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第一話 ルクセンブルクは道路ではない、国だ


一九四〇年五月十日、午前四時三十五分。


アルデンヌの森は、夜明け前の冷たい霧に沈んでいた。五月とはいえ、深い森の底を這う空気にはまだ冬の名残が滲み、ブナやオークの巨木の枝先に白い結露が珠を結んでいる。鳥たちは声を潜め、獣たちは穴に身を寄せ、森全体がひとつの巨大な耳と化して、東の闇から忍び寄る地鳴りを聴いていた。


最初に聞こえたのは、大地の鼓動のような低い振動だった。やがてそれは、履帯が岩と土を噛み砕く重低音へと変わり、ディーゼルエンジンの咆哮と、数百台のトラックが隊列を組んで走る轟音が合流した。そしてそれらを統べるように、数千の軍靴が刻む行進のリズムが、規則正しく大地を叩いていた。


「黄色作戦」──ドイツ語で「フォール・ゲルプ」と呼ばれるその計画は、エーリヒ・フォン・マンシュタインの天才的な頭脳から生まれた。連合軍が予想するベルギー北部への正面攻撃を囮とし、本命はアルデンヌの森を突破してスダンに至る装甲部隊による「鎌の一撃」──セダンでミューズ川を渡河し、英仏連合軍の背後を断ち切るという大胆な機動作戦である。


その「鎌の刃」の最先端を担うのが、ハインツ・グデーリアン上級大将率いる第十九装甲軍団であった。彼の麾下には第一、第二、第十の三個装甲師団が配され、この日の早朝、それぞれがヴァレンドルフ=ポント、ヴィアンデン、エヒテルナハの三つの渡河点からルクセンブルク国境を踏み越えようとしていた。



第一装甲師団の先鋒を務めるのは、第一戦車連隊第二大隊。その大隊長を任されているのが、ヴェルナー・フォン・クライスト大尉であった。


三十二歳。プロイセン軍人の家系に生まれ、幼年学校を経て陸軍士官学校を首席で卒業。ポーランド戦役では中隊長として参加し、ブズラ川の渡河戦で鉄十字章一級を受勲した歴戦の戦車指揮官である。しかし、彼の真の才能は戦闘そのものよりも、戦場を「読む」力にあった。地形、風向き、敵の配置、味方の士気──あらゆる情報を統合し、最適な判断を瞬時に下す。その冷徹な分析力から、部下たちは畏敬を込めて「灰色の瞳」と呼んでいた。


そのヴェルナーが、III号戦車E型のキューポラから身を乗り出し、ツァイス製の双眼鏡越しに西の国境を見つめていた。III号戦車E型──マイバッハHL120TR型エンジンを搭載し、主砲は三・七センチKwK36対戦車砲、装甲厚は前面・側面共に三〇ミリ。ポーランド戦の戦訓を受けて装甲が強化された最新型であり、フランス戦の主力となるべき中戦車である。


視界の先にあるのは、ザウアー川を隔てたルクセンブルク大公国。


ドイツ第三帝国にとって、この国は国家として認識されてすらいなかった。一八六七年のロンドン条約以来、永世中立を宣言しているこの小国は、面積二千五百八十六平方キロメートル──ドイツのザールラント州よりも小さい。人口は三十万に満たず、常備軍は存在しない。あるのは、アロイゼ・ヤコビー大尉が率いる義勇軍四百二十五名と、モーリス・シュタイン大尉が率いる憲兵隊二百五十五名。合計しても七百名に届かない武装勢力が、この国の「軍」のすべてだった。


総統大本営における公式評価は明快である──「ルクセンブルクは通過地点である。抵抗は予想されない」。


ヴェルナー自身も、その認識に疑問を抱いたことは一度もない。


「大尉、シュスター線が視認できます」


ヘッドセットから操縦手の報告が入る。シュスター線。その建設者の名を冠したルクセンブルクの国境防衛線。今年の春から急ごしらえで構築されたもので、主要道路にコンクリートブロックと鋼鉄の扉を設け、いくつかの橋梁に爆破装置を仕掛けた程度のものだ。三時十五分に扉は閉鎖されたと偵察が報告している。


