第2話 旅支度と、ガラーシャ村
星霊暦五〇四年一月八日、火曜日。昼。
居間の隣にある客間には、イマ、エセル、ハムサ、メルの四人分の旅支度がすでにひとまとめにされていた。
部屋の隅に置かれたコートハンガーには厚手の外套がかかっており、ハムサとメルの荷物の傍らには旅の護衛用として使われる軽装備が置かれている。使い古されているにもかかわらず、手入れの行き届いた革や鈍く光る金属の留め具からは、彼女たちが幾度も死線を潜り抜けてきた「本物の武人」であるという猛者としての風格が静かに漂っていた。
「エセル。忘れ物がないか、確認は済んでいますか? 【立つ鳥、跡を濁さず】という言葉があります。この村へ最低限の礼儀を尽くすため、そして何より、私たちの残した痕跡のせいで村の方々に迷惑がかからないよう、徹底することが大切ですよ」
母・イマの言葉は、いつだって正しく、そして聡明だった。
行動の一つひとつに意味を持たせ、考えを示してくれる。それは他人に強要する教えというよりは、自らの内の弱さを戒めるための指針のようなものだ。
【民や隣人には優しく、己に厳しく、敵から身を守る】
それはカナン王国の王家が代々受け継いできた家訓に近いものであり、エセルにとっても幼い頃からの当然の教育だった。
エセルの中で、未だ【敵】という存在にはっきりとした輪郭はない。
だが、かつてカナン帝国を滅ぼしたという『アルケテロス教』を奉ずるハーダール帝国こそが最大の敵であるということは、母から何度も教え込まれてきた。他にも無法な略奪者などが世界には蔓延っているというが、この辺境の平和なガラーシャ村では、そんな影を見かけることもなく十年を平穏に過ごせたのだ。
しかし今回、唐突にこのガラーシャ村を去らなければならなくなったのは、その『アルケテロス教』の開拓軍と呼ばれる調査隊が、南の国境を越えてカプールの町にまで迫っているという情報を得たからだ。
彼らがこのマイムハレム地方に足を踏み入れる前に、自分たちが村を去らねばならない。もし自分たちの正体が見つかれば、恩義あるこの村が争いの火の海に変わる恐れがあるからだ。
「はい! 五日前に終わらせましたし、一昨日にも最終確認をしました。私の私物は、最低限のものを除いて倉庫の木箱に綺麗に仕舞ってあります」
「うん、ありがとう。……では、メル、ハムサ。宴へ持っていく料理やお菓子はできていますか?」
母が視線を向けると、メルが目を輝かせて力強く頷いた。
「はいっ! もうハムサ隊長の腕が鳴りに鳴りまくって、最高の差し入れが完成しております! むしろ、私が今すぐ食べたいくらいです!」
メルの言う通りだった。客間のテーブルには、目を見張るようなご馳走が並べられていた。
一つは、こんがりと美しいきつね色に焼き上げられた麦生地の包み焼き。ふっくらと膨らんだ生地の表面には細かな切れ込みが入れられており、その隙間から、じっくりと熟成された鹿の深い赤身肉と、薬草師エリヤが摘んだ山香草の青々とした葉が覗いている。
焼き上がった香ばしい麦の匂いに、濃厚な肉汁の蒸気と、肉のくどさを綺麗に消し去るハーブの清涼な香りが混じり合い、ふわりと鼻腔をくすぐった。
その隣に並べられているのは、幾重にも薄い層を成してサクサクに焼き上げられたパイだ。
生地の隙間からは、じっくり煮詰められた野葡萄の濃密な深紫色のコンフィチュールと、細かく砕かれた胡桃の粒が顔を出している。上から回しかけられた濃厚な薬草蜜の甘い芳香と、野葡萄特有のキュッと甘酸っぱい果実の匂いが、部屋の空気を一気に華やかに彩っていた。
