第25話 白島の怪異②
「ギシャアアアアアアアアアッ!!」
禍々しい紫色の瘴気を顔の亀裂から漏らしながら、悪鬼化した大土竜が雄叫びを上げた。全長四メートルにも及ぶ巨体が、地響きを立てながらエセルたちの方向へ地面を這うように猛進してくる。
その圧倒的な威圧感を前にしても、歴戦の近衛兵であるメルは氷のように冷静だった。瞬時に双剣を構え、相手の挙動を分析する。
「もともとは、ただの土竜だったのでしょうか……。さすがに速さで言うのであれば、先ほどの狂犬たちの方が上です。距離を取りながら立ち回れば、仕留められると思います!」
「うむ、そうだな」
ハムサもまた、大剣の柄に手をかけながらメルの分析に同意した。
「ただ、魔物化したことで、どうやら周りの体毛だったものが、岩や泥を巻き込んだ『外殻』へと変質している。まるで重鎧だ。並大抵の斬撃や魔法は弾かれるだろうな。……八兵衛! 手始めに、炎をぶつけられるかい!」
「船の上でもなけりゃ、乾燥した山でもねぇんで、思いっ切りいきやすぜ!」
待っていましたとばかりに、八兵衛が懐から魔法護符を引き抜いた。印を結び、聖霊の力を引き出す文言を短く唱える。
『火遁・火球の術!』
八兵衛の構えた護符が激しく燃え上がり、巨大な火球となって放たれた。夜の闇を切り裂き、炎は真っ直ぐに大土竜の巨体へと命中する。
ボゴォォンッ! と熱風が吹き荒れた。岩のように硬質化した外殻とはいえ、元は獣の毛と泥。付着した油分や樹脂が引火したのか、火球は大土竜の体を包み込むように激しく燃え上がった。
「困った時はやっぱり火の魔法に限りますが、メルの姐さんの炎と違って、あたりに燃え広がる可能性があるんで、時と場所を選びますねぇ。……どうです? あっし、すごいでしょ? もっと褒めても良いんですぜ」
得意げに鼻を鳴らす八兵衛。しかし、その余裕をよそに、炎に包まれた大土竜は狂乱したように前脚の鋼鉄の爪で地面を深くえぐり、猛烈な勢いで地中へと潜り始めた。
「いけねっ! あいつ、土に潜って自分の火を消すつもりですぜ!」
「たく、詰めが甘いんだよ! 何やってんの!」
「すま、申し訳ねぇです!」
メルと八兵衛の騒々しいやり取りをよそに、イマとハムサは至って冷静だった。
「八兵衛、構いません。あなたは命令を遂行しました。あの程度の魔法でこのクラスの魔物を倒せるとは、最初から思っていません」
イマが静かに告げる。ハムサもエセルの前に立ち塞がるようにして警戒を解かなかった。
「エセル様、下手に動いてはいけませんよ。まだ相手は逃げたわけではありません。地中に潜ったのなら、あの図体です。地面の振動と盛り上がりを観察すれば、必ず対応できるはずです」
「……かしこまりました」
エセルは杖の代わりに、自らの右耳で揺れる魔法装具にそっと触れ、神経を研ぎ澄ませた。
大土竜は地中深くへ潜ったまま大きく動く気配はなく、火を消すように同じ場所の地面が不気味に蠢いているだけだった。
「しかし、変ですね……」
不意に、イマが神妙な面持ちで語り出した。
「白島で魔物が増え始めたのは一年前からとのことでしたが……このような四メートル級の大型の魔物が出現しているということは、瘴気の発生源となる『大きな原因』が、この白島にあるとしか思えません」
ハムサも鋭い視線を地面に向けたまま、同意する。
「私もそう思います。まだ全土を覆うほどの脅威ではありませんが、大鬼化を伴うほどの魔物が出ること自体、局地的な『強烈な瘴気溜まり』が必ず白島で発生しているのは間違いありません」
