地平線のかなた。健人の恋心
ニセコの短い春が駆け抜け、眩しい夏の太陽が広大な大地を照らし始める頃。大地原農園のフィールドは、鮮やかな生命の緑に覆われていた。
「よしっ、南側第3ゾーンの追肥作業完了! ロータリーの回転数を維持したまま、そのまま北側の畝に進入……いっけぇぇぇぇ!!」
エンジンの重低音を響かせ、大地原かなたの乗る『クボタ・ラグランド』が猛スピードで畑を疾走する。 黒地に漆黒のレースがふんだんにあしらわれた戦闘用ゴスロリドレスに、日焼け防止の黒いロング手袋、そしてヘッドドレスの黒リボン。一風変わったその出で立ちは、いまやニセコの名物となっていた。
「かなたー! スピード出しすぎだ! 畝の端っこ、土が跳ねて肥料が均一にならねぇぞー!」
畑の脇の農道から、メガホンを手にした青年が声を張り上げる。 ニセコ町役場・産業振興課の公務員服を着た佐藤健人だ。その手には、自作した「大地原農園・夏期育成管理チェックリスト」が挟まれたバインダーが握られている。
トラクターの運転席からヒョコッと顔を出したかなたは、フリルたっぷりの袖を振りながら叫び返した。
「うるさーい! 私の脳内S4シミュレーションでは、この速度と散布角度が一番効率的なの! 健人は黙って役場の書類仕事でもしてなさいよー!」
「黙ってられるかよ! 俺は君の担当保健・営農指導員みたいなもんなんだからな!」
呆れ顔で吐息をつきつつも、健人の目元は優しく緩んでいた。
あの日、3週間の地獄の勉強漬けを経て町役場の職員となってから数ヶ月。 健人の日常は一変した。 昼間は役場の仕事の合間や休憩時間を縫っては大地原農園に足を運び、農地の状態をチェックしたり、補助金の申請書類を処理したり、時には自ら泥にまみれて肥料の袋を運んだ。
そして夜は、独学で最新の農業技術や北海道の気候変動データを勉強し直す毎日だ。
(……ホント、相変わらず無茶苦茶な奴だな)
健人は、トラクターを巧みに操り、眩しい太陽の下で汗を輝かせるかなたの姿を目で追った。
資金難を突破してからのかなたの動きは、怒涛の如くであった。 公的融資で確保した5000万円を元手に、最高品質のカルビー契約農家仕様の種芋を大量購入。さらに、夜間の『ヴァーチャル・ダイブ』による超睡眠学習システム『S4』で叩き込んだ「超精密農業理論」を完璧に実践していった。
スパコン『樹林』の凄まじい並列処理能力によって脳内に構築されたデータは、土壌の微生物のバランスから、数日後のピンポイントな局地的大雨の予測まで完璧に網羅していた。
しかし、健人は知っていた。 どれほど最新のテクノロジーやスパコンのデータがあろうとも、実際に泥にまみれ、毎朝誰よりも早く起きて畑に立ち、休むことなくトラクターを動かしているのは、かなた自身の「肉体」であり「強い意志」なのだということを。
「おーい、かなた! 健人くん!冷たい麦茶入ったわよー!」
母の絹代が、縁側から大きなヤカンとグラスを持って手を振る。
「あ、お母さん! 今行くー!」
かなたは軽やかにトラクターから飛び降りると、ゴスロリドレスの裾を少しだけ持ち上げて走ってきた。 汗で額に張り付いた黒髪と、ほんのり赤く火照った頬。麦茶を美味しそうにゴクゴクと飲み干し、「うはぁー! 生き返るー!」と大胆に息を吐く。
その無防備で一生懸命な姿に、健人の胸がドキンと跳ね上がった。
(……ダメだ。見るたびに、どんどん好きになっていく……)
昔から好きだった。 周囲の目を気にせず、自分の大好きなオタク趣味に突き進む姿が好きだった。 だが、父を失うという大きな悲しみを乗り越え、家を守るために泥だらけになって戦う今のかなたは、健人の目にあまりにも眩しく、愛おしく映っていた。
健人が口元に付いた麦茶の滴をハンカチで拭ってやると、かなたは一瞬「え?」と目を丸くし、それから少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「な、何よ健人。子供扱いしないでよね」
「子供扱いなんてしてねぇよ。……頑張りすぎだと言いたいんだ。夜も、例の『バーチャル・なんたら』で勉強してるんだろ? ちゃんと寝てんのか?」
「『ヴァーチャル・ダイブ』ね! 睡眠学習だから睡眠自体はバッチリとれてるの! それに、ウニョン博士のS4システムは超快適なんだから!」
「へいへい。まあ、体壊したら元も子もないんだからな」
健人は苦笑いしながら、バインダーのページをめくった。 そこには、かなたにはまだ言っていない「あるイベント」の予定が記されていた。
◇
季節は流れ、7月下旬。 ニセコの広大なじゃがいも畑には、一面に白や淡い紫の美しい「じゃがいもの花」が咲き誇っていた。
「うわあ……きれい……」
朝の見回り中、かなたは息をのんだ。 地平線の彼方まで続く、咲き誇る花の海。 自分が『ヴァーチャル・ダイブ』で学び、現実で泥まみれになりながら育ててきた作物が、目に見える美しい形となって花開いたのだ。
「お父さん……見てる? 私、やったよ……!」
感極まるかなたの背後から、パチパチと拍手する音が聞こえた。
「お見事。完璧な生育状況だね、ポテト姫」
私服姿の健人が歩いてきていた。 今日の作業はこれで一区切り。病害虫の予防散布も終わり、収穫の秋を迎えるまでの束の間の「農休期」に入ったのだ。
「健人! 見てよこの花! 過去最高の出来栄えだよ! これなら秋には極上のじゃがいもが山ほど獲れるわ!」
「ああ、分かってる。君の努力の結晶だな」
健人は優しく微笑むと、少し緊張した面持ちでポケットに手を突っ込んだ。 その手は微かに震えていた。
(よし……言え。今言うんだ、健人……! 3週間死ぬ気で勉強した時の度胸を思い出せ……!)
