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第3話 薬物乱用は「ダメ。ゼッタイ」

空軍の惨敗。


その報告は、グデーリアンの司令部のみならず、ベルリンの総統大本営をも震撼させた。


ルクセンブルク方面への進軍は完全に停止した。迂回を試みた偵察隊も、アルデンヌの森に入った途端に消息を絶っている。森そのものが彼らの領域なのだ。どの小道を選ぼうと、木々の陰から戦車砲弾に匹敵する投擲物が飛んでくる。航空偵察機すら、高度二千メートル以上を飛ばなければ安全が確保できない有様だった。


マンシュタイン・プランは時間との勝負である。ルクセンブルクを通過できなければ、連合軍に態勢を立て直す猶予を与えてしまう。焦燥の中、軍上層部は国防軍の正攻法を放棄し、ナチスの暗部を体現する組織に白羽の矢を立てた。


親衛隊(SS)特別戦闘群「ヴァルプルギス」。


通常の武装親衛隊(ヴァッフェンSS)とは異なる、ハインリヒ・ヒムラーの直轄下にある非正規戦闘部隊である。彼らの存在は、国防軍の将官ですら詳細を知らされていなかった。


◆


夕暮れ時。ルクセンブルク国境のドイツ側前線基地に、重苦しいエンジン音と共に異様な車列が到着した。掲げられた旗はハーケンクロイツではなく、二重のジグルーネ──SSの象徴たる稲妻のルーン文字。


トラックから降り立ったのは、骸骨の徽章──トーテンコップ──をつけた黒服の兵士たちだった。だが、彼らの様子は尋常ではなかった。


整列しているにもかかわらず、全員が小刻みに震え、虚空を見つめて歯軋りをしている。異常な発汗。開ききった瞳孔。頬がこけ、目の周囲が暗く落ち窪んでいるのに、体は異様な興奮状態にある。


彼らは、ベルリンのテムラー製薬が製造した覚醒剤「ペルビチン」──メタンフェタミン塩酸塩──を致死量寸前まで投与された突撃兵だった。ドイツ軍では一九三八年から疲労回復と士気高揚のために広く配布されていたこの薬物を、ここでは臨床試験の域を超えた量で──一回あたり三〇ミリグラム以上を、六時間おきに──投与し続けている。恐怖心の欠落。痛覚の完全麻痺。そして、筋肉の限界を超えた収縮による一時的な筋力増強。代償として、腎臓と心臓に不可逆的な損傷が蓄積し、大半の兵士は七十二時間以内に廃人と化す。


もはや兵士ではない。使い捨ての生体兵器だった。


そして、彼らが護衛する車輌もまた異形だった。


II号戦車の車体をベースに、主砲を撤去し、代わりに巨大な放射ノズルと砲塔後部に二百リットルの燃料タンクを搭載した「フラムパンツァーII」──Sd.Kfz.122、通称「フラミンゴ」。火炎放射戦車である。射程は約三五メートル。ナフサと重油を混合した焼夷剤を、摂氏千度以上の温度で噴射する。歴史上、約一五五輌が改造されたこの兵器が、ここには十二輌集結していた。


部隊を率いるのは、SS上級大佐クラウス・フォン・シュタインベルク。


四十三歳。右目の眼帯は、一九三六年のスペイン内戦で失ったもの。蒼白な肌に、残った左目だけが異様な光を帯びている。ハインリヒ・ヒムラーの個人的な信任を得た人物であり、「アーネンエルベ」──ナチスの古代遺産研究機関──の軍事応用部門の責任者でもあった。科学と神秘主義の境界を踏み越えることに、一切の躊躇がない男。


「グデーリアンもリヒトホーフェンも、所詮は『騎士』気取りだ」


シュタインベルクの声は、錆びたナイフのように冷たかった。


「戦争をスポーツと勘違いしている。鋼鉄には鋼鉄を、砲弾には砲弾を──そんな正攻法で勝てる相手ではない。あの国に巣食うのは人間ではない。獣だ。ならば、獣に通じる方法で攻めるべきだ」


