第22話 剣の基礎と、土下座の実践
星霊暦五〇四年一月二十六日、土曜日。朝。
騒々しい「正座・土下座教室」でひとしきり体力を消耗した(主にエセルとメルが)後、宿が用意した温かい朝食を平らげた一行は、ほっと一息ついていた。
白島の店々が開くまでは、まだ三時間ほどある。ならば、今後のための特訓場所を探そうということで、エセル、メル、そして八兵衛の三人は、腹ごなしの散歩へと出かけることになった。イマとハムサは、宿でゆっくりと旅の荷物の整理をしている。
潮風の匂いが漂う木造の町並みを抜け、町外れのなだらかな坂道を登りきると、目の前にはこれまでの港町とは全く異なる風景が広がっていた。
「わぁ……!」
エセルは思わず感嘆の声を漏らした。
山々に抱かれるようにして広がる開けた平野。そこには、山の斜面を這うように、まるで巨大な階段のごとく幾重にも重なった土の区画が作られていた。
ポツン、ポツンと立つ小さな木造の倉庫が、その風景に素朴な温かみを添えている。
「ガラーシャ村の畑とも違いますね。段々になっていて、とても変わった形の畑ですわ」
「ありゃあ、畑じゃなくて『田んぼ』でさぁ」
隣を歩く八兵衛が、目を細めて懐かしそうに答えた。
「今は時期じゃねえんで土が乾いて畑のように見えやすが、春から夏前にはあそこにたっぷりと水を張るんでさ。そうすりゃあ、水面が空を反射してキラキラ光って、畑と田んぼの違いが一目で分かるようになりやすぜ」
「へぇ……。その田んぼでは、何を作るのですか?」
「そりゃあもちろん、阿倭の主食である【米】ですぜ! 昨日の夜に食べた極上の冷酒の原料にもなる大事なもんでさぁ。だから、あっしら阿倭の人間は、農家の方々には全く頭が上がらねえんでさ」
「はー、なるほど! あの美味しい炊き込みご飯や、桃のような冷酒のお米ですか。それは確かに偉大ですね。私たちでいうところの主食のパンにあたる『麦』が見当たらないと思っていましたが」
「穀物や野菜にも、適した気候ってもんがありやすからね。この阿倭では一部の地域を除いて、米が一番育てやすいんでさぁ」
「農業も、気候風土に合わせた奥深いものなのですね」
エセルが感心しながら見事な幾何学模様を描く段々の田んぼを見回していると、ふと、少し離れた区画で動く人影を見つけた。
(……あれは)
見覚えのある藍色の野良着。頭に巻いた手ぬぐい。昨日、大根で後頭部を粉砕されていた若者――平武虎だった。
彼はガラーシャ村で見たような土を耕す魔法器ではなく、鉄の三つ又の鍬を振り下ろしながら、せっせと乾いた田んぼを耕している。
しかし、その動きは明らかに尋常ではなかった。
「うおおおおおおおおおッ!!」
凄まじい気合の叫び声を上げながら、目にも留まらぬ高速で鍬を振り下ろし、ザクザクと土を掘り返しては、猛烈なスピードで後退していく。まるで土を掘る魔物のようだ。
(……うん。今は、絶対に話しかけてはいけない時間なのだろう。そうに違いない)
エセルは王女としての優れた直感に従い、そっと視界から武虎を外そうとした。
しかし、横にいた八兵衛が余計な解説を始めてしまった。
「寒起こしっていうほど寒い土地じゃありやせんが、ありゃあ田んぼに水を張る前の大事な土作りの作業でさぁ。……さっ、奴に見つかる前に、もっと奥の静かな場所を探しやしょうか」
「おーい!! そこの異人さん方ーーッ!!」
八兵衛とエセルの切なる願いとは裏腹に、野獣のような聴覚と視覚を持つ武虎に、すでにバッチリと捕捉されていた。
彼は鍬を放り投げ、泥だらけの足でエセルたちめがけて猛然と走り始めている。
「うげッ! 言った直後に見つかりやしたか! 逃げやすよ!」
「えっ!? に、逃げるの!?」
「たぶん、めちゃくちゃ面倒くさそうなんで!」
「なぜ、私まで!」
言うが早いか、八兵衛は身を翻して駆け出した。
エセルとメルも、八兵衛に促されるまま、武虎から逃げるように広い本道から細い畦道へと走り込んだ。
「うおぉーい!! 何で逃げるんですかーーッ!!」
「逃げてるんじゃないんでさぁ! これは……特訓! 朝の足腰の特訓でさぁ!」
「特訓!? いいですね! 俺も参加しますよーーッ!」
「いや、あんたは畑の仕事があるんでしょうが!」
「畑の水やりはもう終わってて、今は手すきで寒起こしやってるだけなんで、全然大丈夫ですよ!」
「なら、さっさと寒起こしに戻ってくだせぇッ!!」
叫び合いながら、畦道と本道をジグザグに、ぐるぐると走り回る奇妙な追いかけっこが続いた。
しかし、いかに元・忍とはいえ、ここ数日の船旅でなまっていた八兵衛の体力が先に限界を迎えた。現役バリバリの農家の無尽蔵のスタミナには勝てず、最終的に武虎に余裕で追い抜かれ、八兵衛は膝に手をついて立ち止まった。
