第18話 強さへの渇望
星霊暦五〇四年一月二十三日、水曜日。朝。
阿倭列島へと向かう五色列島への航路。三日前の魔物襲撃という未曾有の危機を乗り越え、船は再び穏やかな波の上を進んでいた。
……しかし、船内の空気は、どこか奇妙な緊張感に包まれていた。
「いやいや、イマ様ご一行様。どうぞどうぞ、あなた方は大切なお客様ですから、どうか客室でおくつろぎくださいませ! お体に触りますよ!」
「船長、私たちは同じ船で旅をする仲間です。そこまでのお気遣いはいりませんわ」
甲板の隅で、船長とイマが押し問答を繰り広げていた。
三日前、イマが放った『海神共鳴』という超絶的な魔法を目の当たりにした船員たちは、この「謎の美女四人とパッとしない案内人の男」という一行が、ただの旅人や従者であるはずがないと完全に察していた。
船長は、借りてきた猫のように揉み手をしてイマにへりくだる。
「イマ様、とんでもない。我々はあなた方に命を救われた身です。おまけに魔物対策の魔法カンテラの配置までご教示いただき、何から何までお世話になりっぱなしでさぁ。これ以上、掃除や炊事の雑務まであなた方にやらせてしまっては、タハトン殿からの請求額が怖……いえ、罰が当たってしまいますよ!」
「いえいえ。私たちはこの船がなければ目的地にたどり着くことができません。皆様が毎日必死に汗を流して働いてらっしゃるのを見て、何もしないような心のない人間に、私はなりたくありませんの」
「私らは、絶対にイマ様たちを『偉そうなお貴族様』だとか、そんな風には思っておりませんって!」
「船長。私は、ハムサの従者である『イマ』ですよ」
「あっ……す、すみません」
船長は、イマのことを「訳あって身分を隠しているどこかの国の高貴なお方」と勝手に思い込んでいるため、この堂々巡りの会話は完全に迷宮入りしていた。
その間にも、設定上の「主人」であるはずのメルやハムサは、もくもくと船の雑務をこなしている。見かねた空八兵衛が、船長に助け舟を出すべくイマに小声で耳打ちした。
「イマ様、あんまり人を困らせるもんじゃありやせんぜ。まぁ、言っちゃあなんですが、もうあっしらは、船の皆さんから『とんでもねぇお貴族様』か何かだと思われてますぜ。一般人の方々にとっちゃあ、その親切がとんでもなく重圧に感じるんでさ」
「あらら……それは、船長さんに無用な負担をかけてしまったということですわね。船長様、本当にごめんなさい」
「ガフゥッ!」
誠心誠意の謝罪を受けた船長が、精神的重圧に耐えかねてその場に崩れ落ちた。
「船長ー!! ほら、イマ様、あんたはもうここでは謝らなくていいんでさ! たく、変なところで面倒く……いや、抜けてるお人だ!」
八兵衛が頭を抱えてぼやいた、その直後だった。
「空八兵衛。享年五十四歳。不敬罪にて処す……」
いつの間にか、鞘から剣を半分抜いたメルが、地を這うような低い声で八兵衛へと歩を進めていた。
その瞳には、冗談を許さない本気の殺気が宿っている。それを見た八兵衛は、船員たちと共に顔を引きつらせた。
「メ、メルの姐さん! そういうところですって! 冗談でも『処す』とか言っちゃあ、あっしらの金玉が縮み上がりやすって! ……てか、あっしはまだ三十三歳だ、そんな年増じゃねぇ!」
「うるさい! 冗談ではない、私は本気だ! 卑猥な言葉をイマ様やエセル様のお耳に入れよって……いっそ本当に縮み上がる前に、切り落として去勢してやろうか!」
「ひぃッ! やっぱり、自覚がないあんたが一番タチが悪いですって!」
「逃げるな八兵衛!」
股間を押さえて本気で逃げ惑う八兵衛。千載一遇の機会とばかりに喜々として追いかけるメル。
その光景を見守りながらも、なお仕事を手伝おうとウロウロするイマ。そして、そんな喧騒など存在しないかのように、淡々と昼食の仕込みを続けるハムサ。
そんな奇妙で平和な日常のやり取りを、エセルは甲板の端からぼんやりと見つめていた。その視線は母イマに向けられていたが、エセルの脳裏に浮かんでいたのは、今目の前にいる朗らかな母ではなく、三日前の戦闘直後の、痛々しい母の姿だった。
◇
【三日前・魔物襲撃の直後】
イマの魔法が海を割り、魔物の大群が一掃された直後。
静まり返った甲板で、船長はようやく我に返り、震える声で指示を飛ばした。
「そ、総員……勝鬨は後だ! まずは自船の傷を確かめるぞ!」
「船匠! 喫水線下の損傷と船底に溜まる水の量を見ろ! 浸水が先か、ポンプが勝つか、今すぐ報告せよ!」