ヴェルナーは鼻を鳴らした。ドイツ工兵隊は木製の傾斜路を用意している。対戦車障害物を乗り越えるための、単純だが効果的な装備だ。


「抵抗はあるか?」


「歩哨の姿すら見えません。おそらく、進軍音を聞いて撤退したのでしょう」


「賢明な判断だ」


ヴェルナーは冷笑した。実際、史実においても──もちろん、これは我々の知る歴史とは異なる世界線の話だが──ルクセンブルクの義勇軍の大半は兵舎に留まり、組織的な抵抗は行われなかった。象と蟻の比喩ですら、この戦力差を表現するには不十分だろう。


「全車、前進速度を維持。予定通り、〇六〇〇までに主要道路を確保、正午までにベルギー国境を抜けるぞ」


III号戦車の列が、低い唸り声を上げながら前進を開始した。後方にはII号戦車の軽戦車中隊、その後ろには歩兵を満載したオペル・ブリッツ三トントラックの長い列が続く。さらにその後方には、ハーフトラック、補給車両、工兵車両が隊列を組み、一本の鉄の蛇のように森の中を蠢いていた。


それは戦争ですらなかった。ただの行軍。ただの通過。作戦図の上に引かれた一本の矢印を、現実の大地になぞるだけの事務作業。


だが、ヴェルナーは知らなかった。


彼らが道路だと信じて疑わなかったその場所が、欧州最強の「軍隊」が牙を研いで待ち構える処刑場であることを。



モーゼル川の支流、ザウアー川にかかるエヒテルナハの石橋。


ルクセンブルク側の国境検問所は、不気味なほどに静まり返っていた。霧が晴れ始め、朝日がザウアー川の川面に金色の帯を引いた。先頭を行くSd.Kfz.222四輪装甲偵察車が、バリケードの前で停止する。車長が信号弾を上げ、工兵班を呼んだ。黒い作業服の工兵たちが装甲車から飛び降り、閉ざされた鋼鉄の扉に爆薬を仕掛けようとする。


その時だった。


『止まれ』


拡声器を通した声ではなかった。だが、その声はIII号戦車のマイバッハエンジンが刻むアイドリング音をかき消し、大気そのものを震わせた。周波数が低すぎて、声というよりも地震に似ていた。工兵たちの横隔膜が痙攣し、装甲車の車体がビリビリと振動する。


工兵たちが凍りつく。


鋼鉄の扉の向こう。霧の奥から、一人の男が歩み出てきた。


ルクセンブルク軍のフィールドグレイの制服。だが、その体躯は制服という概念を破綻させていた。肩幅は常人の倍近く、軍服の縫い目はあらゆる箇所で悲鳴を上げ、袖口は前腕の筋肉に押し広げられて裂けかけている。大腿部に至っては、ズボンの生地が弾け飛ぶのを防ぐために、明らかに特注のガセット(補強布)が縫い付けられていた。身長は優に二メートルを超え、その影は朝日を背に受けて、ドイツ兵たちの足元まで長く伸びていた。


男はヘルメットを目深に被り、右手には何かを引きずっていた。


丸太のような太さの銃身。機関部だけで人間の胴体ほどもある巨大な鉄塊──二センチFlaK30対空機関砲である。本来は三脚架に据え付け、二名以上の射手で運用する車載兵器だ。重量は六十四キログラム。銃架を含めれば優に一トンを超える。


それを、男はまるで散歩のステッキのように、片手で地面に引きずっていた。アスファルトに溝が刻まれ、火花が散っている。


「なんだ、あれは……?」


ヴェルナーは双眼鏡のピントを合わせた。男の階級章は大尉。胸には「Garde de la Grande-Duchesse──大公国警備隊」の記章が輝いている。


たった一人。


たった一人で、ドイツ第一装甲師団の前に立ちはだかっている。


「警告する」


男の声が再び響いた。腹の底を揺さぶる重低音。ヴェルナーの戦車の中にいる乗員たちですら、車内の空気が共振するのを感じた。


「ここはルクセンブルク大公国である。貴官らの武装通行は許可されていない。直ちに回れ右をし、貴国へ帰還せよ。これは、命令ではない。──慈悲だ」


正気か?