「しかし、だからこそ変なのです」
イマの美しい眉がひそめられた。
「阿倭の国に、しばらく大規模な戦は起きていない。しかも、軍事的な大魔法が使われた形跡もない。それなのに、この平和な農耕の島で大型魔獣が出た。……これは、異常です」
エセルも二人のやり取りを聞きながら、背筋に冷たいものを感じていた。祖先が遺した『魔法白書』の知識を誰よりも深く理解している母が「異常だ」と断言するのだ。この田舎島には、目に見えない深い闇が隠されているに違いない。
「これは、魔獣討伐後にお七殿を通じて白島の役人に報告し、瘴気の発生源を突き止める捜索をしてもらったほうがよさそうですね。……八兵衛、お願いできますか?」
「そいつぁ、討伐後の相談でさ! あっしはお三方と比べてひ弱なんで、そんな政治的なことを考えてる余裕は今はありやせんぜ! ってか、そもそも瘴気なんて、どうやって捜索するんですかい?」
パニックになりかけながらも、的確なツッコミを入れる八兵衛。
「瘴気は、いわゆる暗黒物質と仮定したものが充満している空間でもあります。光を不自然に吸収するような、澱んだ暗い空間があるはずです。注意深く見れば、普通の人でも目視できるはずですよ」
「分かりやすくて助かりやす! ……って、うおぉぉっ! 俺のところに来たァッ!!」
ズズズズズンッ!!
八兵衛の悲鳴と共に、彼が立っていた足元の地面が急激に盛り上がった。大土竜は地上の火を消し終えるや否や、獲物の匂いを嗅ぎつけ、地中から一直線に八兵衛を狙ってきたのだ。
「こいつ、地上より地中の方が速いんじゃねえか!」
「八兵衛! そこを退いて!」
エセルが叫ぶと同時に、右耳のイナウレスが淡い光を放った。先天性固有魔法【マターナ】。詠唱も魔法器も必要としない、意志の具現化。船上での特訓の成果を乗せ、エセルは三つの灼熱の球体を虚空に生み出した。
『火球!』
放たれた三発の火球が、地中から飛び出してきた大土竜の顔面めがけて正確に直撃する。
しかし――。
「ギシャァッ!」
ボフッ、と鈍い音がして、火球は分厚い岩石の外殻に阻まれ、煤を残しただけでかき消されてしまった。
「えっ! 今度は効かない……!?」
「エセル様! お下がりください!」
大土竜がエセルへと標的を変えようとした瞬間、メルが風のように滑り込んだ。大土竜が態勢を整える前に懐に潜り込み、双剣を交差させて強烈な斬撃を叩き込む。
ガギィィィンッ!
鋼鐵のような硬さの掘削爪とメルの剣が激突し、激しい火花が散った。
「チッ、図体がデカい分、やりづらい! ハムサ隊長! 八兵衛! こいつの周りから攻撃を頼みます! エセル様はイマ様のそばに!」
四メートル級の巨体と正面から鍔迫り合いをするメル。並の人間なら一瞬で押し潰されるほどの質量と筋力だが、メルの膂力と卓越した体幹は、荒れ狂う船の上での戦闘よりもさらに際立って見えた。一歩も引いていない。
「ああ、私に任せな! そこを退きな、メル!」
ハムサが大剣を上段に構え、大地に両足を踏みしめた。刀身に莫大な魔力が込められ、周囲の小石がふわりと宙に浮く。
『重土剛斬!!』
ハムサが裂帛の気合と共に大剣を薙ぎ払うと、大地そのものが揺れるような衝撃が走った。地面の土と岩石が隆起し、巨大な土の剣の刃となって、大土竜の巨体を下から一閃する。
ドガガァァァァンッ!!
