地平線のかなた。ポテト姫。農家始める。
あらすじ
地平線まであると言われる農場の娘かなたは
放蕩三昧で『ポテト姫』と言われていた。
そんなかなたの家に突然不幸が訪れる。
父親を失ったかなたは、家業を継ぐ事を決意する。
北海道の空は、どこまでも高く、どこまでも残酷に青かった。
「……まじかあ」
ニセコ連峰を遠くに望む広大な大地の中央で、少女――いや、一応は二十歳の成人女性である北海道一のじゃがいも農家『大地原農園』のひとり娘、大地原かなたは、漆黒のレースがふんだんにあしらわれたフリルたっぷりのゴスロリドレスに身を包んだまま、途方に暮れていた。
足元を覆うのは、果てしなく続く漆黒の土。 本来なら、最新のゲーミングPCの前で推しVTuberの生配信を観ながら、フライドポテトを口に放り込んでいるはずの時間だった。しかし今、彼女の手にあるのは最新型の超軽量タブレット端末でもゲームパッドでもなく、重厚なトラクターの鍵だった。
「かなた……本当にやるの? あなた、農作業なんて一度もやったことがないじゃない。東京のコミケに行くとか、推しのライブに行くとか、そんなことばかりで……」
隣で目元を真っ赤に腫らしているのは、母の絹代だった。弱々しく肩を落とす母の姿に、かなたは胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
先週までの大地原家は、間違いなく町で一番裕福で、一番平和な家庭だった。 広大な敷地に最新の農業機械、北海道の厳しい冬も快適に過ごせる豪邸。父・勝男は腕利きの農家であり、実業家としても優秀だった。だからこそ、ひとり娘のかなたは己の欲望の赴くまま、オタク趣味に没頭することができたのだ。 高級なコスプレ衣装のオーダーメイド、限定版アニメBlu-rayの全巻購入、部屋を埋め尽くすフィギュア、そして自宅の地下室に構築したハイスペックなゲーミング環境。
町の人々は、そんな農園の甘やかされたひとり娘を、影でこう呼んでいた。 ――『ポテト姫』。
「いい? 絹代さん。ううん、お母さん」 かなたはゴスロリドレスの裾を少しだけ持ち上げ、泥で汚れるのも構わずに土を踏みしめた。ヘッドドレスの黒いリボンが、北の爽やかな風に揺れる。 「お父さんが急に逝っちゃったのは超絶ショックだし、ぶっちゃけ現実逃避したいよ? でもね、お父さんが命懸けで守ってきたこの広大なポテト・キングダムを、借金まみれで手放すなんてオタクのプライドが許さないの。私はやるよ。この大地原農園を、私が継ぐ!」
「でも、あなた……トラクターの動かし方だって……」
「大丈夫! YouTubeで動画解説は三回見た! それに、シミュレーションゲームなら『農場経営プロフェッショナル2024』で全実績解除してるから!」
「あれはゲームでしょう……?」
母の正論を耳に挟みつつ、かなたはスカートをたくし上げ、最新型大型トラクター『クボタ・ラグランド』の運転席へと登りつめた。ゴスロリと農機具というあまりにもシュールな光景。だが、その瞳には強い決意の光が宿っていた。
「見とけよ町民ども……ポテト姫の本気、見せてやるんだから!」
エンジンキーを回す。重低音のセルモーター音が響き、強力なディープゼルエンジンが咆哮を上げた。
◇
「おいおい、見たかよ。大地原のところの姫さんだ」 「なんだあの格好は……黒いヒラヒラした服でトラクターに乗っとるぞ」 「勝男さんが泣いてるわ。いくら裕福だからって、農作業を舐めすぎだろ」
町道沿いに広がる畑の端では、近所のベテラン農家たちが呆れ顔でヒソヒソと噂話をしていた。 彼らにしてみれば、泥にまみれて汗を流すのが農業だ。フリルとレースを身に纏い、日焼けを嫌って日傘をさすような娘に、このニセコの広大な土地を管理できるはずがない。ましてや、勝男が残した数兆円規模とも噂される広大な畑と、今期の出荷ノルマをこなせるはずがないのだ。
だが、かなたの目には、彼らの蔑みの視線など入っていなかった。
(くっそ……! ハンドル重いし、レバー多すぎ! 『ファームシミュレーター』と全然操作感違うじゃん! ていうか泥の抵抗力ヤバすぎでしょ、なんだこれ物理演算がリアルすぎる……あ、リアルだったわ!!)