健人は深呼吸をし、まっすぐにかなたの目を見つめた。
「かなた」
「ん? 何?」
「作付けもひと段落したし……今週末、ニセコ神社の『夏祭り』があるだろ」
「ああ、夏祭りね。屋台がいっぱい出るやつ! 久しぶりに行きたいなぁ。フライドポテト売ってるかな?」
「あのさ……もしよかったら……俺と一緒に、行かないか?」
「……え?」
かなたの手が止まる。
「一緒にって……健人と? ふたりで?」
「あ、ああ! もちろん、ただの息抜きだ! この数ヶ月、君はずっと休みなしで働いてただろ? 役場職員として……いや、幼馴染として、たまには羽を伸ばしてほしいと思ってさ! ……だから、その……デート、みたいな感じで……」
最後の「デート」という言葉は、蚊の泣くような小声になってしまった。
しかし、かなたの耳にはハッキリと届いていた。
(デ……デート……!? 健人と……!?)
かなたの脳内で、過熱したS4システム以上のエラー警告が鳴り響いた。 恋愛シミュレーションゲームなら選択肢を何度も踏破してきたが、現実の自分自身が男子から「デート」に誘われるなんて、20年の人生で一度もなかった経験だ。
「な、何言っちゃってんの健人!? 私はオタクだよ!? アニメとゲームとコスプレとポテトしか愛せない女だよ!? デートなんて柄じゃないし、第一着ていく服だってゴスロリか作業着しか……!」
「いいよ、その服で!」
健人はかなたの言葉を遮るように、強く言った。
「君がどんな服を着てたって、俺は気にしない。オタクな君も、泥だらけの君も、全部……かっこいいと思ってるから」
夕日に照らされた健人の顔は、真っ赤だった。だが、その目は決して逸らされなかった。
かなたの胸が、激しく高鳴る。 ドクン、ドクンと、鼓動が耳の奥でうるさいほど響く。
(な、何これ……? 暑さのせい……? それとも、S4システムの副作用……!?)
「……べ、別に……そこまで言われたら、行ってあげなくもないけど……」
かなたは真っ赤になった顔を隠すように、ヘッドドレスのツバを深々とかぶった。
「屋台のたこ焼きと綿あめ、全部健人の奢りだからね!!」
「おう! 任せとけ!」
健人は心底嬉しそうに、破顔した。
◇
週末、ニセコ神社の夏祭り当日。
境内の参道には色とりどりの提灯が吊るされ、太鼓の音と、屋台から漂う香ばしいソースの香りが夜風に乗って漂っていた。近隣の町民や観光客で、境内は大賑わいを見せている。
鳥居の前に立つ健人は、慣れない甚平姿でそわそわと足踏みをしていた。
(遅いな……断られたわけじゃないよな……?)
