地平線のかなた。サイバー・ストームと黄金の収穫
ニセコの短い夏が過ぎ去り、八月の風には早くも秋の匂いが混じり始めていた。 大地原農園の広大なフィールドでは、白い花を咲かせていたじゃがいもの茎葉が徐々に黄色く色づき、地中で巨万の黄金――『北あかり』と『男爵』が丸々と太太しく実る「登熟」のピークを迎えていた。
「よし……収穫期まであとわずか! 今夜のダイブで最終の土壌湿度管理とコンバインの自動追従ルートのシミュレーションを終わらせるわよ!」
豪邸の自室。和風ゴスロリ浴衣から漆黒の部屋着へと着替えた大地原かなたは、ベッドの上に腰掛け、最新型VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』を愛おしそうに撫でていた。
あの日、ニセコ神社の夏祭りの夜。 花火の下で健人から告白され、手を握り合ってからというもの、かなたの胸には常に温かい灯火が点っていた。 昼間は役場職員として、そして一人の男性として甲斐甲斐しく農園をサポートしてくれる健人。彼に応えるためにも、父から受け継いだこの大地原農園の初収穫を、何としても大成功させなければならない。
「待ってなさいよ健人、お母さん。過去最高の収穫量と品質で、北海道中に『ポテト姫』の奇跡を見せつけてやるんだから!」
かなたは『フルダイブ・バルブ』を頭に装着し、深く息を吐いた。
「S4システム、ダイブ・スタート!」
意識が浮遊し、視界が青い光の粒子で満たされていく。 スーパーコンピュータ『樹林』の深層アクセスへと至る、いつもの心地よい没入感。
……しかし。
『……キ……キキ……システム……警告……』
「え……?」
いつもなら澄み渡った電子音声で告げられるアナウンスが、酷く歪んだノイズに苛まれていた。 目を開けたかなたが降り立ったのは、いつものエメラルドグリーンの穏やかな仮想空間ではなかった。
「な、なにこれ……!? 赤い……!?」
空間全体がどす黒い赤色に染まり、天を突くホログラムのデータタワー群がバリバリと放電現象を起こしながら壊れていく。 空を見上げれば、かつて美しく降り注いでいた『メテオラシャワー(流星群受信)』の光の尾が、黒い毒雲のようなデータノイズへと変貌し、無数の雷となって仮想空間を穿っていた。
『緊急警告:スーパーコンピュータ「樹林」並列接続プロセッサ群において、熱暴走およびデータ過負荷が発生。並列接続率170%超過……制御不能!!』
頭上から響くアラート音。 『ヴァーチャル・ダイブ』の利用者爆発に伴い、処理能力を1.7倍に跳ね上げるために行われた追加CPUの並列接続。それが、折からの流星群による電磁波異常と同期し、スパコン『樹林』の安全装置を破壊してしまったのだ。
「ウニョン博士!? ウニョン博士、聞こえてる!?」
かなたが空間に向かって叫んだその時、彼女の目の前にノイズ交じりの立体映像が立ち上がった。 白衣を乱し、額に汗を浮かべた天才脳科学者チェ・ウニョン(26)の姿だった。
『かなたさん……!? だめです、すぐにログアウトしてください! 「樹林」の中核AIが過負荷で暴走し、ユーザーの睡眠脳波(S4)を逆流させています! このままでは脳に深刻なダメージが……!』
「ログアウトって……今夜のシミュレーションを終わらせないと、明日の収穫作業のデータが消えちゃうのよ! 畑の湿度調整バルブの連動プログラムもここにあるのに!」
『そんなものを気にしている場合ではありません! 追加CPUの過熱により、「樹林」の冷却システムが全停止しました! あと三十分でニセコ基地局のメインサーバーが物理的に溶融、爆発します! そうなればゲームのデータどころか、あなたの意識も――』
ブツッ……!!
ウニョン博士の映像が激しい火花と共に消滅した。
「ウニョン博士!? 博士――っ!!」
ゴォォォォォォッ!!
