第4話 名もなき地図の道標
エセル編 第二章【北辰の望郷】
『その歌に応え、混沌はその身の内から二つの光を放った。一つは世界を照らす父なる生命の輝き。一つは世界を包む母なる死の静寂。』
──アヴェストルグ:創世の書 第一章三節
星霊暦五〇四年一月九日、水曜日。
深い森の中を、五人の旅人が黙々と馬を進めていた。マイムハレムを囲んでいたハールコテルゲドラー山脈の一部であるレイブードヤアルの森は、彼らにとって決して優しい場所ではなかった。
天を突くほどの巨木が陽光を遮り、昼なお暗い森の地面には湿った腐葉土と苔の匂いが満ちている。時折、梢の奥から聞こえる名も知らぬ獣の鳴き声が、一行の心を見えない棘のようにちくちくと刺激した。
ここは植物民族が張った魔法的な結界により、資格なき者を永遠に彷徨わせるという「迷いの森」。
その本当の顔を、エセル・サルディアヌスは今肌で感じ、母を見つめた。
エセルの母、亡国カナン王国の女王イマ・マルカーは、エセルと同じように質素な旅人のマントを深く被り、じっと顔を隠している。
四十七歳という年齢を感じさせない透き通るような白い肌は、追手を逃れるためにわざと泥で汚されていた。百七十八センチの長身で女性らしい体躯も、今は重いマントの下に息を潜めるように押し込められている。
それでも、フードの奥から覗くレッドパープルの髪や深い緑色の瞳、龍の瞼を思わせる白いフェイスペイントが彩るその横顔は、隠しきれない絶世の美しさと気品を放っていた。
だがその気高い横顔はいつもよりずっと青白く、目元にはエセルがこれまで見たことのない深い疲労の色が刻まれている。
(……もう、帰れないのよね)
つい先ほど、愛する故郷を夜陰に紛れるようにして発った。エフェスと交わした星月夜の約束。あの温かい光景が、今ではもう遠い夢のようだった。
自分の無力さと「亡国の王女」という生まれ持った肩書きの重みが、ずしりとその小さな背中にのしかかる。
「……ッ!」
不意に、隣を歩いていたメルが鋭く息を呑み、腰の剣に手をかけた。その視線の先、薄暗い茂みが微かに揺れた気がした。緊張が走る。
しかし先頭を行く案内役の男、空八兵衛はひらひらと手を振ってその緊張を解いた。
「へっ、心配いらねえって姐さん。ありゃただの影猫だ。腹は減ってねえとみえる」
「……なぜ、それが分かる」
「足音でさあ。腹を空かせた獣の足音は、もっと殺気立ってるもんでね」
ひょいと肩をすくめてみせるその男は、百六十八センチほどの、少しがっしりとした丸みのある体格をしていた。黒い髪と黒い瞳を持ち、どこかとぼけた剽軽な物腰を見せている。
長年異国で活動しているためか、純粋な忍装束ではなく動きやすさを重視した少し和風な冒険者風の出で立ちだ。腰には短刀を差し、腕には小手を身につけている。
しかし、そんな愛嬌のある外見とは裏腹に男の足取りには一切の無駄がなかった。
三十三歳という年齢以上に、その黒い瞳の奥には深い落ち着きと、幾多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ鋭い光が宿っている。
彼はその実、かつて阿倭の国でその名を轟かせた忍ギルド「嬉野ギルド」の数少ない生き残りだった。
阿倭の国の烏鷺町幕府によってギルドが取り潰されてからは一匹狼の案内人として糊口をしのいでいたところを、ミシュマエルにその腕を見込まれ一行に加わったのだ。
やがて一行は、森の奥にひっそりと存在する隠された泉へとたどり着いた。
「よし、ここで一服しよう。姫様も、お疲れでしょう」
空八兵衛が周囲の警戒にあたる中、ハムサとメルは女王イマを馬から降ろし、泉のほとりの岩にそっと座らせた。母の顔はやはりいつもよりずっと青白い。
「お母様、大丈夫ですか?」
「ええ……少し揺られただけです。心配しないで、エセル」
