黒猫のエドワード。沖縄へ行く。
あらすじ
夏休みに入った聡太は沖縄旅行を思い立つ。『ヴァーチャル・ダイブ』にて黒猫エドワードとして沖縄に行った彼に予想外の事が待っていた。
夏休みの風が、東京の蒸し暑い空気を連れて部屋の窓を揺らしていた。 高校生の中澤聡太は、自室のベッドに横たわりながら、手にした最新型VRヘッドギア『フルダイブ・バルブ』の質感を確かめていた。冷たい金属とソフトなクッションが頭部に馴染む。
「……よし、今夜のダイブ先は沖縄だ」
『ヴァーチャル・ダイブ』のサーバー群が、今夜も無数の利用者の意識を呑み込もうとしていた。
聡太は深く息を吐き出し、ゆったりと瞼を閉じる。強制ダイブのような脳への負担を避け、自然な入眠とともに意識を仮想空間へ滑り込ませるのが、このゲームの正しい嗜み方だ。親にとっても「子供が勝手に早寝してくれる」と評判のシステムである。
意識が心地よい微睡みの海へと沈んでいく。やがて、視界を覆う暗闇が鮮烈なエメラルドグリーンの光へと弾けた。
四肢の感覚が変わる。二本足の立位から、低くしなやかな四足歩行の姿勢へ。 毛並みは漆黒。尾は優雅に揺れ、瞳には夜の静寂を宿す。 彼の名は「エドワード」。亡国の王太子という、聡太が歴史の教科書で見かけた「エドワード黒太子」から適当に拝借した気取った設定を持つ黒猫である。この仮想世界で猫として緩く、気ままに生きることこそが、聡太の密かな癒やしであった。
「……にゃおん(よし、着いたぞ)」
喉を鳴らして見上げた視界には、どこまでも広がる沖縄の青い空と、潮風にそよぐサトウキビ畑。そして何より、視界の先にそびえ立つ『沖縄・美ら海水族館』の大屋根があった。
黒猫エドワードはしなやかな跳躍でフェンスを飛び越えると、一目散に水族館の内部へと侵入した。『ヴァーチャル・ダイブ』のクオリティは、型落ち機の集合体とは思えぬほど精緻だ。五感の再現度は極めて高く、波の音も、潮の香りも本物と区別がつかない。
巨大な大水槽「黒潮の海」の前に立ったエドワードは、ガラス越しに泳ぐジンベエザメやナンヨウマンタを見上げ、黄緑色の瞳を輝かせた。 そして、その目線の先にあるのは──美味しそうな魚たちの群れだ。
「ナァン(あのグルクンの群れ、絶対に脂が乗ってる……)」
本来なら手出しできないガラスの向こう側だが、ここはVR世界。エドワードが前脚を伸ばしてガラスに触れると、システム特有のアクションが起動し、疑似的な「キャッチ&イート」のメニューが展開される。無数の色鮮やかな魚たちを「鑑賞」しながら、その味わいだけを舌の上でダイレクトに堪能できるのだ。
身の締まった白身の旨味、濃厚な脂の甘みが口いっぱいに広がる。エドワードはご満悦で喉を「ゴロゴロ」と鳴らし、前脚で顔を洗った。亡国の王太子という重々しい設定など、この極上の味覚体験の前には塵に等しかった。
◇
水族館での「魚の満腹体験」を満喫したエドワードは、次なる目的地である那覇・国際通りへと向かった。仮想空間内の沖縄は、移動もシームレスかつ瞬時に行える。
夜の国際通りは、色鮮やかなネオンとハイビスカスの香りに包まれていた。ストリートミュージシャンが奏でる三線の音が心地よく響き、観光客の笑い声が溢れている。だが、黒猫エドワードの狙いは、人間たちの足元──そう、路地裏に漂う魅惑の「残飯」であった。
残飯といっても、そこはR15以下の安全モードも備えた商用ゲームである。衛生上の害など皆無であり、提示されるのは沖縄グルメの極上な香ばしさだけだ。
居酒屋の裏口に忍び込んだエドワードは、木箱の上に置かれたパックを見つけた。 「ラフテー」の濃密な醤油と泡盛の香り、「ゴーヤーチャンプルー」の香ばしい鰹節の匂い。さらに、ジューシーな「ポークタマゴ」の切れ端まで落ちている。
「にゃー!(宴の始まりだ!)」
エドワードは前脚を上手に使い、ラフテーの角煮を口に運んだ。口の中でトロリととろける豚の脂身。濃厚なタレが毛並みに飛び散るのも構わず、黒猫はむしゃむしゃと沖縄グルメを堪能した。続いて香ばしいタコライスのミンチ肉を舐め取り、完璧な美食のひとときを過ごす。
まさに、至福の時間。このまま満腹になって、あたたかいアスファルトの上で丸くなって眠る──それこそが中澤聡太の思い描いた理想の「猫生」であった。
しかし、その平穏は唐突に破られた。
「……フシューッ!」
背後から放たれた、尋常ではない威嚇の低い唸り声。 エドワードが耳をピクリと動かし、ゆっくりと振り返ると、路地裏のゴミ箱の陰から「それ」が現れた。
ガッシリとした太い四肢、丸みを帯びた小さな耳、そして体に走る独特の褐色と黒の斑紋パターン。 どう見ても、ただの野良猫ではない。特別天然記念物──イリオモテヤマネコだ。
(な、なんで那覇の国際通りにイリオモテヤマネコが……!?)