ヴェルナーは呆れを通り越して、一種の感嘆を覚えた。数千の鉄の軍団を前にして、「帰れ」と言ったのか。しかも、それを「慈悲」だと?


通信手のフランツが、ヘッドセット越しに困惑した声を出した。


「大尉、いかがしますか。あの男、正気とは思えませんが……」


「排除しろ」


ヴェルナーは短く命じた。戦場における唯一の正解は、常に迅速であることだ。


先頭のSd.Kfz.222装甲偵察車に据え付けられた二センチKwK30機関砲──奇しくも、男が引きずっているものと同型の兵器──が、砲塔を旋回させて照準を合わせた。同時に、車体前面のMG34七・九二ミリ機関銃も火を噴く。


乾いた連射音。曳光弾の赤い軌跡が、朝霧を引き裂いてその巨漢へと吸い込まれた。


距離は五十メートルもない。MG34の有効射程はその十倍以上。二センチ機関砲に至っては、この距離ならII号戦車の装甲すら貫通する。確実に命中している。肉片が飛び散り、男は蜂の巣になって崩れ落ちる──はずだった。


キン、キン、カン、キィン。


甲高い金属音が、朝の静寂を打ち破って連続した。火花が散る。夥しい火花が。まるで溶接作業のように。


ヴェルナーは双眼鏡を握る手が震えるのを感じた。


弾丸は──七・九二ミリのフルメタルジャケット弾も、二〇ミリの徹甲弾も──男の制服を引き裂き、肌に到達した瞬間に跳弾していた。戦車の装甲板に拳銃弾を撃ち込んだように。鉛とタングステンの弾芯がひしゃげ、キノコのように変形して地面に転がっている。


男は一歩も退かない。出血もない。破れた制服の隙間から覗くのは、表面に微細な金属光沢を帯びた、傷ひとつない褐色の肌だった。まるで上質の鍛鉄を磨き上げたような、異常な質感。


「……は?」


通信手フランツの間の抜けた声が、車内に反響した。


男──ルクセンブルク陸軍義勇軍団第一大隊所属、ジャン=バティスト・メイヤー大尉は、鬱陶しそうに首筋に付着した弾芯の破片を払い落とすと、ゆっくりと右腕を持ち上げた。


全長二メートル近い二センチFlaK30対空機関砲が、三脚もなしに、ただの猟銃のように肩に担がれる。左手が弾倉を叩いて装填を確認する。


「交渉決裂と見なす」


ジャンの指が引き金を絞った。


それは銃声ではなかった。爆音だった。


二〇ミリの徹甲焼夷弾が、秒速八〇〇メートルの初速で射出される。車載時の連射速度は毎分百二十発だが、ジャンの握力と反動制御は、そのリミッターを遥かに超えた速度で弾丸を送り出していた。


先頭のSd.Kfz.222装甲偵察車が、紙細工のように弾け飛んだ。一四・五ミリの装甲板が飴細工のように引き裂かれ、内部の弾薬に引火し、瞬時に火球へと変わる。乗員四名は脱出する暇もなかった。


「な……ッ!?」


「次」


ジャンは無造作に銃口を滑らせた。後続のオペル・ブリッツトラック。荷台に座る工兵たちの恐怖に歪んだ顔。二〇ミリ弾が人体に着弾すれば、穴が開くのではない──着弾点を中心に、上半身が消滅するのだ。トラックのエンジンブロックは粉砕され、六気筒のマイバッハエンジンが砕け散り、車軸ごと裏返しになる。


「敵襲! 敵襲! 歩兵ではない、対戦車砲だ! いや、いったいなんだあれは!?」


無線がパニックに陥る。ヴェルナーは衝撃を振り払い、叫んだ。


「狼狽えるな! たかが一人だ! 第一小隊、戦車前進! III号のKwKであの化け物を吹き飛ばせ!」


III号戦車E型が二輌、燃え盛る装甲車の残骸を押しのけて前進する。三・七センチKwK36対戦車砲の砲身が、ジャンの巨体を捉えた。この砲は、ポーランド戦で敵の7TP軽戦車を易々と撃破した実績がある。有効射程五〇〇メートル、貫通力は距離一〇〇メートルで三四ミリ。人間の肉体がどれほど頑丈であろうと、対戦車砲弾の直撃には耐えられない。それが物理法則だ。そうでなくてはならない。