「顔色が、あまりよくありませんわ」
「ふふ……私も、エセルのように運動せねばなりませんね」
そう言って冗談を言いながら微笑む母の姿に、エセルは胸が締め付けられる思いだった。
休息を取る一行を前に、空八兵衛は懐から一枚の古い羊皮紙を取り出し地面に広げた。
「さて、と。今後の進路について、ちいとばかしお話をしときやしょう」
その地図には、エイディン大陸の東部、南ミズラハ半島の三つの港が記されていた。
「ここから一番近いのはカラッチ港。マイムハレムとの裏の繋がりもあるんで話は通しやすい。ですがね……」
空八兵衛は少しだけ声を潜めた。
「ただ、あの港はアルケテロス教の連中も出入りしてやがる。海の関所で万が一にも身元が割れちまったら一巻の終わりだ。奴らはもし我々がカナン王国の関係者と知ったら、女王だろうが一般人だろうが、おかまいなく血眼になって追ってくるはずですからね」
その言葉に、ハムサとメルが息を呑む。
「その点、二つ目のチャバハル港なら奴らの船は入港を禁じられてるんで安全性は高い。ですが、ちいとばかし遠回りになるのが玉に瑕でさあ」
「最後はカヴァラ港。ティラン海峡で一番でかい港で、人の出入りも激しいんでもってこいかもしれやせん。ただ……」
空八兵衛は言葉を区切ると、左頬を上げ、少し困ったようにニヤリと笑った。
「あの街の半分は表の法が通じねえ、俺たちみてえな裏の人間が仕切ってる。タハトン・ファミリーっていうでけえ組織がな。まあ、奴らを敵に回さねえ自信があるなら悪くねえ選択肢ですがね」
三つの港、三つの選択肢。どれを選んでも、その先には測り知れない危険が待ち構えている。
「……問題は、それだけではありません」
沈黙を破ったのはハムサだった。彼女は自らの胸元から一枚の金属の板を取り出して見せた。ノウァーリスの開拓ギルドに所属することを示すギルドカードだ。
「私とメル、そして空八兵衛殿にはこのギルドカードがあります。ミシュマエル様が保証人となってくださったおかげで、大抵の関所は顔パスで通れるでしょう。しかし……」
ハムサの視線がイマとエセルに注がれる。
「イマ様とエセル様には身分を証明するものが何もありません。いや、むしろその高貴な身分を隠さなければならない。このままでは関所を一つ越えることさえ困難です」
その言葉の重みに誰もが押し黙った。亡国の女王と王女。その肩書きは今や、自由を奪う重い枷でしかなかった。
◇
重苦しい沈黙が泉のほとりに満ちていた。その空気を震わせたのは、女王イマの穏やかで、しかし決して折れることのない芯の通った声だった。
「エセル」
母に呼ばれ、エセルははっと顔を上げた。イマは娘の小さな手を自らの少し冷たい手で優しく包み込んだ。
「ごめんなさいね。サルディアヌスという家の宿命のために、あなたをこのような危険な旅に巻き込んでしまって」
その言葉は謝罪でありながら、不思議なほど悲壮感はなかった。それは自らの運命を受け入れ、その上で娘の未来を案じる女王としての、そして母としての気高い響きを持っていた。
「お母様……」
「ですがエセル、あなたは決して一人ではありません。こうして命を懸けて私たちを守ってくれる忠実な臣下がいる。そして遠い場所から私たちを案じてくれるあなたの父がいる」
イマはそう言うと、慈愛に満ちた瞳でハムサ、メル、そして空八兵衛を順に見つめた。
「私の役目は、あなたを西の大陸、カーヴォード王国にいるあなたのお祖父様のもとへ無事に送り届けること。そこから先はあなたの旅です。あなた自身の意志であなたの道を選びなさい」
それは母としての力強い激励だった。
「お母様お一人でその責任を負う必要はありません」
エセルの声は震えていなかった。その青緑色の瞳にはただの少女ではない、強い意志の光が宿っていた。