聡太の頭の中に素朴なツッコミが駆け巡る。本来、西表島にしか生息していないはずの稀少生物が、なぜ那覇の居酒屋裏にいるのか。プレイヤーのカスタムアバターなのか、それともNPCのバグなのか。
ヤマネコは鋭い爪を地面に立て、漆黒の黒猫を睨みつけていた。胸元には黄金の首輪が光り、そこにはプレートが刻まれている。 『リチャード』。
「……フシューッ!(そこは俺のナワバリだ、黒毛の軟弱者が!)」
リチャードと名付けられたイリオモテヤマネコは、野性味溢れる眼光でエドワードを威嚇した。どうやら、エドワードが貪っていたラフテーとポークタマゴは、彼が狙っていた獲物だったらしい。
エドワードは亡国の王太子の威厳(と、横取りした残飯の美味しさ)を守るため、背中の毛を逆立てて一歩も引かない構えを見せた。
「ニャオーーーン!(渡さん! これは我が王国の糧となったのだ!)」
路地裏に張り詰める緊張感。二匹の視線が交錯し、火花が散る。 その時、リチャードが不敵に口端を歪め、野太い声で言い放った(ようにエドワードには感じられた)。
「こんな狭苦しい街の裏路地で決着をつけるのも野蛮だ……追ってこい、黒猫! 日本最西端の果て、与那国島で本当の決闘を見せてやる!」
リチャードはしなやかな跳躍でブロック塀を飛び越えると、夜の闇の中へと消えていった。
「にゃ、にゃんだと……!?」
遺されたエドワードは、残されたゴーヤーチャンプルーを一口で平らげると、前脚で鼻を拭った。ただの緩い日常系VR体験のはずが、なぜか風雲急を告げるバトル展開へ。だが、これもまた『ヴァーチャル・ダイブ』の醍醐味かもしれない。
「面白い……亡国エドワード王太子の名にかけて、その挑戦受けて立つ!」
黒猫は夜の那覇を駆け抜け、西の果てを目指した。
◇
マップを急速移動し、エドワードが降り立ったのは、日本最西端の島──与那国島であった。
目の前に広がるのは、太平洋と東シナ海の荒波が激しくぶつかり合う、雄大な断崖絶壁『日本最西端の碑』。吹き荒れる強風が黒猫の毛並みを激しく乱す。眼下には紺碧の海が広がり、白い波頭が岩肌を噛んでいた。
その断崖の頂点、風を背にして立っていたのは、イリオモテヤマネコのリチャードであった。
「来たか、エドワード」 「ニャー(逃げ隠れはせん)」
二匹の距離は十メートル。風が砂を巻き上げ、緊張感が極限に達する。
『ヴァーチャル・ダイブ』のシステム内部では、五万台のゲーム機が吐き出す処理能力──『樹林』の並列演算が、この二匹の感情の高ぶりと戦闘行動の物理演算をリアルタイムで処理していた。微細な感情の揺らぎが精神的エネルギーとして可視化され、仮想空間の気象すら歪め始める。
「行くぞッ!」
リチャードが疾走した。野生の躍動感そのままに、力強い踏み込みで岩場を蹴り上げる。ヤマネコ特有の圧倒的な筋力による突進だ。
「甘い!」
エドワードは王太子としての誇り(と、洗練された素早さのアバター補正)を活かし、ギリギリのところで側方へステップ。間一髪でリチャードの鋭い爪をかわす。
ガキィン! と、仮想空間とは思えぬ金属的な打撃音が響き、岩肌に爪痕が刻まれた。
「にゃあああッ!」
空中で反転したエドワードは、着地と同時にリア脚をバネのようにしならせ、リチャードの側腹部へ向けて「黒猫パンチ」の連打を繰り出した。
パパン! パパパン!
