黒猫エドワード。すすきので豪遊する。
聡太の願いは、たったひとつ。
(猫になりたい……)
毎日毎日、受験勉強と予備校の模擬試験、面倒な人間関係と親からのプレッシャーに押し潰されそうな日々。せめて夢の中くらい、何の責任も背負わず、日当たりの良い縁側で一日中あくびをして過ごしたい。四つ足で路地裏を駆け抜け、気の向くままに魚の干物をくわえて逃げ去るような、そんな緩くて適当な「猫の生活」を送ることこそが、聡太の密かな野望だった。
「バルブ、ダイブモード起動。接続先——サッポロ・メインサーバー」
視界が急速に白濁していく。
『樹林』の網膜直接投影システムが作動し、流星群の受信シグナルを模した幾何学模様の光彩が眼球の奥で弾けた。意識が浮遊感に包まれ、急速に下降していく。肉体の重みが消え去り、代わりに全身の皮ふを微風が撫でる感覚が蘇った。
◇
「……にゃー」
声を出すと、それは人間の言葉ではなく、少し掠れた高い鈴の音のような鳴き声となって空間に響いた。
聡太は自身の視界を見下ろした。視界の位置が地面からわずか二十センチメートルほどの高さにある。差し出した自分の手を見れば、そこには艶やかな漆黒の毛並みに覆われた小さな肉球があった。
爪を研ぐように地面を数回引っ掻いてみる。アスファルトのざらついた感触と、肉球に伝わる心地よい弾力。完璧な再現度だ。『樹林』の超高精細な物理演算は、猫のヒゲが捉える風のゆらぎや、耳介が拾う微小な音振動まで忠実に再現している。
聡太のゲーム内アバターは、全身が漆黒の毛で覆われた短毛種の黒猫。
アバター名は『エドワード』。
設定は「北方の極寒の地にて、過酷な政変により滅び去った幻の王国『ヴェルヴァリア』の第一王太子」。
もちろん、そんな設定は完全に後付けのハッタリであり、ただ歴史の授業で習った英仏百年戦争の英雄「エドワード黒太子」の響きがカッコよかったからという理由だけで、名前と設定をそのまま盗用した代物だ。
「よしよし、身体の動きも問題なし。尻尾のバランス感覚も完璧だ」
エドワード(聡太)はしなやかに背中を丸めてストレッチをすると、長くて太い黒い尻尾をゆらりと振った。
彼が本日降り立ったフィールドは、バーチャル空間内に忠実に再構築された北海道最大の繁華街『札幌すすきの』エリアであった。
ネオンサインが煌々と輝く夜の街。しかし、ヴァーチャル・ダイブ内のすすきのは、人間プレイヤーだけでなく、動物型アバターを選んだプレイヤーたちにとっても格好の「プレイスポット」として機能していた。雑居ビルと雑居ビルの隙間に広がる細い路地裏、室外機から吐き出される温かい温風、居酒屋の裏口から漂ってくる焼き魚の芳しい匂い——それらすべてが、猫たちにとっての巨大なテーマパークなのだ。
「今日は遠征だからな。地元(大通公園)の縄張りを離れてわざわざすすきのまで来たんだ。思う存分、緩い猫ライフを満喫してやるぜ」
エドワードはフンと鼻を鳴らすと、軽やかな足取りで雑居ビルの隙間へと潜り込んだ。
ダストボックスの上に飛び乗り、そこから配管を伝って二階の非常階段へと跳躍する。高所からの見下ろす景色は絶景だった。下を通り過ぎる人間姿のプレイヤーたちが、小さく見える。
(ふはは、見下ろしてやるぞ人間ども! 俺は亡国の王太子エドワード様だからな!)
