第21話 白島の朝と畳の上の試練
星霊暦五〇四年一月二十六日、土曜日。朝。
チュン、チュン……。
窓の外から聞こえてくる長閑な鳥のさえずりで、エセルはふと目を覚ました。
波の揺れがない、どっしりとした大地。い草の甘く落ち着く香り。障子越しに差し込む柔らかな朝日が、見慣れぬ和室を淡く照らし出している。隣の布団では、母イマがまだ静かな寝息を立てていた。
長旅の疲れが癒えたのか、心身ともに驚くほど軽い。エセルは音を立てないようにそっと布団を抜け出し、羽織を羽織って隣の部屋へと通じる襖を静かに開けた。
「エセル様、おはようございます。今日はとてもお早いですが、いかがなされましたか?」
そこには、すでに身支度を整え終えたメルとハムサの姿があった。
「おはよう、ハムサ、メル。久しぶりに揺れないお布団で気持ちよく眠れたから、なんだか目が覚めちゃったの。そんなに早かったかしら?」
「ええ。宿の者が申すには、朝食の時間まではまだ二時間ほどあるとのこと。時刻としては、おそらく五時前ではないかと」
「まあ、そんなに早かったのね」
「お時間もございますし、温かいお茶をお出ししますね。宿の者に湯をもらってきます」
エセルとハムサが小声で会話している間、メルが部屋の隅にあった茶器を持ち、足早に部屋を出ていった。
メルが戻ってくるまでの間、エセルとハムサは部屋の中央に置かれた座布団の前に立ったが……そこで二人はぴたりと動きを止めた。
「あの、ハムサ」
「はい、エセル様。……私も、同じことを考えておりました」
椅子での生活が当たり前だった彼女たちにとって、「靴を脱いだ室内で、床にどう座るのが正解なのか」が全く分からなかったのだ。足を投げ出すのは品がない。かといって、あぐらをかくのも女性の作法としてどうなのか。
やがてお湯をもらって戻ってきたメルも、二人が立ったまま首を捻っているのを見て、同じように困惑顔になった。
エセルとハムサがとりあえず正解がわからぬまま座布団の上にちょこんと横座りをする中、メルだけが部屋の隅で直立不動の姿勢をとっている。
「どうしたの、メル。足でも痛いの?」
「いえ、足が痛いというより……座り方が分からなくて。椅子なら騎士として正しく座ることができるのですが、こういう靴を脱いだ状態の部屋では、どうにも落ち着かなくて」
「野営の時などは、普通に座っていたじゃない」
「外では気になりませんが、こういう格式のありそうな『ちゃんとした部屋』では、我々のような従者が取るべき『正しい座り方』があるのではないかと考えると……迂闊に腰を下ろせません」
「たしかにそうね。私もこの座り方で、エセル様やイマ様に失礼にあたらないかしらと悩んでおりました」
カナン王国の王女とその近衛兵たちが、阿倭の宿屋の一室で「座り方」という未知の難題に直面し、真剣に頭を悩ませていた。
「おはようございやす。皆さん、随分とお早いですねぇ」
そこへ、別の部屋で寝ていた空八兵衛が、欠伸を噛み殺しながら顔を出した。エセルたちの不自然な様子を見て、すぐに事態を察したらしい。
「ああ、なるほど。阿倭での『ちゃんとした場での座り方』ですね。それなら【正座】というものがありやすぜ」
「八兵衛、おはようございます。正座ですか。それはどのように座るのですか?」
「では、朝の腹ごなしに皆さんへ『正座の講座』といたしやしょうかね。ここでは座布団がありやすんでそれを使いますが、畳の上だったり地面だったりと、時と場合によってはその場で正座をするというのが阿倭での礼儀作法でさぁ。まぁ、大事な儀式や、お偉いさんが来た時に『気を付け』をするようなもんだと思ってくだせぇ」
エセル、メル、ハムサは、師匠たる八兵衛の方を向くように、それぞれ自分の前に座布団を並べた。
「まずは、その座布団の上に両膝をついてみてくだせぇ。ええ、そうです。そこから、立てている足のつま先を伸ばして、足の甲を床にぺたりとつけやす」
「なるほど、跪くような形から入るのか……」
「これ、鎧や具足をつけていると難しそうですね」
「次は足先です。後ろに回した両足の親指を、ほんの少しだけ重ね合わせてみてくだせぇ。そして、両方のかかとを軽く開いて『逆ハの字』を作りやす。そのかかとの隙間に、お尻をすっぽりと落とし込むように腰を下ろすんでさ。最後に肩の力を抜いて、背筋をまっすぐに。手は太ももの上に軽く添えて……はい、正座の完成でさぁ!」
言われた通りに姿勢を作った三人。最初は「なるほど、背筋が伸びて美しい姿勢だ」と感心していたものの、一分もしないうちに異変が起き始めた。
「……あ、足が。足が痛くなってきたのだけれど」
「ひ、膝が……それに足首が突っ張って、ひどく苦しい……!」
「ふふふ、最初はきついでしょうが、ちょっと我慢しやしょう。そのうち慣れやすよ」
「ぬぅ……八兵衛、貴様、余裕そうな顔をして……何かイカサマでもしているんじゃないか!」
メルが眉間にしわを寄せて睨みつけるが、八兵衛の正座は美しく凛としたもので、その顔は涼しげだった。
「あ、そうそう。ついでですから、お偉いさんと謁見する時の最大級の礼法もお教えしやしょう。この正座の姿勢から行う【土下座】という作法です」
「(……船の時の指導とは違って、今日の八兵衛はなんだか優しくないわ……)」