「いや、お前はいつもたらふく食べているだろう。メル、最近お前、少しぷくぷくとした体つきになっているからな。今日は断食にしておけ」
ハムサが涼しい顔で言い放つと、メルは「うぐっ……」と顔を引きつらせた。
「み、見て見ぬふりをしていましたが……やはり、そう見えますか……? け、けれど! この極上の二品を目の前にして断食だなんて、一番重い拷問ですよぉ!」
「ふふふ。ハムサ、今日の宴までは許してあげて。どうせ私たちは、村を出たらしばらくは長旅で質素な食生活が続くのですから」
イマが優しく助け舟を出すと、メルはパッと表情を明るくした。
「イマ様! そうですよね! 確かに、考えてみれば今のうちに食べておかないと損しますし、もったいないですよね!」
「メル、言っておくがな。その料理は宴用で、成人式を迎えるエフェスや子どもたちへの差し入れだぞ。お前は子どもたちや村人が手を付けた後、一番最後だ。余らなかったら諦めろ」
「ええーッ!? ハムサ隊長の料理が余ったことなんて今まで一度も無いじゃないですかー! つまり、私は食べられないってことじゃないですかー!」
メルは心底絶望したような顔をした。
確かに、この料理の匂いを嗅ぎながら一口も食べられないというのは、エセルにとってもひどく辛い拷問のように感じられる。
だが、ハムサもこうなることは予想していたようで、小さくため息をついてからニヤリと笑った。
「安心しろ。一応、イマ様とエセル様の分、それに私たちの分も別に用意してある。夜の食事まで取っておけ」
「「やったー!」」
エセルとメルは、思わずお互いの手を打ち合わせて子供のように喜んだ。
そうして四人で和やかな時間を過ごしていると、玄関の扉の向こうからのんびりとした男の声が聞こえてきた。
「あのー。よろしいですかい?」
瞬間、ハムサは素早く料理を机の奥へ押しやり、メルは音もなく剣の柄に手をかけて腰を落とした。イマとエセルも即座に扉から離れ、メルとハムサの背後へと移動する。
「誰だ!」
メルが警戒を解かずに鋭く問い詰める。
「あっしです。空八兵衛です」
「なんだ、お前か。ノックもせずに声をかけるな」
相手が身内だと分かっても、メルはまだ用心深く周囲を窺いながら扉を開けた。
「いや、ノックはしやしたよ。ただ、中からえらく賑やかな声がしてたんで、こりゃ聞こえてねえなと思いやしてね」
「……まぁいい、何の用だ。何か報告があるのか?」
ぬらりと部屋に入ってきたこの空八兵衛という男は、エセルたちの『案内人兼護衛』として雇われた、東方の島国・阿倭の出身者だ。
エフェスの父であるミシュマエルから「これ以上の道案内はいない」と太鼓判を押されて紹介された人物で、かつてロゴス教圏の港町フィリピから、東回りで世界を丸ごと一周した実績を持つという。
黒髪に黒い瞳、そして少しふっくらとした親しみやすい体格。すでに一度挨拶を交わしてはいるが、飄々としたどこかとぼけた佇まいの奥には、幾多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ『鋭い光』が確かに宿っていた。
「いや、もうそろそろお時間ですぜ、といった話ですよ。あっしは出発前に、南へ抜ける通り道を確認しときてえんで。地図を広げてもよろしいですか?」
八兵衛がそう言うと、懐からマイムハレムと南に位置する南ミズラハ半島の詳細な地図を取り出した。
「エセル。あなたとハムサは、先に成人式の宴に行ってきなさい」