操縦席で汗だくになりながら、かなたは必死にトラクターを走らせた。 畝は蛇行し、土は不揃いに耕される。 プロの農家が見れば一目で「素人仕事」とわかる惨状だった。一日中トラクターを動かし、日暮れを迎える頃には、かなたの全身の筋肉は悲鳴を上げていた。豪勢なゴスロリドレスは泥と汗でドロドロになり、自慢の黒髪もボサボサだ。
「はぁ……はぁ……うそでしょ……まだ畑の十分の一も終わってないの……?」
夕日に染まる広大な畑を見渡し、かなたはその場に崩れ落ちた。 農業は、想像を絶する重労働だった。父はこれを一人で、しかも笑顔でこなしていたのだ。どれほどの知識と、体力と、経験が必要なのか。 今の自分には、そのどれもが決定的に不足している。このままでは、父の残した大地原農園は今期で潰れる。借金だけが残り、母と一緒に路頭に迷うことになる。
「お父さん……私、どうすればいいのよ……」
ポロポロと涙がこぼれ、乾いた土に染み込んでいく。 その時だった。ポケットの中で、スマートフォンが短い電子音を立てて震えた。
通知画面に表示されたのは、ひとつのニュース速報だった。
『北海道ニセコ発! 超睡眠学習システム「S4」を活用した体験型VRゲーム「ヴァーチャル・ダイブ」正式リリース! 開発者は26歳の天才脳科学者チェ・ウニョン博士!』
「……え?」
かなたは涙を拭い、スマホの画面をタップした。
画面には、シャープな知性を漂わせた白衣の美女――チェ・ウニョン博士の姿が映し出されていた。
ニュース記事の解説によれば、こうだ。 流星群の特殊な電波を受信する『メテオラシャワー(流星群受信)』テクノロジーと連結した超高精度システム『S4(Super Sleep Studying Systems)』。 北海道ニセコに建設された国家級スーパーコンピュータ『樹林』を中核とし、睡眠中の脳波をダイレクトに制御することで、睡眠時に日中の数百倍とも言える学習効果を生み出すことができる。円周率一万桁を、わずか一晩の睡眠で完全に暗記させることも可能だという。
そして、その絶大な学習機能を「バーチャルゲーム」として一般開放し、商業利用するために開発されたのが、フル体験型VRゲーム『ヴァーチャル・ダイブ』であった。
頭部に最新型VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』を装着して眠るだけで、ユーザーは完全な仮想現実世界に没入できる。さらに、全世界での利用者急増に伴い、追加入力CPUの並列接続が行われ、スパコン『樹林』の処理性能は当初の1.7倍にまで跳ね上がっているという。
「……睡眠時に……日中の数百倍の学習効果……?」
かなたの脳内に、雷が落ちたような衝撃が走った。
「これだ……! これだよ!!」
かなたは跳ね起きた。 自分が足りないもの。それは「農業の膨大な専門知識」と「熟練した技術を身につけるための時間」だ。普通なら何年もかかって体得する農家の勘とノウハウ。 しかし、この『ヴァーチャル・ダイブ』を使えば――睡眠時間を利用して、一瞬で「プロの農家」の知識を脳に叩き込めるのではないか?