「撃てッ!」


三・七センチ砲弾が発射された。砲口初速は七四五メートル毎秒。至近距離からの直射。


轟音と共に、ジャンの立つ地点が爆煙に呑まれた。コンクリートの破片と土砂が吹き飛び、地面が大きく抉れる。直撃。人間の肉体など、霧散して原型を留めるまい。


ヴェルナーが安堵の息を吐こうとした──その刹那。


爆煙が風に流された。


影があった。


煤にまみれ、制服はぼろぼろになっていた。だが、男は立っていた。両腕を交差させ、顔面を庇う姿勢のまま。腕の筋肉が赤熱するように充血し、陽炎のごとき湯気を立てている。皮膚の表面に、砲弾の衝撃で生じた同心円状の衝撃痕が浮かんでいたが──傷は、ない。


榴弾の直撃。爆圧と破片の嵐。それを、その身ひとつで受け止めていた。


「馬鹿な……」


ヴェルナーの背筋を、液体窒素が流し込まれたような悪寒が駆け上がった。あれは人間ではない。人の形をした要塞だ。


ジャンは腕を下ろし、首をこきりと鳴らした。そして、制服の残骸を脱ぎ捨てた。露わになった上半身は、人間の筋肉標本を何倍にも拡大し、その上から青銅を流し込んだような──異形の彫刻であった。


「我々の皮膚は、貴様らの戦車よりも硬い」


ジャンが地面を蹴った。


その瞬間、アスファルトが蜘蛛の巣状に陥没し、衝撃波で周囲の小石が弾丸のように四散した。巨体が砲弾のような速度で突進する。


速い。あまりにも速い。二十トンのIII号戦車の最高時速が四〇キロメートルであるのに対し、この男の脚力はそれを遥かに凌駕している。五十メートルの距離を、二秒と掛からず詰めた。


「撃て! 近づけるな!」


MG34が唸る。七・九二ミリ弾が秒速七五五メートルで吐き出されるが、すべてが跳弾する。ジャンは瞬く間にII号戦車に肉薄した。背中の機関砲を投げ捨て、素手で戦車の前面装甲──三〇ミリの均質圧延鋼板──を掴んだ。


指が。人間の指が。鋼鉄の装甲板にめり込んだ。十本の指が、まるでバターにナイフを立てるように、焼入れ処理された鋼板に食い込む。


裂帛の気合と共に、ジャンが腕を振り抜いた。


金属の悲鳴──溶接された鋼鉄板が、濡れた段ボールのように引き剥がされた。リベットが銃弾のように飛び散り、装甲の内部が露わになる。操縦手席にいたドイツ兵の、恐怖に凍りついた顔が見えた。


「邪魔だ」


ジャンはその開いた穴に拳を突き入れ──戦車ごと殴り飛ばした。九・五トンのII号戦車が、横殴りにされた空き缶のように宙を舞い、二回転して着地し、キャタピラを空転させた。


戦場が、静まり返った。


ドイツ兵たちは、ひとりとして言葉を発せなかった。彼らの理解の範疇を、現実が完全に踏み越えていた。


戦車が──人間に殴られて──ひっくり返ったのだ。



「総員、構え」


ジャンの背後、霧の奥から、地響きのような足音が近づいてきた。一人の足音ではない。数十、数百の巨大な足が、一斉に大地を踏みしめる振動。


現れたのは、ジャンと同等──いや、中にはジャンをすら上回る巨躯の持ち主もいた──の兵士たち。その数、およそ四百名。ルクセンブルク陸軍義勇軍団の全戦力である。


だが、この世界線における「義勇軍団」の意味は、我々の知る歴史とは根本的に異なっていた。


彼ら全員が、ジャンと同じ超人的な肉体を有している。全員が、二〇ミリ砲弾を皮膚で弾き返す防御力と、戦車を素手で解体する膂力と、砲弾に匹敵する突進速度を備えていた。全員が、車載兵器をハンドガンのように扱い、戦車の砲塔を投石のように投擲できる腕力を持っている。