イマが、エセルの背中を優しく押した。
「え? よろしいのですか?」
「もちろんです。もとより私たちも参加の予定でしたが、ここは私とメルに任せて、先に楽しんできなさい」
母は、娘に少しでも長く「最後の思い出」を作らせてあげたいという親心から、あえて自分の出発を少しだけ遅らせたのだ。エセルはその思いを確信し、心から感謝した。
「はい! 行ってきます!」
エセルはハムサの料理を入れたバスケットを大事に抱え、自分も行きたいと恨めしそうに見つめるメルの横を「ごめんね」と通り過ぎて、宴の広場へと向かった。
背後からは、八兵衛の呑気な声が聞こえてくる。
「明日の早朝に出発しやすが、あっしもマイムハレムの美味いお酒を一杯くらいは飲んでみたいんで、ちゃちゃっと確認作業を済ませましょうや」
「そうですね、よろしくお願いいたします」
「おい八兵衛、私が宴の料理を食べに行けなかったら、容赦はしないからな」
「それじゃあ、あっしの旅が始まる前に終わりやすって……」
◇
エセルは、ハムサの料理を崩さないように気をつけながら、足早に宴の広場へと向かった。
マイムハレムを取り囲む広大なハールコテルゲドラー山脈の山頂には、一年中白い雪が積もっている。その雪解け水がもたらす豊かな水源と、程よく湿気を帯びた澄んだ空気のおかげで、この森の気温は一年を通して過ごしやすく安定しており、まさに「楽園」そのものだった。
(十年間……何度、この道を走っただろう)
今になって感傷的な思いが胸を満たしそうになるが、それ以上に「エフェスやマシュー、モー、マキリたち友人に早く会いたい」という浮き立つような期待が勝っていた。
広場ではすでに盛大な宴が始まっていた。村人とすれ違うたびに、自然と笑顔で挨拶を交わす。
ガラーシャ村を行き交う人々の姿は、実に多様だ。牛のような角を頂く者、しなやかな触角を揺らす者、あるいは獣の耳を覗かせる者――それぞれの種族が持つ特徴はバラバラだったが、誰もがトーダー教徒の証である『マイコアカネ』のような鮮やかな赤の衣服を身に纏っている。
額や目の下に施された魔法石塗料のペイントと、鮮烈な赤の装い。種族の垣根を超え、ひとつの大きな家族のように温かく身を寄せ合って暮らす。ここは、そんな優しい人たちばかりの村だった。
「おう! エセルの嬢ちゃん! 遅かったじゃないか! 急がないと、悪ガキどもに料理を全部平らげられちまうぞ!」
大きな熊のような獣人・ゲデオンが、豪快に笑いながら話しかけてきた。
「あ! ゲデオンさん! こんにちは! 大丈夫ですよ、ハムサがとびっきりの料理を作ってきてくれましたから!」
「お! そいつは嬉しいねぇ! あいつらが食う前に、俺がちょっと味見しても良いか?」
「ダメに決まってるだろ、ゲデオン。さぁエセル様、その重いバスケットはこちらへ」
いつの間にか後ろに付き従っていたハムサが、ゲデオンに鋭くツッコミを入れ、エセルからバスケットをひょいと受け取って彼に渡した。
「ありがと、ゲデオンさん」
「了解だ! って、こいつはパイだな!? うひひひ、すげぇいい匂いがするぜ! 悪ガキどもにバレないように、俺の目の届くところに隠しておくぜ」
「だめよ、今日はエフェスたちに食べてもらうために、ハムサに作ってもらったんだから!」
「ははは! 分かってるって。さぁ、エフェスたちもお前を待ってるぜ。早く行ってやんな」
「うん!」
エセルは元気に返事をすると、エフェスたちが集まっている方へと小走りで向かった。
ゴスンッ!!
