第2話 岩だ!樹だ!戦車の残骸だ!
「制空権とは、空を支配することではない。空から地上を支配することである」── ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
場所は、ベルギー国境の東方約十キロメートル、アルデンヌの森の中に設営された第十九装甲軍団の前線司令部。大型の野戦テント三張りを連結した仮設の指揮所は、オイルとタバコの匂い、そして何よりも、隠しきれない焦燥感が充満していた。
テントの外では、帰還した兵士たちの呻き声が絶え間なく聞こえる。衛生兵が走り回る足音。時折混じる、嘔吐の音。精神的衝撃による失語状態に陥った兵士を、軍医がブランデーで落ち着かせようとする声。
グデーリアンは「電撃戦の父」と呼ばれる男である。装甲部隊の集中運用による高速機動戦──ポーランド戦で実証されたその理論は、彼の名を欧州全土に轟かせた。しかし今、その理論の根幹を揺るがす事態が起きていた。
「通信途絶だと?」
グデーリアンが低い声で問う。目の前に直立する通信将校は、顔面蒼白で唇をわななかせていた。この将校もまた、ポーランド戦を生き抜いた歴戦の士官だが、今は新兵のように震えている。
「は、はい。先遣のクライスト装甲中隊、ならびに第二偵察大隊、全滅との報告が……最後の通信は、悲鳴と……何かが──金属が潰れるような轟音のみで……」
「馬鹿な」
グデーリアンは吐き捨てた。相手はルクセンブルクだ。正規軍を持たない小国。義勇軍団は七百名足らず。対戦車砲すら保有していないはずだ。泥道でトラックがスタックしたというなら分かる。橋梁が爆破されて渡河に手間取っているなら理解できる。だが「全滅」とは、いったいどういう意味だ。
「生存者の証言によりますと……『歩兵』だと」
「歩兵?」
「ルクセンブルク軍の歩兵が……素手で戦車を解体し……対空砲を小銃のように乱射していると……」
司令部内が凍りついた。グデーリアンは眉間を揉んだ。集団ヒステリーか。戦闘神経症か。素手で戦車を解体する人間など、ジークフリートの叙事詩にしか存在しない。
だが、地図上の進軍ラインは完全に停止していた。マンシュタイン・プランの生命線は速度である。ここで足踏みすれば、連合軍に態勢を立て直す時間を与えてしまう。
「敵が何であれ、道路を塞ぐ障害物は排除するのみだ」
グデーリアンは野戦電話の受話器を取り上げ、第VIII航空軍団の司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン中将への回線を繋いだ。リヒトホーフェンは「赤い男爵」マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの従弟であり、スペイン内戦でゲルニカ爆撃を指揮した冷酷な航空指揮官である。
「リヒトホーフェン、掃除の時間だ。ザウアー川流域のルクセンブルク防衛線に、貴軍の全火力を叩き込め。蟻一匹這えないようにしろ」
「了解した。スツーカを三個群(Gruppen)出そう。地上の鼠どもを巣穴ごと埋めてやる」
グデーリアンは少しだけ安堵した。Ju87スツーカ急降下爆撃機──その精密爆撃と、急降下時にサイレンが発する「ジェリコのラッパ」の心理的恐慌効果は、ポーランドで実証済みだ。ポーランド軍の精鋭歩兵ですら、あの音を聞いた瞬間に塹壕を飛び出して逃走した。
たとえ相手がどのような異常な存在であっても、五〇〇キログラム爆弾の直撃には抗えないはずだ。物理法則は万人に平等なのだから。
◆
キィィィィィィィン──。
空気を引き裂く不快な高音が、ルクセンブルクの空に響き渡った。
「ジェリコのラッパ」。Ju87B型スツーカの固定脚に取り付けられた風力サイレン──通称「ジェリコ・トランペーテ」が、急降下時の風圧で回転することによって発する、人間の精神を蝕む音響兵器である。旧約聖書において、ヨシュアの軍勢がジェリコの城壁を角笛の音で崩壊させたという故事にちなむその名は、すでにポーランドとノルウェーにおいて、無数の兵士の精神を崩壊させた実績を持っていた。
上空を埋め尽くす黒い影。三個群、合計三十六機のJu87B-2型スツーカが、三列横隊の編隊を組み、高度四千メートルから太陽を背にして降下を開始した。各機は翼下に二五〇キログラム爆弾一発、もしくは五〇キログラム爆弾四発を懸吊している。操縦士と後部銃手の二名が搭乗し、前方にはMG17七・九二ミリ機関銃二挺、後方防御用にMG15七・九二ミリ機関銃一挺を装備する。
目標は、エヒテルナハの橋梁周辺に展開するルクセンブルク第一大隊。
「来たな、蠅どもが」
ジャン・メイヤー大尉は、瓦礫の山と化した国境検問所跡で空を見上げた。彼の周囲には、先ほどの地上戦で破壊したドイツ戦車や装甲車の残骸が散乱し、まだ黒煙を上げている。
部下たちは、恐怖に逃げ惑うどころか、降下してくる機体を物珍しそうに指差していた。まるで町の祭りで花火を見上げる子供たちのように。
「おい、あの先頭のやつ、パイロットが小便漏らしてるのが見えるぞ」
「馬鹿言え、あの距離で見えるわけないだろう」
「見えるんだよ、俺の目は鷹より良いからな」
彼らの視力もまた、常人の域を遥かに超えていた。
「総員、対空戦闘用意」
ジャンの号令が飛ぶ。だが、彼らは対空砲座に走ることはなかった。そもそも、そんなものは設置されていない。ルクセンブルクに対空砲は一門も存在しない。
彼らはただ、周囲に散乱する「手頃なもの」を物色し始めた。
大隊きっての怪力──「怪力」という表現がこの大隊において意味を持つこと自体が異常だが──で知られるガストン・ウェーバー軍曹は、先ほどの戦闘でひっくり返されたドイツ軍III号戦車E型へと歩み寄った。全備重量十九・五トンのその鉄塊は、仰向けに横転してキャタピラを天に向けている。
ガストンはひしゃげた砲塔の付け根に両手をかけると、全身の筋肉を隆起させた。首から肩にかけての僧帽筋が山脈のように盛り上がり、上腕二頭筋が砲弾のように膨張する。三角筋の筋繊維一本一本が浮き上がり、背中の広背筋が翼のように展開した。
ギギギギギ……バキィンッ!!
