第3話 星空の約束
星霊暦五〇四年一月八日、火曜日。夜。
「やっぱり、ハムサ隊長の料理は最高ですね! モグモグ……これから先、隊長の料理が食べられなくなるかもしれないと考えると恐ろしいです……」
「お前は、もう少し黙って食べられないのか、メル……」
「でも、私としては、意外と旅先でも美味しいものを食べられそうな気がしますわ!」
「そういうことなら、あっしにお任せくだせぇ。世界を東に横切るんで、『食通道中膝栗毛』と行きやしょうぜ」
「膝栗毛? なんですか、それ?」
「……言われてみれば、何でしょうかねぇ?」
宴が終わった後。家に戻ったエセルとイマ、ハムサ、そして八兵衛の四人は、ガラーシャ村での最後の食事を囲んでいた。
メルは宴の広場に向かったものの、すでに宴の締めは終わり、ハムサの料理は子どもたちに食べ尽くされた後だった。しかし幸いにも、ガラーシャ村のサラが作った『猪の生姜焼き』が残っていたため、メルからの恨みを買うこともなく、こうして和やかに夕食を楽しめていた。
だが、その輪の中でエセルだけは、ソワソワと暗くなった窓を何度もチラチラと見て、落ち着かない様子だった。
エセルは、先日の日曜日、トーダー教の礼拝の後に、エフェスと「宴の夜にエロスの湖へヤマトボタルと月光花を見に行こう」と約束を交わしていたのだ。
エフェスは、自分に一番近しい幼馴染であり、いつも外の世界へ遊びに連れ出してくれる気の置けない男の子だ。そしてエセルにとって彼は、密かに恋心を抱いている大切な存在でもあった。
だからこそ、そんな彼に『ある大切なもの』を渡して、この村を去りたいと思っていた。
エセルの胸元の懐には、石のついたネックレスが忍ばせてある。その石は、カナン王国に伝わる竜民族特有の儀式で、自らの角の先を切り取って加工したものだ。
竜民族の角は自身の生命力がこもった魔法石であり、自分自身の分身に等しいものとして虹龍石と呼ばれ、愛する人や子孫へと受け継がれる家宝でもあった。
エセルは、自分の二つの角のうちの一つの虹龍石をエフェスに託すことで、初めてガラーシャ村との決別を受け入れられると思っていた。
そんな娘の心境を、母であるイマはとうに気づいていた。母として、頃合いを見て優しく背中を押す。
「エセル。今日は星も綺麗でしょうし、ヤマトボタルも光っていますから……最後に、夜の散歩をしてきたら? どうせ、宴の余韻でまだ眠れないでしょうし」
「えっ? 明日の朝も早いですし、よろしいのですか?」
図星を突かれたエセルはドキリとして答えたが、母の提案があまりにも自分の望んでいたことだったため、逆に遠慮して聞き返してしまった。
「別に、そこまで夜遅くはありません。そこはメルの判断に任せて、時間を見て戻ってきてもらえればいいわ」
「ありがとうございます! メル、行こう!」
「エセル様……! ちょっと待って下さい、モグモグ……! さぁ、行きましょう!」
メルは残っていたパイを一口で放り込み、紅茶で無理やり流し込むと、念のための警護として腰に剣を帯びた。
エセルは胸元の袂にあるネックレスの感触を確かめ、夜の森へと駆け出していった。
◇
昼間の祝宴の喧騒が嘘のように静まり返った広場へと向かう。
目が暗闇に慣れるまでもなく、空には三日月と、こぼれ落ちそうなほどの満天の星が広がっていた。ハールコテルゲドラー山脈の険しい稜線が星々の輝きを一層際立たせ、まるで星空全体が巨大な満月であるかのように、大地を青白く、淡く照らし出している。
宴の後片付けをしていた大人たちとすれ違い、「今日もいい夜ですね」と挨拶を交わす。間違いなく良い夜だ。誰もがそう思っているに違いない。
そんな中、広場の燃え尽きた焚き火の残滓を眺めているエフェスの姿を見つけた。
エフェスは、エセルの後ろにメルがいると思わなかったのか、少し慌てたように挨拶をしてきた。
「エセル、メル姉ちゃん、こんばんは。珍しかね、こげな夜中に」
「あら、エフェス! こんばんは! 今夜の星はとても綺麗だから、散歩したくて来てしまったの」