「私はサルディアヌスの一族としてこの運命をすでに受け入れています。そしていつか、必ず。このガラーシャ村のような温かい国を、私たちのカナン王国で築いてみせます。それが今の私の夢です」
それはまだ十二歳の少女が抱く、あまりにも壮大で現実離れした夢かもしれなかった。しかし、その言葉には聞く者の心を震わせる不思議な力が宿っていた。
彼女が持つ『王の資質』。その片鱗が今、初めて現れた瞬間だった。
凛とした空気の中、最初に沈黙を破ったのはハムサだった。彼女は厳格な表情をわざとらしく咳払いで崩すと、誇らしさとからかいの色が混じった温かい眼差しをエセルに向けた。
「オホンッ……エセル様。はなはだ心苦しいのですが、そのご立派な宣言はこのような鬱蒼とした森ではなく、いずれカーヴォード王国の玉座におわすトラヤヌス四世陛下の御前で披露なさってください」
「まいりやしたねぇ」
その言葉に、空八兵衛がかぶっていた古い笠を少し持ち上げ、にやりと笑う。
「『迷いの森』で迷いのないお言葉たぁ。こいつはエセル嬢に一本取られやしたな」
「ふふふ。エセル、ありがとう。とても素敵な宣言でしたよ」
母イマの心からの優しい言葉。立て続けの大人たちの反応に、エセルの頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「も、もう! みんなして私をからかうのですから!」
ぷいっとそっぽを向いて少し拗てみせる姿は、まだ年相応の少女そのものだった。その時、それまできょとんとしていたメルがはっと目を見開いた。
「……はっ! なるほど、そういうことか! 迷いの森で、迷いなき言葉! ……八兵衛、上手いな!」
「おっと。メルの姐御は剣の腕は立ちやすが、ツッコミの腕は鈍のようで」
「八兵衛! 貴様ッ!」
生真面目に感心するメルと、それを軽口で茶化す空八兵衛。そのどこか気の置けないやり取りに、エセルの口から堪えきれず笑い声がこぼれた。
「あはははっ!」
その屈託のない笑い声は、森の重苦しい空気を一瞬で吹き払っていった。
ハムサとメル、そして空八兵衛は、その小さな王女の姿に今は亡き偉大なる賢帝の面影を確かに見ていた。
◇
一行は再び南を目指して歩き始めた。
エセルのあの迷いのない言葉の後、彼らを包んでいた重苦しい沈黙は嘘のように消え去っていた。心の余裕が生まれたからだろうか。先程までただ不気味に感じられた森の風景も、木々の間から差し込む木漏れ日や苔の絨毯の上に咲く小さな花々が目に留まり、自然が織りなす美しい風景に見えるようになった。
彼らが選んだのは最も安全で、しかし最も時間のかかる森の迂回ルートだった。
道中、ぬかるみに馬が足を取られたり、食料と間違えて少しだけ舌が痺れる木の実をかじってしまったりと、小さなトラブルは絶えなかった。しかしそのたびに一行は顔を見合わせ、休息の時にはそれを笑い話に変えた。
そうして二日が過ぎた。
長い、長い森のトンネルをようやく抜けようとしていた。木の密度が少しずつ減り、道の先にこれまでとは違う明るい光が見え始めた時だった。
「……姫様。あれを」
ハムサが静かに前方を指差す。
最後の木々を抜けた、その先。眼下に広がる広大な夜の平原に、無数の光の点がまるで宝石を散りばめたかのようにきらめいていた。
それは南ミズラハ半島の街々の灯りだった。
マイムハレムでの月光花とヤマトボタルが放つ温かく優しい光が印象深いエセルの目に、人間の欲望と営みが作り出した無機質で、しかし力強い光はあまりにも眩しく巨大に映った。
あれが、外の世界。
これから自分が生きていかなければならない世界。
エセルの胸に新たな世界への言いようのない不安と、それでも前に進まなければならないという確かな希望が同時に込み上げてきた。
自らが民を照らす「道標」となるのだという、静かで、しかし確かな決意の光だった。




