第24話 白島の怪異①
星霊暦五〇四年一月二十六日(土)昼〜夕刻。
「昨夜の心盛の刺身も絶品でしたが……こちらの丸誠の刺身も、また格別ですね」
母イマの感嘆の吐息に、エセルも深く頷いた。
目の前に並べられたのは、ヒラマサ、メジナ、マダイにヒラメといった、五色列島が誇る旬の地魚たちだ。透き通るような白身は、舌の上で跳ねるような弾力を持ち、噛みしめるほどに濃厚な甘みと磯の香りが口いっぱいに広がる。
「へへっ、でしょう? 五色列島の海の幸ってやつでさぁ。あっしが今まで食ってきた刺身の中でも、ここの鮮度は断トツで……おっと、お七姉ちゃん家の晩飯は、あんまり期待しないでくだせぇよ」
八兵衛が茶化すように言うと、イマは少し呆れた優しい顔で嗜めた。
「八兵衛、そのようなことを言ってはいけませんよ。家庭料理というものは、外食の華やかさとは違う安心する味があるものです。それに、私たちは招かれる客なのですから、そのような失礼なことを考えるべきではありませんわ」
「たく、私たちを何だと思っているんだ、八兵衛め」
ハムサも冷ややかな視線を送る。
「へへへ、こいつぁ失言で。すいやせん……って、おや?」
ふと、八兵衛が箸を止め、耳をそばだてた。
エセルもつられるように周囲を見渡す。昼時の活気にあふれていたはずの店内が、いつの間にか妙な緊張感に包まれていた。地元の漁師や商人たちが、顔を寄せ合い、声を潜めて何やら深刻な会合を開いているような雰囲気だ。
エセルはそっと息を殺し、彼らの会話に耳を傾けた。
「昨日、山内の農場や五色芋の畑で、相当な被害が出たってよ。猪の仕業じゃねぇ。大きめの犬みたいなもんだったらしい」
「狼か、熊じゃねえのか?」
「熊は五色にはいねぇよ。それに、ただの野犬とも違う、なんか薄気味悪い感じだったって話だ」
「悪霊か、妖怪の類か? 人も牛も食い殺されてるんだ、どっちにしろヤバいぜ……」
「五色藩の侍衆はどうしてんだ? 効果があるのか分からねぇ魔除けの道具を使えって言うばかりで、討伐には動いてくれねぇのか?」
「こんな田舎島だ。本土の忍びギルドに依頼を出しても、派遣されるまで時間がかかる。藩の侍は戦い慣れちゃいねぇから、あてにならねぇよ」
「んで、その悪霊か妖怪は今どこにいるってんだ?」
「そんなもん俺が分かるかよ。ただ、昼間は見かけねぇらしい。夜にしか出ねぇってなると、これじゃあ安心して飲みにも歩けねぇな……」
「まぁ、俺たちゃいざとなりゃ船に乗って逃げるけどな!」
「馬鹿言え、海も最近魔物がよく出るんだろうが、お前そう言ってたろう」
「……そういや、そうだな」
五色列島にも、ついに魔物の影が落ち始めたのか。
本土の異変の余波が、この白島にも確実に忍び寄っていた。五色藩の魔物対策が、昨日市場で見かけたあの気休め程度の護符頼みであるという事実に、一行の間に重苦しい空気が流れる。
「……被害が大きくなる前に、我々でどうにかできないでしょうか」
イマが、声を落として八兵衛に問うた。
「五色列島は、永崎までの中継航路にあるただの田舎島ですからねぇ。忍びギルドに依頼があったとしても、報酬との釣り合いが取れねぇんで、おそらく人気はねぇでしょうな」
「こんなに美味しい食べ物がたくさんあるのにですか?」
エセルが不思議そうに首を傾げると、八兵衛は肩をすくめた。
「腹は膨れるでしょうが、財布に金は貯まりやせん。それに、ギルドランクに影響が出るような大仕事じゃねぇんで、偉くもなれませんしね」
「場所はどこか分かりませんが……今後、お七さんや武虎さんの畑にも影響が出ないとも限りませんよ」
イマの言葉は、最悪の事態を的確に突いていた。八兵衛も渋い顔をして頭を掻く。
「いや、だってあっしらの滞在期間は明日までですよ。今日中に解決ってわけにはいかねぇでしょう。魔物がどこにいるのか分かれば話は別ですが、小さい島って言っても、一周するのに歩いて五日はかかりやす。闇雲に探しても、時間を浪費するだけですぜ」