「ぐッ……なかなかやる!」
リチャードは打撃を耐えると、長い尻尾をムチのようにしならせて牽制。二匹は間合いを取り直し、互いに低い姿勢で円を描くように回り始めた。
風が吹き荒れる。空にはいつの間にか暗雲が立ち込め、稲光が遠くの海を照らした。 利用者の精神的エネルギーを疑似体験によって「消費」させる『S4』の遺産──そのシステムの一部が、二匹の激しいプライドのぶつかり合いに反応していたのだ。
(くっ……強い! さすが特別天然記念物……!)
聡太は心の中で冷や汗をかいた。軽い気持ちで沖縄グルメを楽しみに来たはずが、なぜ命がけのバトル漫画のような展開になっているのか。しかし、ここで負ければ「亡国の王太子」の名が泣く。
「リチャード! これで終わりだ!」
エドワードは高所へ躍り出た。断崖の巨大な岩石の頂点。背後には激しさを増す波濤。 黒猫の全身から、仮想空間のノイズのような黒いオーラが立ち上る。
「必殺……『エドワード・ブラック・クロウ』ッ!!」
高い跳躍から、重力を味方につけた急降下爪攻撃。漆黒の旋風となって、エドワードはリチャードへと襲いかかった。
対するリチャードも、咆哮とともに地を蹴る。
「ウオオオッ! ヤマネコ・ストライクッ!!」
二匹の影が、与那国島の最西端で激突した。
閃光が弾ける。 爪と爪が交錯し、強烈な衝撃波が周囲の仮想草木を薙ぎ払った。 システム上の耐久値(HP)ゲージが互いに高速で削られていく。極限の攻防──。
パリン!
甲高い効果音とともに、空間が静まり返った。
◇
静寂が戻った。
与那国島の断崖の上、二匹の猫は仰向けになって倒れていた。 エドワードの黒い毛並みも、リチャードの斑紋も、泥と傷でボロボロである。
「……ふぅ、ふぅ……」 「……みゃー、みゃー……」
お互いのHPゲージは残り「1」。完全なる引き分けであった。
雲が切れ、西の空から赤い夕陽が差し込んできた。海が黄金色に染まり、荒々しい波も静かな漣へと変わっていく。激しい戦闘によって二匹の脳から放出されたアドレナリンと精神的エネルギーは、『樹林』の『自我の不測の補完』システムによって綺麗に「消費」され、消滅していた。
残ったのは、爽快感と、心地よい疲労感だけだった。
「……なかなかやるな、黒猫。お前の爪、効いたぞ」 リチャードが前脚を投げ出し、空を見上げながら呟いた。
「ニャー……(お前こそ、さすがは西表の勇者だ)」 エドワードもゴロリと横になり、夕陽の温もりを仮想の皮膚で感じ取っていた。
二匹は顔を見合わせ、ぽつりと小さく笑った(猫の表情筋が限界まで柔らかくなった)。
「……なあ、黒猫」 「ニャン?(なんだ?)」 「国際通りのラフテー……美味かったか?」 「ニャー(最高だった。トロトロでな)」 「そうか……次は半分こしようぜ」
「……ニャン(ああ、約束だ)」
二匹はゆっくりと前脚を伸ばし、互いの肉球をぽんと合わせた。 『ヴァーチャル・ダイブ』の広大な世界で生まれた、ちっぽけで、けれど熱い友情の瞬間だった。
◇
ピピッ、ピピッ、ピピッ──。
枕元の目覚まし時計が鳴り響き、中澤聡太は目を覚ました。 頭から『フルダイブ・バルブ』を静かに外す。朝の光が部屋に差し込んでいた。
「……ふぁあぁ……」
大きくあくびをして、自分の両手を見る。黒い毛も、鋭い爪もない。人間の十本の指だ。
「……すごかったな、昨日の沖縄……」
体の疲れは一切ない。むしろ、上質な睡眠をとった後のように頭はスッキリとしており、心の中の日頃のストレスやモヤモヤは綺麗に吹き飛んでいた。『S4』システムの精神浄化効果は、期せずして正しく機能していたようだった。
『今夜は石垣島で牛ステークの残飯を探す。来れるか?』
リチャードの最期の言葉を思い出し、聡太はくすりと笑い、
『勿論だ。亡国エドワード王太子、定刻に参上する』
一人、つぶやくのであった。
ただ、今夜もまた、最高の「猫生」が彼を待っている。
聡太は爽やかな夏の朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、リビングへと向かった。
記載する表現に関して、常識に基づいて気をつけて参りますが、
もしもを考慮して15歳未満閲覧非推奨を設定させて頂きます。