仮想空間の床が崩壊を始めた。 黒いデータノイズの濁流が、竜巻となってかなたのアバターへと襲いかかる。 『S4(Super Sleep Studying Systems)』は本来、脳に数百倍の学習効果を与えるシステムだ。つまり、この仮想空間で受ける「物理的ショック」や「負荷」もまた、数千倍の解像度でかなたの生の脳細胞へと叩き込まれることを意味していた。
「くっ……痛っ……あがぁぁぁぁっ!?」
頭を殴られたような激痛。 全身の神経が焼き切れるような高熱がかなたを襲う。
(ログアウト……ログアウトのコマンドは……!?)
システムウィンドウを展開しようとするが、バグったノイズの渦に飲み込まれて反応しない。 視界が赤く染まり、意識が途切れそうになる。
(嫌だ……こんなところで……意識を失ったら……! お母さんはどうなるの……!? 畑はどうなるの……!? 健人は……健人は……!!)
「かなた―――っ!!」
その時。 絶望的なノイズの嵐を切り裂いて、聞き慣れた「泥臭い」叫び声が届いた。
◇
現実世界。大地原家の豪邸。
「かなた! かなた!!」
自室のドアをこじ開けて飛び込んできたのは、息を切らした佐藤健人だった。 役場でナイトシフトの書類整理をしていた健人の元に、ニセコ基地局からの緊急防犯アラートが届いたのだ。『スパコン「樹林」で原因不明の大規模障害発生・全ダイブユーザーへ緊急遮断勧告』。
胸騒ぎを覚えた健人は、役場の公務員軽トラックを限界まで飛ばして大地原家へ駆けつけた。
ベッドの上で、VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』を装着したまま、ガタガタと酷い痙攣を起こしているかなた。ヘルメットの隙間から、プシューと微かな煙と焦げ臭い匂いが立ち上っている。
「かなた!! しっかりしろ!」
健人はかなたの肩を抱き起こし、ヘッドギアの緊急脱着レバー(クイック・リリース)を引こうとした。 しかし――レバーはカチリと固着し、動かない。電磁ロックが暴走による高熱で溶着してしまっていたのだ。
「くそっ……! 離れろ、このガラクタ!!」
健人はポケットから役場用のマルチツールを取り出し、ヘッドギアの配線とロック機構に強引に突き立てた。 バチバチッと激しい火花が散り、健人の手に電流が走る。
「うあぁぁぁぁっ!?」
指先が焼け焦げるような痛み。だが、健人は絶対に手を離さなかった。
「かなた……返事しろ! かなたぁぁぁっ!!」
健人は叫びながら、己の全ての筋力を込めて、溶けかけたヘッドギアを力任せにこじ開けた。 3週間死ぬ気で勉強し、公務員になり、毎日かなたのために肥料袋を担ぎ続けて鍛え上げられた健人の腕力。
メリメリメリ……ガコッ!!