「……そう言われると、そうね」
「ですです。まぁ、お七姉ちゃんは腐っても嬉野の元・忍びなんで、そう簡単にはやられやせんよ」
八兵衛の言葉に一理あるとはいえ、不穏な空気を引きずったままでは、エセルは折角の極上の刺身も、最後まで心から味わい尽くすことはできなかった。
◇
昼食後、崑花南の宿で旅の荷物を整理しながら休息を取っていると、武虎が威勢よく迎えにやってきた。
「俺の家は『六方』ってところにあるんですけど、福江港から南に六キロと近いんで、すぐ着きますよ!」
「六キロは近くとは言わねぇですぜ。朝に武虎が土を耕していた田んぼから、さらに三キロ程度先ってとこですかね」
呆れる八兵衛を先頭に、一行は夕暮れが迫る阿倭の田舎道を歩き始めた。
赤茶けた土の道。道の両脇には、風に揺れるススキと、どこまでも続く段々の田んぼ。夕陽が山の稜線を赤く染め上げ、どこからか虫の音が微かに聞こえ始めていた。
「武虎さん」
エセルは、昼食時に聞いた不穏な噂について尋ねてみた。
「昨日、山内の農場で魔物による大きな被害があったと聞きましたが……武虎さんたちの畑は大丈夫ですか?」
「あぁ、魔物のことはよく分からねぇっすが、出たとしても俺直伝の『武虎流草刈り』でちょちょいのちょいっすよ! しかも、お袋(お七)はアホみたいに強えんで、心配いらねぇさ!」
無邪気に笑う武虎に、八兵衛がため息をつく。
「お七姉ちゃんのことは微塵も心配しちゃいねぇですが、武虎は魔物の餌になりそうでさぁ」
「そんな! 叔父貴! 俺、まだ本当の実力を見せれてないんで、そんなこと言わないでくださいよー! たくー、愛弟子の俺には手厳しいんだからー!」
「誰が愛弟子だ! 誰が!」
「八兵衛も、良い弟子ができてよかったではないか。羨ましいぞ、ワハハハ!」
武虎のペースに完全に巻き込まれ、困り顔で振り回される八兵衛。その様子がおかしくてたまらないのか、メルは終始上機嫌だ。
賑やかな会話が響く夕暮れの道。その温かな空気と、土と草の匂いが、エセルの胸の奥にしまい込んでいた感情を静かに揺さぶった。
(ガラーシャ村の夕暮れに、似ている……)
エフェスたちは、今頃元気にしているだろうか。
村を出てから、まだ三週間ほどしか経っていない。けれど、死と隣り合わせの砂漠を越え、魔物が襲い来る海を渡り、目まぐるしく変わる景色の中で、エセルにはそれが何年もの途方もない時間に感じられていた。
「エセル様、私の後ろにお下がりください」
「イマ様は、わたくしの後ろへ」
メルとハムサの鋭い声が、エセルを一瞬で現実の戦場へと引き戻した。
ハッと前方を向く。東の山側に広がる鬱蒼とした森の影から、五つの黒い影が音もなく滲み出るように現れ、こちらへと向かってきていた。
「あれは……野犬ですかねぇ。こりゃ、厄介なもんで」
八兵衛が、腰の短刀に手をかけながら低く唸る。
「野犬って……犬、ですか? 八兵衛」
エセルは目を瞬かせた。
「えぇ。もしかしてエセルのお嬢は、家畜の犬しか知らねぇんで?」
「はい。犬は人間と共生する、優しくて賢い生き物だとしか……。ガラーシャ村でも、猟犬を皆でとても可愛がっていましたし」
「気を付けてくだせぇよ。阿倭の狼や野犬に噛まれると、ほとんどが病気で死にますぜ」
「えぇっ!? それは、本当ですか!?」
エセルとメルが、揃って素っ頓狂な声を上げた。
「たく、犬は家畜でも、下手すると魔物みたいな狂犬になることがあるんですぜ。何で『狂犬』のメルさんが知らないんですかい?」
「誰が狂犬だ! 私はエセル様たちの忠犬だって言っただろうが!」
「しかし、まぁ……あんなに可愛らしくて賢い犬が、そんな危険な動物だったとは……」
エセルは、ガラーシャ村で尻尾を振ってすり寄ってきた犬たちの温もりを思い出し、胸が痛んだ。あのような愛らしい生き物を、自らの手で殺めなければならないのか。