彼は防熱コートの内ポケットから、銀色のシガレットケースを取り出した。中に入っているのは煙草ではなく、ペルビチンの錠剤である。一粒を口に放り込み、噛み砕いた。


「いかに頑強な肉体を持とうとも、二つの弱点がある。一つは、呼吸。もう一つは──精神だ」


「酸素を焼き尽くし、森ごと炭にする。痛みを知らぬ狂人たちを突撃させ、精神を揺さぶる。肉体が壊せないなら、その肉体を動かす仕組みを──呼吸と意志を──破壊する」


タンクローリーからドロリとした黒い液体がフラムパンツァーの燃料タンクに注入されていく。ナフサ七〇パーセント、重油二五パーセント、そしてアーネンエルベが開発した化学添加剤五パーセント──燃焼温度を通常の一・五倍に引き上げ、かつ酸素消費量を増大させる特殊な配合だった。


「さあ、宴の時間だ」


◆


夜の帳が下りたルクセンブルクの森が、灼熱に呑まれた。


十二輌のフラムパンツァーIIが横一列に展開し、一斉に火炎を放射した。ノズルから噴き出す焼夷剤は、暗闇の中で蛇のようにうねり、着弾と同時に摂氏千五百度の地獄を生み出した。木々が瞬時に松明と化し、下草が溶岩のように燃え広がる。空気中の酸素が爆発的に消費され、炎の中心部では真空に近い領域が発生した。


通常の生物であれば、熱で焼かれる前に酸欠で窒息する。肺胞が虚脱し、血中酸素濃度が急降下し、三十秒以内に意識を失う。それが生物学の法則だ。


炎の壁の向こう側──ルクセンブルク第一大隊の陣地は、静まり返っていた。


「……見たか。悲鳴ひとつ上げん。蒸し焼きになったか」


シュタインベルクが勝利を確信した──その瞬間。


炎の壁が、揺らいだ。


内側から巨大な送風機で吹き飛ばされたかのように、炎が左右に裂けたのだ。


「暑いな」


不機嫌そうな声。


炎の中から現れたのは、上半身の軍服を脱ぎ捨て、筋肉を露わにしたジャン・メイヤー大尉と、その部下たちだった。


彼らの体からは凄まじい量の汗が噴き出していた。だがそれは、恐怖や苦痛の汗ではない。彼らの超人的な代謝機能が、体内の水分を急速に気化させ、蒸気の層を皮膚表面に形成していたのだ。ライデンフロスト効果に似た原理で、摂氏千五百度の炎が肌に直接触れることを防いでいる。


さらに、彼らの肺活量は常人の十倍以上。一度の深呼吸で取り込んだ酸素を、筋肉中のミオグロビンに大量に蓄積できる。潜水夫が水中で数分間息を止めるように、彼らは数十分の無酸素環境に耐えることができた。


「サウナにしては温度設定が雑だな。もう少し湿度が欲しいところだ」


ジャンは玉のような汗をぬぐい、テラテラと光る筋肉を見せつけた。熱によって血流が促進され、筋肉の温度が上昇し、柔軟性と収縮速度がむしろ向上している。ドイツ軍の火攻めは、結果として、彼らに最適なウォーミングアップを提供してしまったのだ。


「お返しだ」


ジャンが大きく息を吸い込んだ。周囲の空気が──炎ごと──彼の肺へと吸い寄せられていく。風が渦を巻き、木の葉と火の粉が螺旋を描いて彼の口元に収束する。


そして彼が息を吐き出した瞬間、衝撃波が生まれた。


吐息というレベルではなかった。彼の横隔膜は常人の五倍の厚さと十倍の収縮力を持ち、肋間筋は鋼鉄のケーブルのように胸郭を圧縮した。結果として生じた気流は、秒速六〇メートル──台風の最大瞬間風速に匹敵する暴風だった。


炎が逆流した。


フラムパンツァーIIの薄い装甲(前面三〇ミリ、側面一五ミリ)は、自らが噴射した焼夷剤の直撃に耐えられるようには設計されていない。逆流した炎が燃料タンクに引火し、次々と誘爆が連鎖した。十二輌のフラムパンツァーが、まるでドミノ倒しのように爆発していく。