「ぜぇ……はぁ……はぁ……。あっしらについてこれるとは……じょ、上出来でさぁ。次の特訓があるんで、これ以上邪魔するんじゃありやせんぜ……」
「次の特訓ですか! 邪魔はしませんよ! 俺も参加させてください!」
「八兵衛……ちょっと、待って……少し、休憩を……」
「ぜぇ……かしこまりやした……はぁ」
エセルと八兵衛は肩で息をしていたが、日々の鍛錬を欠かさないメルと、農作業で鍛え抜かれた武虎は、一滴の汗もかかずに涼しい顔をしていた。
「はっ! 小僧、お前やるではないか。それに引き換え八兵衛、情けないぞ」
「いや……メルの姐さん……結構な距離、走り込みやしたけどね……」
八兵衛は乾いた唇を舐め、エセルを振り返った。
「ぜぇ……エセルのお嬢……魔法で、水を出せやせんか? 喉が渇いて……」
「いいですけれど……今は、鉄のお鍋やお塩がないですけど、大丈夫ですか?」
エセルは、かつてカタール砂丘でハムサから教わった「純水は体に良くないから、鉄器と塩を混ぜる」という教えを忠実に守り、気遣った。
しかし、今の八兵衛にはそんな贅沢を言っている余裕はなかった。
「……もう、水分さえ手に入れてもらえりゃあ……いいです。今は、四の五の言ってられねぇですぜ」
「……分かりました。お水よ」
エセルが手のひらを上に向けると、何の詠唱も魔法器もなく、空間から清らかな水球がふわりと生み出された。八兵衛はそれを両手で受け止め、貪るように喉を潤す。
その光景を見ていた武虎が、目を限界まで見開いて絶叫した。
「うおぉぉぉぉぉおッ!! すんげーーーーッ!! ナンスかそれ! 魔法器ってやつですか!? え、何も使ってない!? どういうことっすか!?」
八兵衛は「しまった」という顔をしたが、面倒事をちゃっちゃと収めるために、適当な嘘を交えて答えた。
「魔法っすよ、魔法。西の国じゃあ、魔法なんて当たり前なんですから、いちいち田舎者みたいに驚かないでくだせぇ。……さぁ、剣の特訓を始めやしょう。エセルのお嬢」
「魔法なんて当たり前!? すげーッ! すげーっすよ! 兄貴! お袋の弟さんってことは、やっぱり忍だったんですね! すげー! かっけー! てか、兄貴じゃなくて叔父貴っすね!」
「そこ、うるさいですぜ。剣の稽古の邪魔をするなら、とっとと帰ってくだせぇ」
「はい! すみません! 剣の稽古ですね! やります! さぁどうぞ、見学させていただきます!」
あまりにも物分かりが良いのか悪いのか、素直すぎる武虎のペースに完全に振り回されながらも、八兵衛はしぶしぶ剣の稽古を始めることにした。
◇
武虎に畑の隅から腕のない藁の案山子を二つ持ってきてもらい、それを標的にして打ち込み稽古が始まった。
エセルは木剣を構え、教わった通りに振り下ろす。しかし、ふと違和感を覚えた。
「八兵衛。足の位置って、右足が前であっていますか?」
「そうですよ」
「でも、剣を高く振りかぶって振るうなら、こう……左足を前にした方が、体重が乗って斬りやすくないですか?」
エセルが実際に左足を前に出して振り下ろしてみせると、八兵衛は感心したように頷いた。
「おっ、いい点に気が付きやしたね。今、お嬢が打ち込んだのは『上段の構え』って言うんですが、そのように高く振りかぶって一撃の威力を高める場合は、半身になって左足を前に出す流派もありやす」
すると、見学していたはずの武虎も別の角度から口を挟んだ。
「畑を耕す時は、右足が前の方が腰が回って楽だぜ。例えば、こうやって……ほい、ほいっと!」
「お前さんは、鍬の使い方がなってねぇ。鍬は刀のように頭上から振りかぶるもんじゃねぇだろ」
「なんですと!?」
そこへ、メルも騎士としての専門的なアドバイスを加えた。
「要は、剣の持ち方や装備によって、足の組み換えがあるというわけです。例えば、片手持ちで盾を持っているか、いないかで体勢は大きく変わりますからね」
そう言いながら、メルは左腕に仮想の盾を持っているような体勢で左足を前に出し、次に盾がない想定で剣を体の正面に据え、右腕・右足を前に突き出したような体勢を実演して見せた。
エセルは、様々な剣の持ち方や構えがあると知り納得したものの、逆に情報が多すぎて迷いが生じ、メルと同じような片手剣の構えを取ってみた。
そこで、八兵衛の的確な指導が入る。
「エセルのお嬢。剣にしろ斧にしろ、まずは『力を適切に入れる』『次の動作にすばやく移れる』『隙を作らない』という、基本動作が一番大切なんでさぁ」
「なるほど」
「そして、その基本動作の核になるのが、『腰を落とすこと』と『無駄な力を抜くこと』なんですが……こいつばかりは、頭で考えながら体が覚えるまで反復練習するしかねぇ。結局のところ、マターナのことはよく知りやせんが、魔法の練習も同じでさぁ。基礎のコツを掴んで、反復練習する。これがすべてですぜ」