金属とプラスチックが悲鳴を上げ、ヘッドギアが強引に叩き割られた。
「ハぁっ……! ぁぁぁぁっ!?」
ベッドの上に倒れ込み、激しく空気を吸い込むかなた。 その瞳に、現実の天井と、汗と泥と火傷でぐちゃぐちゃになった健人の顔が映し出された。
「け……ん……と……?」
「かなた……! よかった……よかったよぉ……!」
健人は崩れ落ちるようにかなたを抱きしめた。 健人の体がガタガタと震えているのが伝わってくる。自分のために、命懸けで危険なデバイスを素手で破壊してくれたのだ。
「健人……私……『樹林』が……」
「もういい! 何も言わなくていい! 無事なら……無事ならそれでいいんだ!!」
かなたは健人の胸に顔をうずめ、ぽろぽろと涙を流した。 仮想空間の冷たい超テクノロジーではなく、いま自分を抱きしめているのは、泥の匂いと温かい血の通った、泥臭い本物の人間だった。
◇
翌朝。
ニセコの青空には、昨夜の電脳の暴風雨が嘘のように、澄み渡った秋の太陽が昇っていた。
ニュース速報では、スーパーコンピュータ『樹林』の冷却装置故障による一時全停止と、『S4システム』の商業利用見合わせが報じられていた。開発者のチェ・ウニョン博士は深々と頭を下げ、システムの再構築と安全性の担保を誓っていた。
『ヴァーチャル・ダイブ』は、当面の間使えない。 睡眠中に日中の数百倍の学習を行い、完璧なシミュレーションデータを得るという「超効率農業」の手法は、失われたのだ。
だが――大地原農園の前に立つかなたの表情に、絶望の色は微塵もなかった。
頭に巻かれた白いバンダナ。 漆黒のフリルをあしらった、いつもの戦闘用ゴスロリドレス。 その隣には、手に痛々しい包帯を巻きながらも、笑顔でコンバイン(収穫機)の点検をする健人の姿があった。
「かなた、体の具合は本当にいいのかい?」
母の絹代が心配そうに保温ボトルを差し出す。
「バッチリだよお母さん! むしろ、頭の中がすっごくクリア!」
かなたは自慢の黒髪をなびかせ、広大な畑を見渡した。
そう、データは失われた。スパコンのサポートももうない。 だが、この数ヶ月間、S4システムを通じて彼女の脳に叩き込まれた膨大な知識と、現実の畑で泥にまみれて獲得した「身体感覚」は、決して消えてはいなかった。
かなたの脳内には、すでにスパコンなど不要なほど完璧な「ニセコの大地のアルゴリズム」が刻み込まれていたのだ。
「行くわよ、健人! 私たちの、本当の『収穫祭』の始まりよ!」
「おうっ!!」
健人が合図のフラッグを高く掲げた。
かなたは大型コンバイン『ヤンマー・YHシリーズ』の運転席へと跳び乗り、エンジンを始動させた。 腹に響く重低音。
「コンバイン発進!! ターゲット、大地原農園全区画!!」
バリバリバリバリッ!!
回転する鋭い刃が、黄色く熟したじゃがいもの茎葉を刈り取り、特殊ロータリーが漆黒の土を豪快に掘り返していく。 コンバインの後方コンベアから、次々と転がり出てくるのは――丸々と太り、黄金色に輝く、見事なまでの巨大なじゃがいもたちだった!
「す……すげえええええっ!?」
農道で見守っていた近所の農家たちが、目玉が飛び出るほど驚愕した。
「なんだあの大きさは!? ツヤが違う! 傷一つないぞ!」 「1株あたりの収穫量が、例年の1.5倍以上だ……!」 「バカな……今年はこのニセコ一帯、天候不順で不作のはずだぞ!?」
集まってきたベテラン農家たちが、転がり出たじゃがいもを手にとり、言葉を失った。 土の匂い、ズシリとした重み、そして溢れんばかりの澱粉質の張り。それはまさに、北海道の農業史に名を残すレベルの「極上のポテト」だった。
「見たかぁぁぁぁっ! 近所のクソジジイども――っ!!」
操縦席から顔を出したかなたが、メジャーリーグの勝利投手のように拳を突き上げて叫んだ。
「これが! 私と健人と! お父さんが守った『大地原農園』のじゃがいもよ!! 『ポテト姫』をナメるなぁぁぁっ!!」
「かなたー! 口が悪いぞー!」
下からメガホンで突っ込む健人。だが、その顔は涙と笑顔でぐちゃぐちゃだった。