設定に酔い痴れながら、エドワードは室外機の上の温かい風が当たる特等席に身を丸めた。目をつむれば、『樹林』の超睡眠時学習機能が脳を心地よいアルファ波で満たしていく。現実の身体は深く眠りにつきながら、脳内では最高の癒やしを得ているのだ。
まさに至福。これぞ現代科学の勝利。チェ・ウニョン博士、万歳である。
しかし、その至福のまどろみは、唐突に打ち破られた。
「あぁん? 見かけねぇ面だな、黒いの」
◇
低く、ガラの悪い声が、頭上から降り注いだ。
エドワードが片目をうっすらと開けると、非常階段の手すりの上に、一匹の猫が立ち下ろしていた。
毛並みは美しいグラデーションを描くベージュ色だが、顔の中心と耳、四肢の先端が黒く染まったシャム猫だ。しかし、その目つきは尋常ではなく悪かった。片方の耳にはあざ笑うかのように鋭い切れ込み(サクラ耳のV字カットではなく、荒々しい喧嘩傷)が刻まれており、首にはゴツいスパイク付きの首輪が装着されている。
「……誰だお前。俺の優雅な午睡を邪魔するなよ。王太子の休息は尊いんだ」
エドワードは面倒くさそうに耳をピクピクと動かした。
「王太子だあ? 何寝ぼけたこと抜かしてやがる。俺様はこの『すすきの四丁目路地裏連合』の頭、ガンクロ様だ!」
シャム猫のガンクロは、シャーッと威嚇の声を上げながら非常階段の鉄格子を爪で激しく引っ掻いた。ギギギ、と嫌な金属音が響く。
「このすすきのエリアはな、俺たち『サッポロ・ニャンキーズ』の縄張りなんだよ! 大通の甘っちょろい飼い猫風情が、許可なく足踏み入れてんじゃねぇ!」
どうやら、地元の野良猫の逆鱗に触れてしまったらしい。
ガンクロの背後から、さらに二匹の雑種猫(サビ猫とキジトラ)が姿を現し、エドワードを取り囲むように間合いを詰めてきた。
「おいおい、穏やかじゃないねぇ」
エドワードはため息をついた。本当はただ日向ぼっこをして、焼き鳥の匂いを嗅ぎながらゴロゴロしたかっただけなのだ。しかし、この『ヴァーチャル・ダイブ』はフル体験型VRゲームである。プレイヤー同士の同意、あるいは縄張りシステムにおける戦闘フラグが成立した場合、リアルな猫同士の「喧嘩(PVP)」が発生してしまう仕様になっていた。
しかも、現在の『樹林』は性能が1.7倍に向上している。その結果、猫の反射神経や運動能力の物理演算が異常なまでに高精度化しており、生半可な操作では一瞬で噛み殺されて(強制ログアウトさせられて)しまうのだ。
「おい黒猫、命が惜しかったらその首根っこ差し出して、このガンクロ様の足の裏でも舐め回しな!」
「断るね」
エドワードは立ち上がり、黒いしなやかな背中を丸めると、ゆっくりと毛を逆立てた。
「我が名はエドワード。滅びしヴェルヴァリア王国の黒太子なり。名もなき街の野良猫に膝を折るくらいなら、この漆黒の爪で返り討ちにしてくれるわ!」
痛々しい中二病全開のセリフを叫びながら、エドワードは胸中で(うわ、俺めっちゃ恥ずかしいこと言ってる!)と冷や汗を流していた。だが、猫のアバターになると、どうにもこういう設定になりきってしまうのがこのゲームの恐ろしいところであった。
「言ってろ不法侵入者が! 野郎ども、殺っちまえ!」
ガンクロの咆哮とともに、喧嘩の火蓋が切って落とされた。
◇
「にゃああああっ!」
手下のキジトラが、鋭い跳躍でエドワードの顔面に躍りかかってきた。伸ばされた前脚には、鋭利なポリゴンで形成された爪が光っている。
(速い! けど——見え見えだ!)
『S4』の超睡眠学習システムは、知らず知らずのうちに聡太の脳の処理速度を高速化させていた。『樹林』の1.7倍に増強されたCPUパワーは、プレイヤーの脳波と同調することで、一種の「クロックアップ状態」を引き起こす。
エドワードの視界の中で、キジトラの動きがまるでスローモーションのように遅くなった。
エドワードは最小限の動きで体を左にひねり、キジトラの爪を紙一重でかわすと、すれ違いざまに左前脚の「肉球パンチ」を相手の側頭部に叩き込んだ。
スパァン!
「ぎゃんっ!?」
重い打撃音が響き、キジトラは非常階段の踊り場へと転がり落ちていった。
「な、なんだと……!? この黒猫、動きがタダのペットアバターじゃねぇぞ!」
動揺するサビ猫に対し、エドワードは漆黒の毛並みを揺らしながら静かに間合いを詰める。
「フッ……黒太子の剣(爪)を交えるには、お前たちはあまりに無力。失せろ、雑魚ども」
カッコいいポーズを決めながら、エドワードは電光石火の三連撃をサビ猫に見舞った。右猫パンチ、左猫パンチ、そして後脚を使った強烈な飛び蹴り!
「ニャアアアアッ!」
サビ猫もひとたまりもなく弾き飛され、階下のダストボックスの中へと突っ込んでいった。
「ちっ……使えねぇ手下どもが!」
残されたシャム猫のガンクロが、全身の毛を逆立てて激しい威嚇の声を上げた。その瞳には本気の殺意が宿っている。
「許さねぇぞ黒猫……! この俺様が、すすきののてっぺんを取るためにどれだけのキャットフードを泥水すすって食ってきたか、思い知らせてやる!」
ガンクロが地面を蹴った。そのスピードは、先ほどの手下二人とは比べものにならない。しなやかな筋肉が生み出す爆発的な推進力。これこそが、すすきのの路地裏を生き抜いてきた猛者(廃人プレイヤー)の動きだった。
空中での交錯。
ガンクロの鋭い右爪が、エドワードの頬をかすめる。チリッとした微かな痛みのフィードバックが聡太の脳に伝わった。
「もらったぁ!」
ガンクロが空中で体をひねり、エドワードの首元へと噛み付こうと顎を開く。
絶体絶命。
しかし、エドワード(聡太)の心は驚くほど冷静だった。
(猫の身体能力をフルに使え……! 関節の柔らかさなら、黒猫のアバターの方が上だ!)