さらに幸運なことに、そのスーパーコンピュータ『樹林』が建設されたのは、まさにかなたたちが住むこの北海道ニセコの地なのだ。
「オタクの収集能力と集中力、舐めるなよ……! ゲームの世界なら、私はトッププレイヤーになれる。なら、仮想現実で農業を極めて、現実のポテト・キングダムを救ってみせる!」
かなたは泥だらけの顔を拭い、力強く立ち上がった。
◇
その夜。 大地原家の豪邸の自室。アニメのポスターや美少女フィギュアが所狭しと並ぶ部屋の中で、かなたはベッドの上に座っていた。 その膝の上には、今日届いたばかりの最新型VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』が鎮座している。実家が裕福だったおかげで、プレオーダーの最上位モデルを即座に購入することができたのだ。
黒く光るスタイリッシュなヘルメット状のデバイス。 これが、超睡眠学習システム『S4』とスパコン『樹林』への扉だ。
「ウニョン博士……あんたの作ったこのシステム、私の農業無双のために使わせてもらうわよ!」
かなたは『フルダイブ・バルブ』を頭に装着した。 視界が暗転し、青い光の粒子が周囲を包み込む。耳元で、静かで心地よい女性のシステムボイスが響いた。
『S4システム、起動。スーパーコンピュータ「樹林」との接続を確立しました。処理能力170%正常稼働中。ユーザー認証……大地原かなた様。ヴァーチャル・ダイブへようこそ』
脳がゆっくりと、心地よい眠りの波へと引き込まれていく。 だが、意識は明晰なまま、無限のデータ空間へと落ちていく感覚があった。
「ダイブ……スタート!」
視界が眩い光に包まれた。
◇
目を開けると、そこは果てしなく広がるエメラルドグリーンの仮想空間だった。 空には流星群を思わせる光の尾が幾筋も走り、足元には透明な光の床が広がっている。
「すごい……これが『ヴァーチャル・ダイブ』の世界……!」
かなたが自分の手を見ると、アバターの姿になっていた。現実の泥汚れは完璧に消え去り、ピカピカの最新デザインのゴスロリドレスを纏っている。
『初期設定を完了しました。ユーザー「かなた」様。希望するコンテンツを選択してください』
目の前に巨大なホログラムウィンドウが現れた。 数々のファンタジーRPG、FPS、アクションゲームのタイトルが並んでいる。しかし、かなたが探しているのはそんなものではない。
「検索……『最先端農業理論』『土壌菌相解析』『北海道適応型作物育成シミュレーション』『大型農機熟練操縦マニュアル』!」
かなたが叫ぶと、システムウィンドウが一瞬フリーズしたかのように点滅し、膨大なテキストと3Dデータ、そしてシミュレーション・プログラムのリストがずらりと再構築された。
『警告:選択されたデータは超高密度の専門学習モジュールです。S4システムによる脳へのダイレクト書き込みが行われます。通常プレイとは異なる負荷がかかりますが、実行しますか?』
「実行! 最大負荷で頼むわ!」
次の瞬間、仮想空間の風景が一変した。
かなたの周囲に、数百万を超えるデータの文字、作物の分子構造式、土壌のpH値、天候予測アルゴリズム、トラクターやコンバインの精密な3DCG解剖図が溢れ出し、濁流となって彼女の脳内へと流れ込んできた。
「ぐっ……!? ああああああっ!?」
圧倒的な情報量。 普通の人間なら一瞬で眩暈を起こして倒れるほどの知識の奔流。 しかし、かなたの「オタク特有の異常な集中力と暗記能力」が、その膨大なデータを凄まじい速度で処理し、分類し、脳の記憶領域へと格納していく。
『土壌中の窒素・リン酸・カリウムの最適比率……了解!』 『病害虫「疫病」「シストセンチュウ」の早期発見とバイオ農薬の散布タイミング……完全把握!』 『クボタ、ヤンマー、ジョンディア製大型トラクターの変速ギヤ制御と、最小旋回半径による畝立て最短ルート計算……インストール完了!』
スパコン『樹林』の1.7倍に増強された並列処理能力が、かなたの脳と完全にシンクロする。 『S4』の睡眠学習効果により、現実世界の1時間が、仮想空間内では数千時間の濃密な訓練へと変換されていく。
仮想の畑で、かなたは何度もトラクターを走らせ、土を耕し、種芋を選別し、天候の変化に対応するシミュレーションを無限に繰り返した。 失敗すれば即座にリセットし、パラメータを微調整して再挑戦する。 ゲームのRTAで最適解を突き詰めるように、彼女は「最高のじゃがいもを作るための究極のプロセス」を脳内に構築していった。
「見えた……! これが、北海道の土地が求める、真の農業……!」
◇