エセルは、慣れぬ正座で足首が痛んでくる中、無慈悲に次の講義へと進む八兵衛が少しだけ鬼教師のように見えてきた。
「騎士が王の御前で片膝をつき、深く頭を下げる作法がありやすね? ありゃあ、最も無防備な急所である『首の後ろ』をあえて相手に晒すことで、絶対的な服従や敬意、あるいは深い謝罪を示すと聞いていやすが、あってますかい?」
「う……うむ、そうだぞ。剣を預け、命を相手に委ねるという意味合いがある。それがどうした、早く続きを言え!」
「『土下座』も、根底にある精神はそれと全く同じなんです。ただ、それをさらに極端な形で行うというわけでさぁ」
八兵衛は、太ももに置いていた両手を、ゆっくりと前方の畳へと滑らせた。
「まず、両手を膝の少し前の床につきやす。この時、指先を少し内側に向けて、両手でゆるやかな『三角形』を作りやす。そして、背筋を伸ばしたまま、両手の間に自分の額をすりつけるように、上半身を深く、ゆっくりと前に倒すんでさ」
その洗練された動きに、メルとハムサが息を呑んだ。
「なるほど……。たしかに、これ以上ない最上の礼の作法に見えるな」
「八兵衛殿、意外と姿勢が良いから様になっていますね」
「何を感心してるんですか、今から皆さんもやるんですよ。さぁさぁ。あ、この時、お尻が浮き上がらないように、かかとに乗せたままにするのが美しく見せるコツですぜ」
「ぐぬぬ……!」
正座と土下座の師である八兵衛に向かって、エセルたちは言われた通りに上半身を伏せた。足がプルプルと震え、今すぐにお尻を上げたい、足を崩したいと思いながらも、騎士の矜持と王女の意地にかけて丁寧に行った。
い草の匂いが鼻先をくすぐる中、上から八兵衛の声が降ってくる。
「視界を完全に捨てて地面にひれ伏し、自らの命を完全に相手に委ねる。これが阿倭の『土下座』でさぁ。歴史的には、神仏や身分の高い方への絶対的な敬意、あるいは……命乞いや、取り返しのつかない謝罪をする際に用いられてるんで。阿倭で困った時は、まず土下座でさぁ」
エセルの足に、血流が詰まったようなジンジンとした感覚が広がり始めていた。限界が近い。
ついにメルが痺れを切らしたように訴えた。
「八兵衛! 土下座の講義はこれでおしまいだな!」
「うむ、苦しゅうないですぜ。おもてを上げていいですぜ」
「はーッ! やっと終わった!」
「八兵衛、エセル様に向かって何て偉そうな口をッ……!」
メルとエセルが勢いよく頭を上げ、そのまま立ち上がろうとした――まさにその瞬間だった。
せき止められていた血流が一気に解放され、二人の足に『ジィィィィンッ!』という凄まじい痺れの衝撃が走った。
「ぬおおおおおおッ!?」
「きゃあぁぁっ!?」
足の感覚が全くない。二人は畳の上に上手く立つことができず、まるで生まれたての小鹿のように崩れ落ち、無様に転がった。
「あ、足が……! 足がジンジンと……! 阿倭の人たちは、これが平気なのですか!?」
涙目で顔を上げると、いつの間にか崩してあぐらをかいている八兵衛と、何事もなかったかのようにすっきりと立ち上がっているハムサの姿があった。
「愉快、愉快でさぁ。しかし、ハムサの姐御はさすがですね。あっしよりも土下座が様になっていやしたよ」
「日々の鍛え方が違うのだよ、鍛え方が。……どれ、メル。そんなに足が痛いのなら、私が揉んでやろうか?」
メルは一瞬、「ありがとうございます」と言おうとした。しかし、ハムサの口元に浮かんだ「悪い笑み」を見て、騎士の直感が激しく警鐘を鳴らした。
今、この痺れた足に触れられるのは、絶対にマズイ。
「だ、大丈夫です! 触らないで! そっとしておいてください!」
「まぁまぁ、そんなに遠慮するな」
ハムサは容赦なく、倒れて悶えるメルの足先を指で『ツンッ』と突いた。
「ぎゃああああああああああああっ!!!」
雷に打たれたような悲鳴が、早朝の宿いっぱいに響き渡った。
「メル!? 何事ですか!? 敵襲ですか! 大丈夫ですか!?」
隣の部屋で寝ていたイマが、弾かれたように襖を開けて飛び出してきた。
しかし、彼女の目に飛び込んできたのは、涼しい顔でお茶をすする八兵衛とハムサ、そして畳の上で芋虫のように転がって苦しむエセルとメルの姿だった。
「……ハムサ、八兵衛。一体、何があったのですか?」
「イマ様、おはようございやす。なんてこたぁありやせん。阿倭の【土下座】の作法をお教えしたところで、二人とも見事に足が痺れてひっくり返っただけでさぁ」
「……ああ、なるほど! 土下座ですね」
状況を瞬時に、かつ完璧に理解したイマの顔に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「エセル、足は大丈夫?」
「ええ、お母さま。何ともありませんわ……って、お母さま?」
うふふふふ、と笑いながら、イマの指先がエセルの足の裏を『ツンッ』と突いた。
痛みとは全く違う、内部から爆発するような謎の衝撃がエセルの全身を駆け巡る。
「ひぃぃぃぃぃぃぃやあああああっ!!!」
その日の白島の住人たちの朝は、一番鶏や二番鶏の鳴き声ではなく、宿屋から響き渡ったエセルとメルの絶叫によって目を覚ますこととなった。