エドワードは空中でありながら、背骨を軟体動物のように極限まで折り曲げた。ガンクロの牙が空を切り、エドワードの喉元を掠めていく。
そして、間一髪で相手の攻撃をかわしたエドワードは、落ちていくガンクロの背中を「踏み台」にして空中でさらにもう一度跳躍した。
「なにっ!?」
空中での踏み台跳び——物理演算の隙突いた、猫アバターならではの超技巧。
「これが! ヴェルヴァリア王家相伝——『黒太子・流星脚』だぁぁぁっ!」
上空から急降下したエドワードの両前脚(肉球)が、ガンクロの脳天へと寸分の狂いもなく叩き込まれた。
ドカァァン!
衝撃波とともに、ガンクロの巨体がアスファルトの地面へと叩きつけられた。激しいエフェクト光が弾け飛ぶ。
「ぐ、はっ……バカな……この俺様が……大通の……黒猫ごときに……」
ガンクロの体から体力ゲージを示す光の粒子が漏れ出し、彼はそのまま動かなくなった(気絶による一時的な行動不能状態)。
勝負あり。
◇
静寂が路地裏に戻ってきた。
倒れたガンクロを見下ろし、エドワードはフーッと息を吐くと、ぺろりと自分の前脚の肉球を舐めた。毛並みを整えるためである。
「ふぅ……疲れた。やっぱり喧嘩なんて柄じゃないな」
先ほどまでのイキリ倒した「黒太子」のキャラクターはどこへやら、聡太の精神は一瞬で元の「緩い高校生」へと戻っていた。せっかくの超睡眠学習システムなのに、こんなことに無駄な脳の演算を使ってしまって少し勿体ない気もする。
しかし、ふと周囲を見渡すと、いつの間にか路地裏のあちこちから、たくさんの猫たちが顔を出していた。
三毛猫、ハチワレ、ペルシャ猫、茶トラ……。
すすきのの街に暮らすプレイヤー猫たちが、あの凶悪なガンクロを倒した一匹の黒猫を、畏怖と尊敬の眼差しで見つめているのだった。
「すごいにゃ……あのガンクロを一撃で……」
「あいつ、何者だ? 大通から来た王太子……って言ってたか?」
「カッコいい……! 漆黒の毛並みがステキ!」
ひそひそと交わされる猫たちの声。
エドワードは一瞬固まった。
(あ、ヤバい。めちゃくちゃ目立ってる。俺の『静かで緩い猫生活』が遠のいていく……!)
注目されるのが大嫌いな聡太にとって、この状況は胃が痛くなるものだった。これではどこに行っても「あのガンクロを倒した伝説の黒猫」として追いかけ回されてしまう。
「え、えーっと……」
エドワードは後ずさりしながら、引きつった笑いを浮かべた(猫の顔なので相手には伝わらないが)。
その時、近くの居酒屋の裏口がガラガラと開き、店員がゴミ捨てのために出てきた。同時に、店内から香ばしいホッケの塩焼きの匂いが路地裏いっぱいに広がった。
「あ」
エドワードの鼻がピクピクと動いた。
「おい、黒猫の兄ちゃん! 俺たちの新しいアニキになってくれよ!」
「王太子様ー!」
猫たちが一斉に寄ってこようとしたその瞬間、エドワードは驚異的なリアクション速度で反転した。
「さらばだ諸君! 王太子の旅は風の向くまま気の向くままなのだー!」
捨てゼリフを残し、黒猫は疾風のごとく壁を駆け上がり、屋根の上の闇へと消えていった。
ネオンが眩しく輝く札幌すすきのの夜空。
屋根のてっぺんに辿り着いたエドワードは、冷たい夜風を感じながら、ぽかぽかと温かい煙突の脇に丸くなった。下からは賑やかな街の喧騒と、美味しそうな魚の匂いが上ってくる。
「……ふぁ」
大きなあくびをひとつ。
『樹林』がもたらす心地よい脳波のゆらぎが、再び彼の意識を深い安らぎへと導いていく。流星群のシグナルが、まるで子守唄のように脳裏で優しく囁いていた。
「やっぱり……猫は丸くなって寝るのが一番だな……」
漆黒の王太子エドワードは、長くて太い尾を自分の体に巻き付けると、今度こそ本当の、穏やかで緩やかな微睡み(スリープ)の中へと落ちて行ったのだった。