こちらに何か落ち度がございましたら、お知らせ願います。
※短編『S4(エス・フォー)』Scientific Fantasy
※短編ユリン S4 Scientific Fantasy2
先行した2つの作品を読んでいただけますと、
わかりやすい内容になっています。
参考までに気が向いたらご覧ください。
登場人物
〇チェ・ウニョン
天才脳科学者、元高校教師
韓国脳科学会に「性善説でもなく性悪説でもない
『無による無』の論文を出して提唱したが、
女性である事とまだ若い事が遠因となって、
『無による無』は
『成り行き任せの論ずるに値しない学説』として
笑われ、学会を追放されてしまった。
世の中にあがらう事を諦め、
生活の為にソウルの高校にて教師をしていた。
大変な美人だが、脳科学者だけに脳に正直で、
普通の女性よりもほんの少し下品で、
ほんの少しビッチな発言もある。
大韓民国の『国民総教化計画』を阻止すべく、
『水霊』の破壊と『儒林』の消滅をやってのけた。
キム・ソヒョン
アトリエ・ノア会長室室長。
会長佐藤氏志乃の最側近(雑用係とも)
FGS(藤咲化粧品)korea第二営業企画部部長。
総合映像制作会社S.S.I社長ユン・ヒョヌの元恋人。
作家ユン・シウの元恋人。
他者肯定も少なく、
自己肯定も少ないので何かと苦労しがちな女性。
それはチェ・ウニョンの理論『無による無』と通じる素養をもっている。
元恋人のユン・シウは作家なだけに空即是色
(0から創作する )または(何気ない日常がドラマだ)と考える人間なので、
分かり合えるはずがなかったのかも知れない。
参考
※S4(エスフォー)
韓国で開発された超睡眠時学習システム
『Super・Sleep・Studying・Systems』
大韓構想にて国民総教化計画の一環で
表向きは若年世代の教育強化を目指した。
※水霊
韓国で大韓構想を元に開発されたスーパーコンピュータ。
『Super・Sleep・Studying・Systems』の頭脳。
※大韓構想
朝鮮半島の統一を果たした大韓民国が掲げた構想。
「世界で最も優秀で、最も繁栄した国家の構築」
※儒林
水霊の真の最終目標『全脳化計画』。
世界中のPC・タブレット・スマホを『CPU』として、
水霊を実体無くして最強であるものとする計画。
シナプスとして
流星群受信が用いられた。
※樹林
北海道ニセコにて佐藤志乃率いる
Juringエンタが開発したスーパーコンピュータ。
日本メーカーのゲーム機(一応、最高グレード)1万5千台を接続して、
30億円投資して完成させた。
ちなみに名前の由来は、数十年前に佐藤志乃が在籍した、
東京シルフィード歌劇団在籍時の舞台名
『天翔樹林』が元になっている。
(社名のJuringエンターテイメントも同様)
儒林と似ているがまったく関係ないネーミングであった。
表向きは『つぎはぎのポンコツ』とされているが、
実際は日本のフラッグシップ富岳と同等以上の性能を発揮し、
消費電力も3分の1となっており、
投下した資本からするとかなりコスパの良い設備である。
国内で騒がれない為に『山奥のポンコツ』と広めている。
冷却に降雪した雪を使用しており、融けてろ過した水は海外に売却してコストダウンしている。
後日、魔改造が施されスペックが向上した。
エラーはほとんどなくなった。
※流星群受信
Meteor shower signal reception。
米国の富豪が打ち上げた精密な衛星通信網は、
自動帰還するロケットを用い、小型通信衛星を打ち上げるビジネスであったが、
日本のベンチャーがもっと安価に完全使い捨ての格安ロケットにて、
野球の球ほどの通信端末をドラム缶いっぱいに持っていき、
衛星軌道上でぶちまける事によって追い抜いた。
死角無しの衛星通信網である。
無計画に端末をぶちまく為、高頻度で大気圏に落下し、
流れ星が大量にみられる理由から、流星群受信と言われるようになった。
極めて大雑把で安価なベンチャービジネスで構築した、
地球全土を覆う死角なき通信ネットワークのその通信端末は、
現代のスマホが充電スタンドで置くだけで充電できるのと同じ仕組みで、
宇宙に漂う電磁波を表面で吸収し、半永久的に駆動する。