作業は一日中続いた。 健人が手配した役場のトラックや、かなたの熱意に打たれて手伝いに駆けつけた若い農家たちのコンテナが、またたく間に黄金のじゃがいもで満たされていく。
夕方になる頃には、大地原農園の巨大な倉庫は、積み上げられたコンテナの山で埋め尽くされていた。
出荷査定のために訪れたカルビーおよび大手流通の仕入れ担当者は、じゃがいもを一口生でかじり、震える声で叫んだ。
「取、取引拡大させてください!! 定価の1.5倍……いや、2倍のプレミアム価格で買い取らせていただきます!! この品質なら、全国のスーパーや高級レストランで取り合いになりますよ!!」
その瞬間、大地原農園の今期の売上目標達成――そして、5000万円の運転資金の即時返済と、残る相続税の完全完済が確定した。
「やった……やったわぁぁぁぁっ!!」
かなたはコンバインから飛び降りると、駆け寄ってきた母の絹代と抱き合った。
「かなた……かなた……! お父さん……お父さん見てるかしら……! あなたがこんな立派になって……!」
「お母さん……! 私、家を守れたよ……! ポテト・キングダムを守ったよ!!」
ふたりの泣き笑いの声が、夕暮れの倉庫に響き渡った。
◇
夜。
出荷作業を終え、静まり返った大地原農園の丘。 澄み切った秋の夜空には、満天の星々と、遠く輝く流星群の光が瞬いていた。
疲れ果てたかなたと健人は、畑の端にある木製のベンチに並んで腰掛けていた。
かなたの手には、ホクホクの湯気を立てる出来立ての『ジャガバター』。 大地原農園で採れたての『北あかり』に、北海道産の極上バターをたっぷり乗せたものだ。
「んむ……!! んんん~~~っ!! 美味いっ!! 美味すぎる!!」
かなたはハフハフと息を吐きながら、ジャガバターを口いっぱいに頬張った。
「甘みがすごいの! バターの塩気と、ポテトの濃厚なでんぷんが口の中で爆発してる! これぞ……これぞ最高のリアル(現実)の味よ!!」
「はは、だろ? ほら、口の横にバターついてるぞ」
健人が苦笑しながら、優しく指で拭ってやる。
かなたは一瞬固まり、それからモグモグと口を動かしながら、健人の横顔を盗み見た。
包帯が巻かれた健人の右手。 昨夜、自分の命と引き換えにしてもおかしくなかった暴走システムから、自分を救い出してくれた手だ。
「健人」
「ん?」
「私ね……『ヴァーチャル・ダイブ』で、たくさんのこと学んだの。数式の計算も、土壌の化学反応も、機械の操作も……全部、ゲームみたいに一瞬で覚えられた」
かなたは自分の膝を見つめ、静かに語りかけた。
「でもね……昨日の夜、健人があの高熱のヘルメットを素手で壊してくれた時……そして、今日、自分の手で土を掘って、この温かいジャガバターを食べた時……分かったの」
かなたは健人の左手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「画面の中のデータじゃ、人はお腹いっぱいにならない。凄まじいスパコンの計算よりも……汗を流して、誰かを想って動く力の方が、ずっとずっと凄いんだって」
「かなた……」
かなたは真っ赤になりながらも、逃げずに健人の目を真っ直ぐに見つめた。
「私……もう『S4』の睡眠学習には頼らない。これからは、自分の足で土を踏んで、自分の頭で考えて……現実で最強の農家になってみせる」
「ああ。君なら絶対になれるよ。……俺も、ずっと隣で支えるから」
「ふふ、当たり前でしょ! 役場の担当者なんだから、一生私にこき使われる覚悟でいなさいよね!」
かなたは胸を張り、不敵に笑ってみせた。
その時、夜空をひときわ大きな流星が横切った。 かつては超睡眠学習システムの電波を受信していたその星の光は、今やただ、ニセコの平和な大地と、寄り添う二人の若い恋人たちを優しく照らしていた。
オタクで放蕩娘と呼ばれた『ポテト姫』大地原かなた。 彼女の物語は、ひとつのピンチを乗り越え、いま新たな「現実の大地」へと力強く踏み出したのだ。
最高に美味しいじゃがいもと、最高に愛おしいパートナーと共に。
『地平線のかなた』――完。