不意に、まるで熟した大きな木の実が地面に落ちたかのような、鈍く重い音が響いた。
「今日くらい、優しくしてよ! 母ちゃん!」
「仲間に迷惑ば、かけたなら、ちゃんと謝らんと!」
その声の主は、この村ではもはや見慣れた日常風景――エフェスと、彼の母・マリアによる容赦のない「親子の対話」だった。
エフェスの母・マリアは、母イマの親友でもある。
竜民族特有の硬質な肌と、ワニの鱗を思わせる灰色の髪、そして紫色の鋭い瞳を持つ、元近衛兵らしい凛々しくも美しい女性だ。引き締まった体躯から繰り出される容赦のないゲンコツと説教で、調子に乗った息子を容赦なく叱りつけている。
その横で「痛てぇ!」と頭を押さえてうずくまっているのが、エセルの幼馴染であるエフェスだった。
緑青のメッシュが躍る金髪に、爛々と輝く緑の瞳。額や目の下に鮮やかなペイントを施し、赤を基調とした動きやすい狩人装束を纏った彼は、しなやかな野性味と、どこか憎めない快活さを全身から放っている。
二人の容赦のない、けれど溢れんばかりの愛に満ちたやり取りを見ていると、思わずエセルの口元も自然とほころんでしまうのだった。
とにかく、早く彼らにお祝いの言葉を伝えたかった。エセルは、エフェスと周りにいた友人たちの輪の中へと飛び込んだ。
「エフェス、マシュー、マキリ、モー! 皆さん、ご成人おめでとうございます!」
そして、宴の時に皆で盛り上がる、いつもの「あの挨拶」を大声で放った。
「みんな、おめでとー! かんぱーい!」
「「「かんぱーいッ!」」」
エセルの掛け声に、阿吽の呼吸で木の実のジュースの杯を掲げてくれる友人たち。本当に大切で、大好きな仲間たちだ。
(いつまでも、この瞬間を忘れないように。この時を、思い切り楽しもう)
自然と、そんな温かい思いが胸に溢れてきた。
ふと見ると、エフェスも成人式用におめかしをしたのか、いつもの寝癖だらけのボサボサ髪ではなく、しっかりと櫛で整えられた「キノコのような丸い髪型」になっていた。
「エフェス。今日の髪型、とても可愛らしいね。ふふっ」
「こ、これは母ちゃんが勝手に……!」
「俺も、そっちの方がお前に似合ってると思うぞ」
エセルが優しく褒め、マシューが面白そうに茶化すと、エフェスは耳まで真っ赤にしながら、せっかく綺麗に整えられた髪を両手でぐしゃぐしゃに掻き回し、いつもの無造作な髪型に戻してしまった。
その直後、エフェスがふと思い出したように尋ねてきた。
「そういえばエセルは、なんで俺たちと一緒に成人式ば受けんかったと?」
その素朴な疑問に、エセルは一瞬だけ表情を曇らせた。
たしかに、年齢的には今年、皆と一緒に成人式を受ける予定だったのだ。しかし、村を去らねばならない本当の理由を彼らに言うわけにはいかない。エセルはあらかじめ母と考えておいた、もっともらしい理由で誤魔化した。
「それは……私が皆と違う国や、違う宗教の生まれだから、かな。国が違えば文化や風習も違うしね。だから私も、私だけの成人式はもう密かに済ませたから」
「ふーん……。エセルはちっちゃい頃からマイムハレムにしかおらんかったとに、なんか変な話やね」
「……ええ。本当に、そうね……」
(なんで私だけが、皆と違うんだろう)
かつて幼い頃、その違いに疎外感を感じて一人で泣いたこともあった。けれど、自らの過酷な出生と王族としての使命を学んでからは、仕方がないことだと子どもながらに思いを飲み込んできた。
少しだけしんみりとしてしまった空気を吹き飛ばすように。
「エセル!」
エフェスは、満面の笑みで再び杯を高々と掲げた。
「エセルも、成人おめでとーッ! かんぱーい!」
「「「イエエエエエエイッ!」」」
「えっ!? えっ!?」
エセルの周りに、エフェスや友人たちがワッと集まり、次々と木の杯を打ち合わせてきた。
『俺たちは同じ仲間なんだ』
言葉にしなくても、その温かい笑顔と騒がしい輪が、エセルにそう告げていた。
(何度でも思う。やっぱり、私……この村が大好き…ッ)
込み上げてくる嬉しさに、エセルの瞳の奥が少しだけ熱くなった。
「……! うん! 皆、ありがとー!」
エセルは、仲間たちが悪ふざけのように繰り返す乾杯の度に、弾けるような笑顔で杯を打ち合わせた。
美味しい料理に舌鼓を打ち、踊り、語り合い、笑い合う。
ガラーシャ村での、最後で最高の宴を、エセルは心の底から楽しんだのだった。