ある者はもぎ取った戦車砲を肩に担ぎ、ある者は身の丈ほどの戦斧──鉄道のレールを鍛造して作ったとしか思えない代物──を握り、またある者は素手のまま拳を鳴らしている。


ルクセンブルク陸軍、第一大隊。総員四百余名。


彼ら一人ひとりが、歩く重戦車なのだ。


先頭に立つジャンが、口の端を吊り上げた。それは、獲物を前にした獅子の笑みだった。


「ルクセンブルクへようこそ、ナチスの諸君」


ジャンは、引き裂いた装甲板の破片を掌の中で握り潰し、粉のようにサラサラと地面に落とした。


「ここが貴様らの終着点だ。──通行料は、その命で支払ってもらおう」



それから三時間の出来事を、生存者たちは後に「悪夢」「地獄」「理解の外」といった言葉でしか表現できなかった。


「後退! 全車後退せよ!!」


ヴェルナーは無線機に向かって絶叫した。プライドも軍規も捨てた。これは戦闘ではない。一方的な虐殺だ。だが、後退しようにも、一本道の後方は後続部隊で完全に渋滞している。逃げ場がない。


ルクセンブルク兵たちが、その巨体から想像もつかない俊敏さで森へと展開した。そこから先は、惨劇と呼ぶほかなかった。


茂みの奥から伸びた腕が、装甲車のハッチを素手でもぎ取る。木々の間を縫って飛来する二〇ミリ弾が、隠れた兵士を樹木ごと薙ぎ倒す。III号戦車が必死に砲塔を旋回させるが、彼らは木々を足場にして三次元的に機動し、常に死角から回り込んでくる。


ヴェルナーの戦車もまた、包囲されつつあった。ハッチが力任せにねじ曲げられ、ヒンジが弾け飛ぶ。開かれた視界の先に、ジャン大尉の顔があった。


「ドイツまで飛ばしてやろうか?」


ヴェルナーは襟首を掴まれ、キューポラから引きずり出され、地面に叩きつけられた。霞む意識の中で、周囲の光景を見た。燃え上がるドイツ戦車の残骸。ひしゃげた装甲車。そして、その炎の中を悠然と歩くルクセンブルクの兵士たち。


「捕虜第一号だ。丁寧に縛り上げておけ」


ルクセンブルクは「道路」などではなかった。


そこは小国の皮を被った魔境。欧州の地図に穿たれた、底知れぬ深淵であった。



ルクセンブルク市、大公宮殿地下、作戦司令室。


──この世界線において、シャルロット大公は国を離れなかった。離れる必要がなかったのだ。


豪奢なシャンデリアの下、巨大な作戦卓を囲む将校たちは、前線の兵士と同等かそれ以上の威圧感を放つ巨躯の持ち主たちである。だが、その中央に座る人物だけは異質だった。


シャルロット大公。


優雅なドレスに身を包んだ彼女は、華奢で可憐な女性だった。陶磁器を思わせる白い肌と、深い知性と慈愛を湛えた青い瞳。鋼鉄の巨人たちに囲まれた彼女は、猛獣使いというよりも、猛獣たちに愛される森の精霊のようだった。


「国境警備隊、ジャン大尉より入電」


通信士──彼もまた受話器を握り潰さないよう慎重に指を添えている──が報告する。


「ドイツ軍先遣部隊、壊滅。残存兵力を掃討中。ザウアー川ラインにて完全封鎖が可能、とのこと」


シャルロットは静かに紅茶のカップを置いた。マイセンの白磁がカチャリと鳴る。


「ご苦労様。ジャンには、あまり楽しみすぎないようにと伝えて」


彼女は微笑んだ。


「私の可愛い子供たちは、まだ遊び足りないでしょうけれど……久しぶりの運動会ですもの。存分に暴れさせてあげなさい」


司令室に、地響きのような笑い声が満ちた。それは猛獣たちの唸り声だった。


ドイツ軍の侵攻計画「黄色作戦」は、開始からわずか数時間で、最大にして最悪の誤算に直面していた。彼らが踏み込んだのは、アウトバーンではなく、眠れるドラゴンの巣穴だったのである。



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