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第47話 気体定数

 大正池への道はすれ違う人が多かった。観光客の多くはバスを大正池で降り、上高地のバスターミナルまで歩く。私と修二くんは以前の二回目の上高地行きでは大正池では降りなかった。今回同様、荷物があったからである。というのも以前の二回は「実験物理若手の学校」というセミナーの下見とセミナーそのものだった。だから教科書とかいろいろと持ち込んで荷物が重かった。完全に遊びで来るのは初めてである。それでもバンガロー泊の私達はほぼ自炊なので、食料が荷物のかなりの部分を占めている。

「こんにちは!」

 先頭に立つルドルフは元気に挨拶し、すれ違う人も笑顔を返してくれる。そのルドルフが持ち込んだ食料の半分は食べてしまうだろう。私はまわりに人がいなくなったとき、忘れないうちにとルドルフに注意しておいた。

「ルドルフ、上高地の生き物、食べちゃだめだからね」

「わかってるよママ、国立公園だからでしょ」

「うん、そういうこと」


 遊歩道にはところどころ小さな鐘が備え付けられている。説明書きによればクマよけのためだそうだ。試しに鳴らしてみると、カーンといい音がする。

「ママは鳴らさなくて大丈夫だよ。ぼくの気配でクマのほうで逃げるから」

「そうなの?」

「そうだよ」

「あのさルドルフ、前にクマとか食べてたって言ってたじゃん」

「うん」

「ルドルフの気配でクマが逃げちゃうんなら、どうやって捕まえてたの?」

「うん、意識して気配を消して待ち伏せするんだよ。ま、僕が本気で追いかけたら逃げられないけどね」

 ということはルドルフは近くのクマを探知できるということにならないか?

 修二くんも同じ疑問を持ったようで、

「ところでルドルフ、今近くにクマいるの?」

「うん、左の方、300メートルくらいのところにいるよ。意外と車道の近くだね」

「そう、それ、隠れてるの?」

「うん、僕との接触を避けて、ついでに休息もとってるんだね」

「じゃ、そっとしておこうか」

「うん!」


 林の中を進んでいるうちは少し寒いくらいだったが日向に出ると暑い。というより陽射しが痛いくらいだ。

「杏、日焼け大丈夫?」

「うん、ちゃんと日焼け止め塗った」

「そっか」


 湿原にでた。

「ここが田代湿原?」

「そうだよ、ルドルフ。ちょっと休憩しよう」

 そう言う修二くんは写真を撮りたいのだろう。

「荷物見てるよ、修二くん」

「ああ、ありがと」

 私とルドルフはちょうど空いたベンチに座らせてもらい、リュックからお菓子と水筒を出した。


 田代湿原の休憩場所は、湿原もよく見えるがその向こうに穂高がよく見える。修二くんの他にもカメラを構えて写真を撮る人が何人もいる。私は写真を撮る修二くんの背中をスマホのカメラで撮った。それをルドルフに見せると、

「スマホちょっと貸して」

とルドルフは言ってスマホを操作し始めた。

「何するの?」

「うん、親衛隊に報告」

 SNSに載せる気らしい。


 湿原から木道が東の方に続いている。そこを行ってみると田代池だ。カモ類が泳いでいる。オシドリとかマガモとかだ。平和な光景である。


 この手の鳥を見ると私はいつも思っていた。番が一緒に泳いでいるのをよく見るが、私も修二くんとそのように物理の世界を泳いでいきたい。でも今はルドルフがいる。修二くんと二人ではなく、ルドルフを含め3人で生きていく。そのうち我が家の経済状況が許せば子供も欲しい。ルドルフはいいお兄ちゃんにきっとなってくれる。

「修二くん」

「何?」

「前はね、カモって番でよく泳いでいるでしょ。それが羨ましかったのよ」

「うん」

「でもね、今はね、人間で良かったと思う」

「うん」

「子供といっしょにいれるからね」

「それは僕も同じだね」


 人も多いのでちょっとだけの休息の後、再び歩き始める。林の中を抜け、川からの土砂が堆積したような開けた場所を超えると木道に出た。左側は小さな崖でその下を水が流れている。水を覗き込むとイワナが見える。つい立ち止まって見続けてしまう。するとルドルフや修二くんが一緒になってイワナを見つめる。私はこの時間を体験を家族と共有できて幸せだ。イワナが泳いでいってしまい私達も歩き出す。右側は林になっているが大正池と標高があまりかわらないためか湿地になっているところが多い。


 大正池に出た。河原状になっている湖畔には人が多い。写真を取る人、ひたすらに風景に見入る人、せっかくきれいな風景を前にしているのによもやま話に花を咲かせる人、いろいろである。


「ママ、こっちきて座ろうよ。パン食べたい」

 ルドルフが言うパンとは、朝食用に持ってきたがおやきを食べてしまったので余ったものである。ルドルフは座りやすそうな平たい石を選んでくれた。


 その石に座ってリュックからパンを出してルドルフと修二くんに渡す。水筒はルドルフの前に置いておく。


 パンが甘い。穂高の上に白い雲がかかり始めた。

「ママ、あの雲、なんであんなふうに波打っているの?」

「あれは山の影響ね。強い風が山を越えて、渦をつくっているのかな?」

「杏、僕はなんかで読んだことがあるんだけど、山を越えた空気が冷やされて下に沈み、今度は温められてまた上に行ってと繰り返すらしいよ」

「それって修二くん、空気の熱伝導から考えると難しくない?」

「いや、気圧の違いによる断熱膨張や断熱圧縮じゃないかな」

「う~ん、そっか、でもそんなにうまく説明できるかな?」

「計算してみるしか無いね」

「したいけど、いろんな定数がわからないと計算できないね」

「状態方程式と気体定数Rで充分じゃない?」

「それなら覚えているけれど。8.31くらい?」

「概算なら8で充分だろう」

「そっか、あとでやってみる」


 私達の会話を、ルドルフが呆れたような笑顔で聞いていた。

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