不安がピークに達しようとしたその時。
「……お待たせ。健人」
聞き覚えのある声に振り返った健人は、言葉を失った。
そこに立っていたのは――いつもの漆黒のゴスロリドレスではなかった。
深く艶やかな紺地に、白い勝顔の「じゃがいもの花」と流星の柄が散りばめられた、特注の「和風ゴスロリ浴衣」を着たかなただった。 髪はアップに結い上げられ、普段は見せない白いうなじが覗いている。帯には大きな漆黒のリボン。
「な、何よ……ジロジロ見ないでよ。今日のために、夜な夜な通販で組み合わせて作ったんだから……おかしい?」
上目遣いに尋ねてくるかなたの破壊力に、健人の心臓は停止しかけた。
「お、おかしくない! 全然おかしくない! めちゃくちゃ……めちゃくちゃ可愛い……!」
「~っ!? バ、バカじゃないの!? 直球で言わないでよ!」
かなたは真っ赤になって顔を背けたが、浴衣の裾を小さく握りしめる手は嬉しそうに震えていた。
ふたりは並んで参道を歩き始めた。
「ほら、健人! 型抜きだ! 私、ゲームの精密操作で鍛えてるから絶対成功させる!」 「おいおい、ムキになるなよ。あ、たこ焼き買うか?」 「買う! お好み焼きも! あと、あっちのリンゴ飴も!」
先ほどまでの照れくささはどこへやら、かなたは子供のように目を輝かせて屋台を巡った。 『ヴァーチャル・ダイブ』の過酷なトレーニングと、現実の猛烈な農業作業から解放され、心から楽しそうにはしゃぐかなた。
その笑顔を見ているだけで、健人は「役場試験に合格して本当によかった」と、心から思った。
「なあ、かなた。少し休もうか」
境内から少し離れた、神社裏手の高台にあるベンチへ向かった。 そこからは、ライトアップされたニセコの街並みと、夜の闇に浮かび上がる広大な大地原農園のシルエットが一望できた。
ベンチに並んで座るふたり。 夜風が、火照ったふたりの頬を心地よく撫でる。
「……すごかったな、この数ヶ月」
健人がポツリと呟いた。
「勝男さんが亡くなって……正直、俺、どうなることかと思ったよ。でも、かなたは本当にすごいよ。一人で立ち上がって、トラクター乗って、勉強して……今じゃ町で一番の農家だ」
かなたは缶チューハイ(健人はラムネ)を一口飲み、遠くの畑を見つめた。
「私一人じゃないよ」
「え?」
「私一人じゃ、絶対無理だった。……S4システムでどれだけ知識を得ても、お金がなくなって、悪い大人たちに囲まれた時……私、本当はすごく怖かったんだから」
かなたは膝の上の浴衣をギュッと握りしめた。
「健人が……あのダサいスーツ着て、息切らして走ってきてくれて……役場の判子がついた書類叩きつけてくれた時……私、人生で一番ホッとしたんだから。健人がいてくれたから、私は今、こうやって笑ってられるの」
かなたは健人の方を向き、真っ直ぐな瞳で見つめた。
「ありがとう、健人。……本当のヒーローみたいだったよ」
(あ……ダメだ……)
健人の胸の中で、何かが溢れ出した。
これ以上、自分の気持ちを「幼馴染」や「役場職員」という仮面で隠し続けることはできなかった。
健人は深く息を吸い込み、かなたの手を両手でしっかりと包み込んだ。
「かなた」
「え……健人……?」
かなたの手が、びくっと跳ねる。だが、健人は手を離さなかった。
「俺は……町の農業を守りたくて役場に入ったんじゃない」
「え……? だって、面接でそう言ったって……」
「嘘じゃないけど……一番の理由は、それじゃない」
健人は、かなたの目を真っ直ぐに見つめた。
「俺は……君を守りたかったんだ。かなたが大好きだから」
夜風が止まったかのように、周囲が静まり返った。
「昔から、ずっと好きだった。アニメに夢中になってる君も、変な服を着て胸を張ってる君も、泥だらけで頑張ってる君も……全部、大好きだ。……俺じゃ、君の好きなゲームの話もできないし、農業の難しいことも分からないかもしれない。でも……君の隣で、君の一番近くで、ずっと支えたいんだ」
健人のストレートで、誤魔化しのない告白。 その言葉の一つ一つが、かなたの心臓にダイレクトに響き渡った。
『S4』の超演算能力も、スパコン『樹林』の1.7倍の処理速度も、いまのかなたの胸の高鳴りを解明することはできなかった。 顔が熱くて、爆発しそうだった。
「け……健人……私……」
かなたが唇を震わせた、その時だった。
ヒュゥゥゥゥゥ……――ボンッ!!
大きな音と共に、夜空に巨大な大輪の花火が打ち上がった。
ニセコの夜空を染める、赤、青、金色の光。 その光に照らされたかなたの顔は、熟したトマトのように真っ赤だった。
「……ず、ずるいよ健人!! こんな時に、そんな格好いいこと言うなんて……!!」
かなたは健人の胸にポンと拳をぶつけた。
「私……オタクだし! わがままだし! これからも無茶な農業経営するかもしれないんだからね!?」
「おう! 全部付き合う!」
「……後悔しても、知らないんだから……!」
かなたは照れくささを隠すように、健人の手に自分の手を強く重ね返した。
夜空に次々と打ち上がる夏の花火。 流星群の如く降り注ぐ光の下で、ふたりの手はしっかりと握りしめられていた。
資金難を乗り越え、作付けを終え、ポテト姫と熱血公務員の恋は、花火の光と共に大きな一歩を踏み出したのだった。
だが――ふたりはまだ知らなかった。 この平和なニセコの地に、さらなる「巨大な脅威」が忍び寄っていることを。
スパコン『樹林』の並列接続による負荷増大。 そして、バーチャルゲーム『ヴァーチャル・ダイブ』の影で蠢く、謎の暴走システム。 秋の収穫期を前に、かなたの『S4システム』に異変が起きようとしていた――。