溶接と、ボルト十六本と、ターレットリングで車体に固定されていた砲塔が、車体から引き剥がされた。重量約三トン。それを、ガストンは片手で頭上に掲げた。
「仰角よし。風向き……北北東の微風。よし」
ガストン軍曹は、砲塔の砲身部分をハンマー投げの要領で掴むと、その巨体を独楽のように回転させ始めた。
ブンッ、ブンッ、ゴオオオオオ……。
三トンの鉄塊が風を切る音が、スツーカのサイレン音に拮抗するかのように唸りを上げた。遠心力で地面がめり込み、ガストンの足元にクレーターが形成されていく。
「堕ちろッ!!」
指が離された。
砲弾ではない。戦車の砲塔そのものが、古代の投石機から放たれた巨石の如く、空へと射出された。放物線を描いて上昇する三トンの鉄塊──その初速は、計算上、秒速百メートルを超えていた。
急降下中のスツーカのパイロットにとって、それは悪夢以外の何物でもなかっただろう。照準器のレティクルに地上の標的を捉え、爆弾投下高度に達しようとしていたまさにその瞬間、視界の下方から、III号戦車の砲塔が飛んできたのだ。
「回避ッ! 回避しろ! 何かが飛んでき──」
操縦桿を引く暇もなかった。ガストンの投じた砲塔は、先頭のJu87の操縦席を正面から直撃し、ユンカース社製のユモ211Da型エンジンもろとも機体を空中で粉砕した。航空用ガソリンと搭載弾薬が誘爆し、高度千メートルの空に巨大な火球が咲く。黒と赤の花弁が開き、破片が流星のように四方へ散った。
「へっ、一丁あがり」
ガストンが鼻をこする。それを合図に、他の兵士たちも一斉に「対空戦闘」を開始した。
ある者はへし折ったブナの巨木を槍のように投げ上げた。ある者はオペル・ブリッツトラックのマイバッハ製六気筒エンジンブロックを砲丸投げの要領で放り投げた。またある者は、破壊したIII号戦車の転輪を手裏剣のように連続して投擲した。
信じがたいことに、彼らの動体視力と腕力は、時速三〇〇キロメートル以上で降下してくる航空機を正確に捕捉し、直撃させていた。
「対空砲火ではない! 飛んでくるのは……岩だ! 樹だ! 戦車の残骸だ!!」
スツーカ隊の編隊長、ヘルムート・ベルガー少佐は錯乱していた。高度を上げようにも、急降下の慣性がついている。Ju87の引き起こしには、高度四五〇メートル以上の余裕が必要だ。その間に、下から飛んでくる理不尽な投擲物が、僚機を次々と叩き落としていく。
主翼を大木に粉砕され、きりもみ状態で墜落する機体。エンジンに岩石がめり込み、冷却液を撒き散らしながら失速する機体。操縦席にトラックの車軸が突き刺さり、パイロットごと串刺しになった機体。
その光景は、近代航空戦の全否定だった。レーダーも高射砲も使わず、最新鋭の急降下爆撃機が、原始時代の投石によって撃墜されている。
「爆弾を投棄しろ! 上昇! ここは空ですら安全ではない!」
だが、投下された爆弾ですら、地上から十数メートルの高さまで跳躍した兵士によって空中で殴り返されたり、爆風を筋肉の壁で受け流されたりしていた。二五〇キログラム爆弾が至近距離で炸裂しても、彼らは「少し熱いな」と言いながら煤を払い、耳を掻くだけだ。
三十分後。
リヒトホーフェンが誇る急降下爆撃隊は、三十六機のうち十九機が撃墜され、残りも翼をもがれ、エンジンから黒煙を吐きながら、ほうほうの体で東へと敗走した。ルクセンブルクの空は再び静寂を取り戻し、五月の太陽が何事もなかったかのように輝いている。
地上には、無惨な鉄屑と化した航空機と戦車の残骸が折り重なり、奇妙な前衛芸術のようなオブジェを築いていた。
◆
ジャン大尉は、墜落したJu87の残骸からパイロットを引きずり出した。パイロットは防弾ガラスの破片で顔中が切れ、恐怖で失禁し、ガタガタと震えている。ジャンは彼の傷を一瞥し、致命傷でないことを確認すると、巨大な手で止血処置を施した。その手つきは、見かけによらず繊細だった。
「帰って、上官に伝えるといい」
ジャンは、パイロットの胸ポケットに、ねじ曲げたスツーカのプロペラブレードの破片をねじ込んだ。
「我々の空を汚すなら、次は月まで投げ飛ばしてやる、とな」