翌朝。 鳥のさえずりと共に、ニセコの地に朝日が差し込んだ。
「ん……ふぁ……」
かなたはベッドの上で目を覚ました。 頭が重いどころか、驚くほどスッキリしている。そして、自分の手を見ると、昨日までとは明らかに違う「感覚」があった。
(……わかる。今の外の気温は12度、湿度は65%。昨日の雨で土壌の水分量はやや過多。今日の作業は、まず北側ゾーンの排水溝の清掃と、南側ゾーンの浅耕から始めるべきだ……)
頭の中に、無数の農業データと明確な作業手順が、まるで生まれたときから知っていたかのように溢れていた。
「す、すごすぎる……S4システム……ウニョン博士、マジ神……!」
かなたはベッドから跳ね起きると、昨日泥だらけになったゴスロリドレスを素早く洗濯機に放り込み、予備の(さらにフリルが増量された)戦闘用ゴスロリドレスに着替えた。
部屋を飛び出し、1階へ降りると、母の絹代が心配そうな顔で朝食を準備していた。
「かなた、大丈夫? 昨日はすごく疲れていたみたいだし、今日も無理しなくても……」
「お母さん! 朝ごはんいただくね! あと、今日の作業スケジュールだけど、農協からバイオ肥料のBタイプを10トン手配しておいて! それと、南側の畑の暗渠排水のバルブ、あとで私が調整するから!」
「え……? あんきょ……? バイオ肥料……?」
ポカンとする母を置き去りにし、かなたはトーストを口に咥えたまま玄関を飛び出した。
晴れ渡る空の下、大地原農園の広い畑に立ち立つ。 かなたは迷いのない足取りで大型トラクターに近づくと、軽やかな動きで運転席へと跳び乗った。
エンジンキーを回す。 轟音と共に目覚める重圧なマシン。
昨日はあれほど複雑に見えたインパネのスイッチ類が、今のかなたには自分の体の一部のように理解できた。
「ギヤ、3段。PTO回転数、適正。ロータリー下降……いっけぇぇぇぇ!!」
クラッチを繋いだ瞬間、トラクターは力強く前進を開始した。 昨日の蛇行が嘘のように、トラクターは完璧な直線を描いて土を深く、美しく掘り返していく。 土の抵抗を感じ取り、瞬時にアクセル開度を微調整する。旋回時には最小限の旋回半径で無駄なく次の畝へと進入する。
それはまさに、長年北海道の大地と向き合ってきた熟練農家すら舌を巻く、芸術的な操縦だった。
「な、なんだあれは……!?」
通りかかった近所のベテラン農家たちが、目を丸くして立ち止まった。
「あいつ、昨日までトラクターのエンジンすらかけられなかったポテト姫だぞ!?」 「バカな……あの畝立ての美しさ、勝男さんの全盛期以上だ!」 「速い……! なんだあの作業スピードは! まるで機械が自我を持って動いているみたいだ!」
噂を聞きつけた町民たちが、次々と畑の周りに集まり始めた。 彼らが目撃したのは、黒いゴスロリドレスの裾を風になびかせながら、最新型トラクターを完璧に操り、広大な大地を圧倒的な速度で耕していく『ポテト姫』の姿だった。
運転席の中で、かなたは不敵な笑みを浮かべていた。
(フフン、驚きなさい町民ども! これが最新テクノロジー『S4』とオタクの執念が生み出した、ハイブリッド農家の力よ!)
作業を開始してわずか3時間。 昨日なら丸一日かかっても終わらなかったエリアの耕起が、完璧な精度で完了していた。
トラクターを止め、運転席から降り立ったかなたは、集まった町民たちに向かってバシッと人差し指を突き立てた。
「みんな、今まで好き勝手呼んでくれたわね! 『ポテト姫』? ええ、結構じゃない! 認めさせてあげるわ。この大地原かなたが、ただの放蕩娘じゃないってことを! この北海道ニセコの地から、世界一のじゃがいもを作って見せるわ!!」
静まり返るギャラリー。 やがて、誰からともなく小さな拍手が湧き起こり、それはすぐに割れんばかりの歓声へと変わった。
「すごいぞ、かなたちゃん!」 「勝男さんの跡継ぎは、本物だ!」 「見直したぞ、ポテト姫ーっ!」
遠くで見守っていた母の絹代が、涙を拭いながら微笑んでいた。
ヘッドドレスのリボンを直し、かなたはニセコの青空を見上げた。 頭上には、見えない波長で流星群の電波を受信し続けている『メテオラシャワー』の空が広がっている。そしてその奥には、彼女の頭脳を覚醒させたスーパーコンピュータ『樹林』と、ウニョン博士の創り出した『ヴァーチャル・ダイブ』の世界が存在しているのだ。
(昼は現実の大地で汗を流し、夜はヴァーチャル世界で極限の農業スキルを磨く……! 私の二重生活は、まだ始まったばかり!)
こうして、オタクで世間知らずだった『ポテト姫』の、前代未聞の農業改革劇が幕を開けたのだった。




