第1話 夜明け
第一章 マイムハレムの空
はじめに言葉はなく、ただ混沌があった。全ては一つであり、一つが全てであった。
──アヴェストルグ:創世の書 第一章一節
星霊暦五〇四年一月八日、火曜日、朝。
『エセル……私たちは、このガラーシャ村を去らなければならなくなりました。ただし、村の皆様にはその旨を伝えずに去らねばなりません。よろしいですか』
二週間前、母であるイマから静かにそう告げられた記憶が、微睡みの中からエセルの意識をくっきりと引き上げた。
窓の外はすでに白み始め、朝を喜ぶ小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。頭の中に巡っていたさまざまな思考を振り払うように、エセルはベッドから身を起こした。
少しひんやりとした木の床を素足で歩き、窓際の洗面台へ向かう。冷たい水で顔を洗い、竹の繊維で作られた歯刷子で丁寧に歯を磨き終えると、エセルは小さな化粧台の前に座り、手鏡で自らの顔を見つめた。
鏡面が映し出すのは、透き通るように白い肌。肩へと零れ落ちるシルバーブロンドの髪と、まっすぐに自分を見つめ返してくる青緑色の瞳。
額の前髪をわずかに指で払うと、必ず硬い感触に行き当たる。少し曲がった、小さな角。それは、長い歴史を持つ竜民族の王家の血筋を引いていることを物語る、彼女の身体に刻まれた明確な証だった。
二歳の時にエイディン大陸の北東、マイムハレム地方のこのガラーシャ村へ逃れてきてから十年。
鏡に映る自分を見るたび、幼子だった輪郭が少しずつ大人の女性へと近づき始めていることを実感する。ただ事実として、顔のパーツを一つひとつ確かめていく。それは、世界から「魔王」と忌み嫌われた亡国・カナン王国サルディアヌス家の家系に生まれ、自らの肉体と背負うべき運命を静かに受け止める、彼女なりの毎朝の儀式だった。
母からの急な告白には驚いたものの、いつかはこの隠れ家を去る日が来るのではないかと、心のどこかでずっと準備をしていた自分がいた。
コンコン、とかしこまったノックの音が静寂を破った。
「エセル様、失礼してもよろしいでしょうか」
「メル、大丈夫ですよ」
「おはようございます! さ、さ。お着替えをお手伝いいたしましょうか」
勢いよく部屋に入ってきたのは、従者のメル・カヴァだ。正確に言えば、サルディアヌス王家に仕える近衛兵である。
鮮やかなブルーグレーの前下がりショートヘアに、黄色と赤が複雑に混じり合う、獣のように力強い瞳。凛と引き締まった眉の下から注がれる視線には、一切の隙も与えない強い意志と忠誠心が宿っている。日頃の研鑽を感じさせる無駄のない筋肉質な体躯は、エセルの目から見ても「歴戦の武人」たる威厳と緊張感を漂わせていた。
しかし、村の生活に馴染む素朴な衣服に身を包んだ彼女の顔には、三十歳という年齢を感じさせない少年のような快活さが同居している。話す際、きっちりと結ばれた唇の端から時折覗く小さな八重歯が、生真面目な剣士の佇まいに不思議な親しみやすさを添えていた。
「メル。いつも言ってるけど、着替えは自分でできます。しつこいと、嫌われますよ?」
「そ……そんなこと、おっしゃらないでください、エセル様! 私は召使いとしての責務を果たそうと……」
「もう、そういうところ。メルは私の家族なんだから、そんなに気を遣わなくていいの」
「エ……エセル様……ッ!」
エセルのからかい半分の言葉と、心からの言葉に、一喜一憂して大げさに感動するメル。エセルにとって彼女は、頼もしい護衛であると同時に、少しお節介な姉のように慕える存在だった。
「で……では、居間で朝食を準備してお待ちしております!」
「うん、すぐに行くね」
一人になったエセルは、肌着の上から、カナン伝統の余韻を残したシンプルな白いトーガを身に纏った。優雅な陰影を作り出す布の重なりが彼女のすっきりとした立ち姿を包み込み、素性を知らぬ人が見ても、どこか凛とした王女の気品を引き立てていた。
身支度を整え、母イマと、メルの上司にあたるもう一人の従者・ハムサが待つ居間へと向かう。
「おはよう、エセル」
「おはようございます、お母さま」
「今日は、エフェスたちの成人式でしょ。最後に楽しんできなさいね。もちろん、村のお手伝いもするのですよ」
微笑みかける母イマは、並の男子さえ見上げるほどのすらりと秀でた長身だ。エセルとお揃いの白いトーガを身に纏いながらも、肩から裾へと流れる布地が描く立体的なドレープには、隠しきれない気品が宿っている。
艶やかに流れるレッドパープルの髪と、強く澄み渡る緑色の瞳。龍の瞼を模した白いペイントが差された目元が、シンプルな衣装と鮮やかなコントラストを描き出していた。耳元や指先で密やかに光を弾くのは、カナン王家に伝わる魔法装具だ。
ただ静かに立っているだけで周囲の空気を凛と張り詰めさせる、亡国カナンの「女王」としての威厳。それでもイマは、辺境の慎ましい装いに身をやつし、このガラーシャ村ではエセルにとってただの「優しい母親」として過ごしていた。
「イマ様、エセル様。ジャムはいかがいたしますか?」
厨房の方から、ハムサ・デトロイトが顔を出した。
母よりもさらに長身でモデルのようにすらりとした彼女は、シンプルな白いトーガの上からでも「カナン最後の盾」たる絶対的な安定感を漂わせている。
すっきりと整えられたシルバーグレーの前髪と、後ろで丁寧にまとめられた三つ編みのお団子。少しピンクがかった白い肌に映える紫色の瞳は、かつてカナン帝国の「ノド辺境国の宝石」と謳われた絶世の美貌そのままだ。
「今朝のジャムはイチゴと、ブルーベリーですが?」
五十歳を迎えてなお美しいその横顔に、厳格さと優しさを覗かせながら、ハムサはジャムの小壺を手に落ち着いた声で問いかけてきた。
「「イチゴでお願いします」」
エセルとイマの声が見事に重なる。
「ふふ、やはり親子ですね。では、ブルーベリーは私とメルがいただきますね」
従者たちに見守られながら、慎ましい朝食が始まった。
ガラーシャ村で採れた茶葉を発酵させた紅茶の良い香りが漂い、辺境とは思えない優雅な空間がそこにはあった。
しかし、ふと部屋を見渡すと、お気に入りの食器や調味料、読みかけの本や靴など、今までそこにあったはずのものが木箱に詰められ、綺麗に片付けられていた。段々と生活感が失われ、殺風景になっていく部屋の様子が「もうすぐこの村を去るのだ」という冷たい事実を突きつけ、エセルの胸にチクリと寂しさが走る。
イチゴジャムを塗ったパンを口に含み、その甘酸っぱさを噛み締めながら朝食を終えた。
色々な感情が渦巻く朝だったが、今日の昼には、母の友人の息子であり、エセルの幼馴染でもあるエフェスの成人式が行われる。村を挙げての大きな宴だ。
(エフェスに、あれを渡さなきゃ)
楽しさと悲しさが半分ずつ入り混じる中、エセルは夜にエフェスと交わした「二人だけの秘密の約束」を思い出していた。
用意したプレゼントを、今日絶対に渡すのだ。
そう決意すると、少し沈んでいた少女の心は、今日という日への期待でトクトクと高く鳴り始めたのだった。