とてつもない衝撃と爆音。巻き上げられた土煙の中、大土竜の硬質な外殻が広範囲にわたって凄まじい音と共に削り取られた。しかし、完全に身体を両断するには至らない。
「ギシャッ! ギシャァァァアアッ!」
深手を負い、苦痛とパニックに陥った大土竜は、再び猛スピードで地中へと逃げ込んだ。
「チッ! 頑丈だね! 相手が土属性の魔物だろうから、私の魔法剣の威力が半分ってところかい!」
ハムサが舌打ちをする。そのすぐ横で、八兵衛がへたり込んで抗議した。
「いやいや! 地面が大きく裂ける剣技って何なんですかィッ!? ってか、あっしに当たったらどうするつもりだったんですかい!」
「味方に当たるようなヘマはしないよ! 安心しな!」
「万が一ってこともあるでしょうが!」
「喋っている暇はない! くるぞ!」
ハムサの警告通り、大土竜は地面から弾丸のように飛び出し、落下する勢いそのままに再び地中へ潜るという、イルカのような波状攻撃を繰り返した。ズンッ、ズンッ、と地鳴りが響く。二度、三度と同じ行動を繰り返した後、大土竜は少し深い地中にとどまり、不気味に蠢き始めた。
「いったん離れるんだ、八兵衛!」
「あいさ!」
ハムサは大土竜の行動パターンが変わったことを察知し、大剣を構えたまま牽制の態勢を取った。
「奴も馬鹿じゃない。地面の中からあたしらの足音や振動を窺っているはずだ。下手に動くんじゃないよ」
メルが油断なく双剣を構えながら、ハムサに確認する。
「隊長、いかがいたしますか! 魔法を使うにしても、地中の相手には土の魔法しか届きませんがッ……」
「奴に土の魔法の通りが悪いとなれば……」
ハムサは少し思案し、背後のイマを振り返った。
「イマ様。あまりお体に負担はかけさせたくないのですが……船の上で使われた『海神共鳴』のような巨大魔法でなくて結構です。地面の奥底に直接響かせるような『爆音の魔法』はありますか? あの土竜は視力がなく、音や振動、匂いに極端に依存しています。強烈な音で感覚を麻痺させ、地面から引っ張り上げることが出来れば……」
「任せなさい」
イマは一つ頷いた。
「ただ、あまり大きな音を立てて町の人たちが集まってこないか心配ですが……四の五の言う前に、この脅威を滅することが先決ですわね」
イマは目を閉じ、地中で蠢く大土竜の気配と位置を正確にイメージした。そして、両手を地面に向け、古の力たる【マターナ】の意志を紡ぐ。
「……『土霊音爆』」
ギィィィィンッ……!!
空気が震えるほどの物理的な爆発ではなく、地面の奥深くを直接揺さぶるような、低く、しかし鼓膜を突き破るような強烈な重低音が足元から響き渡った。地中に威力を絞っているため、地上にいるエセルたちは耳を塞ぐことなく戦闘態勢を維持できる。
しかし、聴覚と触覚に極端に依存する大土竜にとっては、脳髄を直接かき回されるような致命的な一撃だった。
「ギャァァァアアアッ!?」
地割れが起き、たまらず地中から飛び出してきた大土竜は、自慢の鋭い爪を虚空で空振りさせながら、完全に平衡感覚を失ってフラフラとよろめいていた。
「メル! 思いっ切りいけ。行けるな?」
「任せてください!」
ハムサの合図を受け、メルがトドメを刺すべく地面を蹴ろうとした――まさに、その時だった。
「ちょっとぉぉおッ!! 誰かァッ! 犬をどうにかしてくださぁぁぁああいッ!!」
「「「!?」」」
緊迫した戦場に、場違いな情けない絶叫が響き渡る。
全員が思わず振り返ったその先。
夕闇の向こうから、先ほど一目散に逃げ出したはずの武虎が、五匹の狂犬たちを綺麗に引き連れて、凄まじい勢いでこちらへ向かって猛ダッシュで戻ってくる姿があった。