その心の迷いを察した八兵衛が、前を向いたまま静かに告げた。
「まぁ、ここからじゃまだ暗くてよく見えねぇですが……一目見りゃ、お嬢たちが可愛がっていた犬とは『全く違う生き物』だって分かりますよ。心苦しくなることなんざ、ありやせん。それに、あいつらがすでに瘴気に当てられた『魔物』だとしても、あの程度の数なら問題はねぇ」
「……だと、良いのですが」
「とにかく、絶対に噛まれないこと。近づかれる前に、一思いに魔法でやった方が身の為ってことですぜ」
「……かしこまりました」
エセルが複雑な思いを振り切り、覚悟を決めて杖を構えようとした、その時だった。
右隣に立っていた武虎の様子が、どうもおかしい。
ガチガチガチガチ……。
異常な音が聞こえる。見れば、武虎の口の端が痙攣し、歯の根が合わずに激しく鳴っている音だった。日に焼けた肌は完全に青ざめ、目には恐怖の涙が浮かんでいる。
「い……犬ーーーーーッ!!」
「えっ?」
「俺、犬、マジで怖えッ! 犬は、犬だけは俺、本当にダメなんですーーッ! すんません! 後は、お願いしますぅぅッ!!」
叫ぶや否や、武虎は脱兎のごとく跳び上がり、南の六方へ向かって一目散に駆け出していった。農作業で鍛え抜かれたその足は、凄まじい速度で土煙を上げている。
「えっ……逃げた?」
エセルが呆然と呟く。
「あーあ、知らねぇですよ。せっかくあっしらが倒すつもりだったのに。……ありゃ、奴らの狙いが変わりましたね」
八兵衛の言う通りだった。現れた五匹の野犬たちは、エセルたちには目もくれず、背を向けて猛然と走り去る武虎の背中を追って、凄まじい勢いで南へと駆け出していったのだ。
あっという間に、武虎と野犬の群れは夕闇の中へと消えてしまった。
「な、なんだアイツは……」
メルも拍子抜けしたように剣を下ろしかけたが、八兵衛の表情は硬いままだった。彼は、野犬たちが現れた森の奥、鬱蒼とした茂みの暗がりをじっと見つめている。
「……あの、狂犬どもは、こいつから逃げてきたってことですかねぇ」
ズズンッ……!
地響きのような重い音が、足元の土を揺らした。
森の木々が不自然にへし折れ、暗闇の中から『それ』が姿を現した。
「……嘘……」
エセルは、己の目を疑った。
それは、全長四メートルはあろうかという、常軌を逸した巨体。
形状は土竜に近い。しかし、その体は岩のように硬く変質した黒褐色の外殻に覆われ、地中を掘り進むための両腕の爪は、鋼鐵の刃のように鋭く、そして不気味に赤黒く変色していた。
視力を持たないはずの顔面には、瘴気に蝕まれた証である亀裂のような模様が走り、そこから紫色の不気味な光が漏れ出している。鼻先をヒクつかせ、エセルたちから漂う「生者」の匂いを的確に捉え、飢えた獣の咆哮を上げた。
「ギシャアアアアアアアアアッ!!」
その禍々しい姿と威圧感は、明らかに普通の生物の枠を逸脱している。五色列島の住人たちが噂していた「悪霊」や「妖怪」の正体。それこそが、瘴気によって悪鬼化した巨大な土竜の魔物だった。
「チッ……!」
メルが再び二振りの剣を抜き放ち、極限まで姿勢を低くして戦闘態勢をとる。
「八兵衛! お前の『愛弟子』はどうする! あの野犬どもに追われているんだ、加勢が必要じゃないか!」
「あっしは、弟子なんてとっちゃいねぇですよ! まぁ、武虎には一時ワンコ達を引き付けてもらいやしょうか。この化け物相手に、犬どもまで混戦になるとまずいかもしれねぇ」
薄情に聞こえるが、それが最も理にかなった戦術だった。
イマが、火蓋を切るように凛とした声を響かせる。
「おそらく、これが街で聞いた農場荒らしの魔物でしょう。皆様、用意はよろしいですね!」
「「「はいッ!」」」
「へえ!」
夕闇が世界を包み込む中、阿倭の国に巣食う真の怪異との、死闘の幕が切って落とされた。