「基礎の反復練習……」
「達人と呼ばれる連中でも、毎日基礎の反復練習をしてやすからね。そいよか、エセルのお嬢の今の武器は長めの剣で、お嬢自身にはまだ腕力がない。だから必然的に両手持ちが基本となりやす。両手持ちで一番安定して対応力が高いのは、やっぱり右足を前にした『中段の構え』ですね」
そう言いながら、八兵衛はエセルに正眼(中段)の構えを取らせた。
そして、八兵衛自身がエセルと対峙するように立ち、木剣を頭上に高く掲げる「上段の構え」を取った。
「あっしが今、こうして上段に構えていますが……中段に構えなおすと、どうです?」
「……剣先が私の目の前に向けられているので、なんだか怖いです」
「そういうことです。剣先を相手の喉元や目に向けていると、すでに目の前に壁があるのと同じで、相手は下手に飛び込めないんですぜ。もちろん、剣を掴まれたりいなされたりすることもありやすが、練習すりゃあそんな簡単には崩されねぇようになりやす」
あまりにも八兵衛の指導が、今朝の正座指導同様に見事すぎて、エセルは無意識のうちに背筋が伸び、自然と理にかなった中段の構えを取るようになっていた。
「いい姿勢ですぜ。そこから、まっすぐ腕を上げて、左足で地面を蹴る。前に進む勢いを剣に乗せるように振り下ろすんですが……ここが重要です。再びすぐに中段の姿勢に戻るために、腕の力だけで振り下ろすんじゃなく、腰を少し前に入れるようにして、ビタッと空中で振り下ろしを止める。そして、残心を残したまま、剣の体勢を崩さずに後ろに下がる。……と、こんな感じでさぁ」
八兵衛は解説しながら、ゆっくりと三度ほど手本を見せ、その後、素早い中段からの踏み込み打ちを藁の案山子に二度打ち込んだ。
パァンッ! パァンッ!
鋭い破裂音が響く。相手を牽制しつつ、最速で打ち込み、すぐに次の防御と攻撃に移れる姿勢に戻る。無駄のない、理想的な剣の動きだった。
エセルも八兵衛の打ち込みを脳裏に焼き付け、何度も何度も藁の案山子に向かって木剣を振り下ろした。体の理想的な動きというものは人それぞれ違うのだろうが、少しずつ、八兵衛が教える「中段の型の意味」が、頭ではなく体で理解できるようになってきた。
「これはあくまでも基礎中の基礎。そして、地面が平らで固いというのが条件でさぁ。この基礎の剣に慣れてきたら、次は揺れる船の上や、砂の上のような足場の悪い時の立ち回りと型に進みやすぜ」
八兵衛がそう締めくくると、隣でエセルの見よう見まねで鍬を素振りしていた武虎が、ボロボロと涙を流して感極まっていた。
「叔父貴ッ! 叔父貴はやっぱりすげーよ! 俺は、叔父貴についていくために天に導かれたとしか思えねえ! もう、一生ついてまいりやす! ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたしやすッ!!」
言うが早いか、武虎は素早く地面に膝をつき、両手の間に額を擦り付ける見事なまでの【土下座】を披露した。お尻が浮かない、完璧なフォルムだった。
「わぁ……この土下座、姿勢が美しくて見事なものですわね。なるほど、今朝教わったのは、こういう時に使うということなんですね」
エセルは純粋に感心して手を叩いていたが、その横で、当の八兵衛は悲鳴にも似た声を上げた。
「いや……俺は、そういう弟子を取るような役じゃありやせんって……。本当にもう、勘弁してくだせぇ……!」
叫ぶなり、八兵衛は素早く武虎の真正面に回り込み、自らもズザァァッと膝をついて完璧な【土下座】を繰り出した。
「お、叔父貴!?」
「お願いですから、あっしを面倒事に巻き込まないでくだせぇッ!」
乾いた田んぼのど真ん中で、野良着の青年と元・忍の男が、互いに額を地面に擦り付け合うという異様な光景が広がった。どちらも一歩も引かず、意地でも頭を上げようとしない。
その見事なまでの土下座合戦を見下ろしながら、エセルはふと、今朝の散歩の道中での会話を思い出した。
「八兵衛が『農家の方々には全く頭が上がらない』と言っていたのは、こういうことだったのですね」
見事な状況説明と掛詞。エセルは、なかなか知的な冗談を言えたと密かに自負した。
しかし、悲しいかな。隣に立つメルは不思議そうに首を傾げているだけで、その高度なユーモアには全く気づいてくれなかった。
「……? エセル様、どういう意味です?」
「……お嬢、全然違いますよ……」
メルへの説明を諦めたエセルと、土下座の姿勢のまま力なく突っ込む八兵衛の掠れた声だけが、白島ののどかな田んぼに虚しく響き渡った。