「構わん! 歩兵隊、突撃せよ!」


シュタインベルクの絶叫。炎の壁を突き破り、ペルビチン中毒のSS突撃隊が雪崩れ込んできた。


彼らは異様だった。自身の体が燃えていても止まらない。銃で撃たれても止まらない。骨が折れても、痛覚が麻痺しているために倒れない。ナイフを持ち、歯をむき出しにして、獣のような唸り声を上げながらルクセンブルク兵に襲いかかる。


一人のSS兵がガストン軍曹に飛びかかった。ガストンは無造作に裏拳を放つ。頭蓋骨が砕ける鈍い音がしたが、SS兵は倒れない。首が不自然な角度に折れたまま、ニヤニヤと笑いながら噛み付こうとしてくる。


「……なんだ、こいつらは」


ガストンが眉をひそめた。力が強いわけではない。技があるわけでもない。ただ、壊れても止まらない。それは生物として不気味であり──そして何よりも、哀れな姿だった。彼らは戦士ではない。薬物で理性を剥奪された、犠牲者だ。


ジャン大尉が、一人のSS兵の首を掴み、持ち上げた。兵士は虚ろな目で笑い、手足をばたつかせている。ジャンはその瞳の奥にある空虚と、薬品特有の甘ったるい体臭を嗅ぎ取った。そして瞳孔の奥の奥に、かすかに残る、人間としての恐怖の残滓を。


「薬か」


ジャンは静かに言った。その声には、深い怒りが滲んでいた。


肉体を鍛え抜くことを神聖な行為とするルクセンブルク人にとって、薬物で安易に限界を超えようとする行為は、最大の冒涜であった。それは、鍛冶師が鋼を鍛えずに接着剤で貼り合わせるようなものだ。見かけは同じでも、本質が根本的に異なる。


「己の弱さと向き合わず、薬で誤魔化した力など、力ではない。ただの暴走だ」


ジャンはSS兵を地面に叩きつけるのではなく──強く抱きしめた。


ミシミシ……。


背骨が軋む。だがそれは破壊するためではなかった。強烈な圧迫により胸部の血流を一時的に遮断し、脳への酸素供給を断って強制的に失神させる──柔術の「裸絞め」の応用だ。通常の人間なら十秒で意識を失うが、ペルビチンで神経が焼かれた彼らには、三十秒以上の圧迫が必要だった。


「眠れ。悪い夢を見ているだけだ」


SS兵の体がびくりと震え、脱力した。顔から狂気が消え、寝顔になった。それは──人間の顔だった。二十歳にもなっていないだろう。まだ少年と言ってもいい年齢の。


周囲のルクセンブルク兵たちも、ジャンの意図を悟った。殴れば壊れる。投げれば死ぬ。ならば──制圧する。生かして止める。


ルクセンブルク兵たちは、襲い来る狂戦士たちを、一人、また一人と、眠りの中へ送り返し始めた。スリーパーホールド。フルネルソン。ベアハッグ。彼らの超人的な膂力は、人を殺すためではなく、人を傷つけずに止めるために行使された。


「離せ! 殺せ! 俺は不死身だ!」


「はいはい、わかったから寝ろ。朝になれば楽になる」


数分後。戦場には、いびきをかいて眠るSS兵が折り重なっていた。優しく、しかし確実に意識を刈り取られた彼らの寝顔は、戦場のものとは思えないほど穏やかだった。


◆


残されたシュタインベルクは、ジャンに首根っこを掴まれた。


「貴様の罪は二つある。一つは、神聖な森を焼いたこと。もう一つは、兵士の誇りを薬で汚したことだ」


「ひ、ひぃ……」


「貴様には、我々の流儀で『教育』が必要だ。岩を運べ。土を耕せ。汗を流せ。──薬など無くとも、飯が美味くなるまでな」


シュタインベルクは小脇に抱えられ、闇の中へと連れ去られた。彼の絶叫が、夜の森に虚しく響き渡った。


翌朝。焼け跡には、戦車残骸のバリケードが築かれ、その頂上に看板が立てられていた。


『火気厳禁。および薬物乱用防止キャンペーン実施中』

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