エセル自身もどこか慌ててしまい、不自然に明るく返してしまった。しかし、生真面目なメルは二人の拙い動揺には気づいていないようだった。
「メル姉ちゃんも帰ってきとったとね。昼間は見かけんやったけど、どこに行っとったと?」
「南の関所まで、な。……それよりもエフェス。子供が一人で夜道を歩くとは感心せんな」
(メルは、ほとんど家にいたはずだけど……)
さすがに「宴の料理を食べ損ねて落ち込んでいた」とは言えず、メルは自然に嘘をついて威厳を保っていた。
「じいちゃんが、よかって言うたけん大丈夫たい」
「ヤコブ殿が……? うぬぬ、いや、しかしマイムハレムとはいえ、夜は何が出るか分からんぞ」
その口調は、家での快活なメルとは違い、まるで壮年の堅物な指導教官のようだ。このままでは、いつまで経ってもメルが傍を離れてくれない。そう判断したエセルは、意を決して口を開いた。
「メル、ごめんなさい。少しの間だけ、エフェスと二人で話がしたいから……どうか、少し離れた場所から見守っていていただけませんか?」
「なっ……! 何を仰いますか、エセル様! 獣は夜行性です! どこから現れるか分からないのですよ!」
「村の中なら大丈夫だって、メル姉ちゃん」
「うるさい! 貴様は黙っていろ!」
突然のエセルの言葉に動揺したメルは、エフェスに鋭い声を浴びせた。その剣幕に、エフェスは思わず口をつぐむ。
「ねえ、メル。お願い。本当に、大事な話があるの」
エセルが真剣な瞳で重ねて頼むと、メルは「んーーー~~~ッ!」と天を仰いで低く唸った。融通を利かせるのが苦手な彼女は、護衛としての任務と主君の願いとの間で激しく葛藤しているようだった。
やがて、大きなため息をついたメルは、エフェスには聞こえないよう、エセルの耳元に顔を寄せて囁いた。
「……エセル様。男も夜行性です。エフェスとて少年ですが、いつ内なる獣が目覚め、エセル様に襲い掛かってくるやもしれません。その時は……私が奴を斬ります!」
「メ、メル! 何を考えているのですか!」
エセルはメルの思わぬ言葉に顔を真っ赤にして反論した。
「エフェスは、あなたにとっても友人でしょう!?」
「友人であることと、護衛の任務は別です。その覚悟で、私はお側に仕えております。いざという時は、エフェスを……斬ってでもお守りしますから!」
「メルッ!」
エフェスにはメルの不穏な囁きが聞こえていなかったので、呑気にポカンとしている。エセルはその勢いのまま怒ったふりをして、なんとかメルを突き放すことに成功した。
◇
二人きりになったエフェスとエセルは、村の北にある『エロスの湖』へとゆっくり歩き始めた。
道中、マシューやモー、マキリたちと川へ魚を捕まえに行った思い出話など、他愛のない話をして笑い合ったが、エセルの胸はずっと(いつネックレスを渡そうか)と高く鳴り続けていた。
湖畔に着くと、息を呑むような光景が広がっていた。
湖の周りでは、無数のヤマトボタルが月光花と競うように、淡く、そして力強い光の軌跡を描いて舞っている。静まり返った湖面は、まるで磨き上げられた黒曜石の鏡のようだ。満天の星々が、寸分の狂いもなくその水面に映り込んでいる。
天と地、二つの星空に挟まれたその場所は、とても現実とは思えないほど美しかった。
「うわー……本当に綺麗か……。星も、絶対いつもより明るかよ」
「ええ、本当に……!」
幻想的な光に照らされた光景を見つめていると、段々と寂しさが込み上げてきた。「本当にこれで終わりなんだ」という実感が、静かに胸を満たしていく。
「ねえ、エフェス」
「にゃっ……なんだよ?」
思いを伝えるために、エセルは決心し、声が震えぬよう凛と呼びかけた。
「私、このガラーシャ村に住めて、本当に良かったと感謝しているの。ここで皆さんと一緒に暮らして、毎日が本当に幸せで……マリア様、ヤコブ様、ゲデオンさん、サラさん。皆、本当に優しい方ばかりで、大好き」
「何ば今更。エセルも、この村の家族やん。みんなもエセルのことが大好きやし、当たり前やろが……?」
エフェスの言葉があまりにも素直で、あまりにも真っ直ぐで。
