閉じた。
『システムメッセージ:ログアウト処理を開始します――』
温かい光が全身を包み込み、李蓮の腕の感覚と、蒼の温もりが徐々に薄れていく。
◇
「……んっ」
目を開けると、そこはやはり、夕暮れに染まりかけた自分の部屋だった。
ヘッドギアを外すと、電子音がピッと鳴り、静寂が戻ってくる。 手元に残ったのは、プラスチックと金属でできた味気ないデバイスだ。
だが、ひなの胸の奥には、確かに熱いものが残っていた。
「……よしっ!」
ひなはベッドから飛び起きると、机に向かい、ノートとペンを握りしめた。
「頑張らなきゃ。現実の私も、朱華に負けないくらい、強くかっこよく生きなきゃ……!」
テスト勉強という現実の試練。 だけど今のひなには、何も怖くなかった。 あの過酷な後宮を生き抜き、愛する家族を守り抜いた「朱華」としての経験と覚悟が、彼女の心に満ちているからだ。
「待っててね、蓮様、蒼。テストが終わったら……またすぐに会いに行くから!」
窓の外を見上げると、現実の空も、大華帝国で見た朝焼けと同じように、美しく輝いていた。
少女はペンを走らせる。 夢の続きと、未来の自分に向かって――。