エセルが必死に我慢していた感情が一気に溢れ出した。嬉しさと悲しさが入り交じり、瞳から大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちる。
「ど、どうしたエセル! おい、何か変なこと言うたか!?」
「ごめんなさい……大丈夫。何でもないの。ただ、嬉しくて……」
エセルは涙をそっと拭い、再び遠い星を見つめて、ちゃんと伝えねばと話し始めた。
「私、成人式を終えてから、色々考えてみたの。『もし私が、本当の、戻るべき国に戻れたら何をしたいか』って」
「……何ば、すっと?」
「私が戻るべき国は、カナン王国というの。でも、私はその国のことを何も知らない。だから、まず自分の国のことを知りたい。そして、国に戻れたら、そこで困っている人たちを助けたい。このガラーシャ村のような、優しい国にしたいの。それが、私の夢」
「夢……」
エセルは深く息を吸い込み、ついに告げた。
「私、明日……この村を発つの」
エフェスは、少しそんな予感を感じ取っていたのか、驚きというよりは静かに覚悟を決めたような顔をした。
「……そう、なんだ」
「エフェスには、直接……さよならって、伝えたかったの」
「……また、戻ってこんと?」
「ええ。多分、戻ってはこられないわ。マイムハレムでの暮らしは、私が少し大きくなるまでの間だけって、元々イマ母様が決めていたみたいだから」
言葉にすればするほど「もう二度と戻れない」という事実が輪郭を持ち、エフェスへの永遠の別れのように響いた。
だが、俯くエセルに対して、エフェスは明るく力強い声で答えたのだ。
「だったら! 今度は、おいがエセルに会いに行っけん!」
「え?」
「カナン王国かなんだか知らんけど、そん国に行けば会えるっちゃろ? 何なら、おいも色々勉強して、そん国に行けるようになったら、マシューたちもみんな連れて行ってやる! そしたら、寂しくなかやろうが!」
考えもしなかった。別れを意識しすぎて、「もう二度と会えない」と決めつけていたエセルの心に、エフェスの言葉は温かな光のように差し込んだ。
その可能性はあるかもしれない。そう思うと、不思議と笑いと涙が同時にこぼれた。
「……ふふっ……あはははっ!」
「な、なんだよ。そげな、おかしかったか?」
「ううん! ……すごく、嬉しいの!」
「……なら、よか」
うん。エフェスが会いに来てくれるなら、もう何も怖くない。
「エフェス。これを、あなたに」
エセルは胸にしまっていたネックレスを取り出し、彼に差し出した。
「もし、嫌だったらごめんなさい。この石、私の『角』でできているの」
「え!? 本当か!? ……って、確かに、角の先っちょが片方無かね!」
「そこは、もっと前に気づいてよ……」
「……ごめん」
いつもの、気の置けないやり取り。その当たり前の空気が、今はどうしようもなく愛おしい。
「このネックレス、絶対に大事にすっけん」
「ええ」
「会いに行く時、絶対に着けていっけん」
「うん。エフェスが大きくなって、別人みたいになっても、それなら分かるわ。良い目印ね」
「目印って、おい……」
「……エフェス」
「ん?」
エセルは、「これは別れの挨拶だから」と自分自身に言い聞かせるように、爆発しそうな胸の高鳴りを抑え込み、そっと背伸びをした。
目を閉じていたのでエフェスの顔はよく見えなかったが、ただ、緊張で強張った唇の温かい感触だけを感じていた。
(ありがとう。いつまでも元気でね)
そう心の中で願いながら、唇をそっと離す。
「エフェス。私、今夜のこと、絶対に忘れないわ……。また、会いに来てね」
まだ、胸の鼓動が自分でも分かるくらい激しく跳ねている。少し離れた場所で、メルが目を丸くして驚愕の表情を浮かべているのが見え、エセルは少しだけ恥ずかしさと冷静さを取り戻し、メルのもとへと駆け出した。
美しい星月夜の光景の中。
エセルは、今日という日をどんなに月日が経っても忘れないだろうと確信していた。
輝く星々が、きっとまた私たちを導いてくれる――そう信じて、彼女は明日へ向かって前へと歩き出したのだった。