「甲板長! メインマストの亀裂と索具の無事を確認しろ! 次の風を孕めるか知りたい!」
「船医は重傷者を甲板下へ運べ。……手が空いている者は医務室へ回れ!」
「各部門長は被害状況をまとめ、速やかに私のもとへ報告せよ。急げ!」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。
船員たちが慌ただしく動き出す中、被害状況は奇跡に近いほど軽微であることが判明しつつあった。イマの完璧な魔力制御と、メルの苛烈な防衛線の賜物だ。
「イマ様! ご無事ですか!?」
メルの切羽詰まった声に、エセルは弾かれたように母の方へ目を向けた。
先ほどまで神のごとき威厳を放っていたイマが、ハムサに抱え込まれるようにして甲板に崩れ落ちていたのだ。
「ハァッ……ハァッ……」
荒い呼吸。額には大粒の汗が浮かんでいる。
「少し、魔法を使っただけで……体が、言うことを聞かないなんて……」
「イマ様、今は喋らないでください。御身のことだけを労わってください。メル! 早く魔力回復薬を!」
「かしこまりました!」
メルが弾かれたように船室へと走る。エセルはメルとすれ違うようにして母へ駆け寄り、その手をとった。
「お母さま! 大丈夫ですか!?」
「心配……ないです、エセル。いつもの……ことです」
無理に作った笑顔。だが、握った母の手は氷のように冷たく、力が入っていなかった。
「……魔法装具のおかげで、体への負担は……そんなにないはずなのに。ちょっと、私の体調が悪かっただけよ……ごめんね、心配かけて」
「そんなことありません! お母さまの魔法はとても美しく、あまりにも強大でした! そのせいで体を悪くするのは仕方ありませんし、皆さまお母さまに助けられたのです! 謝る必要なんてございません!」
エセルは懸命に励ましながらも、動揺を隠せなかった。
ガラーシャ村にいた頃から、母の体が少しずつ弱っているようには感じていた。だが、今にも気絶しそうなほど衰弱した母を見るのは初めてだった。
すぐにメルが、小瓶を抱えて戻ってきた。中には、青がかった透き通った液体――ガラーシャ村の自宅で見たことがある魔力回復薬が入っていた。子供が飲むものではないと言われていたが、それがマターナなどの魔力枯渇によるショック症状を和らげる劇薬なのだと、エセルは今になって理解した。
「イマ様、お待たせしました。魔力回復薬です」
「ハァッ……ハッ……ありがとう、メル」
ハムサが小瓶を受け取り、イマの口元に丁寧に運ぶ。
薬を飲み下したイマの顔に、劇的な変化があったわけではない。しかし、エセルの目から見ても、母の中で暴れていた何かがスッと安定したのが分かった。呼吸の乱れが少しずつ落ち着いていく。
「ハムサ、ありがとう。少し……楽になったから、寝ますね」
「はい。ゆっくりお休みください」
ハムサの腕の中で、イマは糸が切れたように静かな寝息を立て始めた。
「おい! 八兵衛! イマ様を寝室へ運ぶぞ、手伝え!」
「へぇ! ……あっしは、どこを持てばいいんですかい? 足ですかい?」
「馬鹿者! 汚い手で直に触るんじゃない! 担架だ、担架を持ってこい!」
「あ……そういやしたね」
メルと八兵衛の慌ただしいやり取りを聞きながら、エセルもまた、鉛のように重くなった体を引きずり、イマと同じ寝室へと戻り、戦いの疲れから泥のような眠りに落ちたのだった。
◇
【現在・星霊暦五〇四年一月二十三日】
エセルは過去の記憶から現実へと意識を引き戻した。
船員たちに休むよう懇願されたイマは、今、邪魔にならない日陰の甲板に座り、海風に当たっていた。その横顔に寂しさはない。ただ、どこか遠い水平線を見つめ、波の音と風に癒されているようだった。
エセルは母の元へは行かず、まだじゃれ合っているメルと八兵衛の元へと歩み寄った。
「エセルのお嬢! 助かった、この狂犬殿を止めてくれやせんか!」
「八兵衛! いいから先っちょだけでいい、切らせろ!」
「どこの『先っちょ』ですかい!?」
エセルは二人の騒ぎを意にも介さず、静かに、しかしはっきりと言った。
「メル。八兵衛。私は、今すぐにでも強くなりたい」
その言葉の重みに、二人はピタリと動きを止めた。
「魔法でも、剣術でも、座学でもなんでもいい。すぐに私に特訓を課してください」
振り返ったエセルの顔を見て、メルも八兵衛も息を呑んだ。
そこには、焦りや悔しさもあっただろう。しかしそれ以上に、抑えきれない情熱と、為政者としての「確固たる決意」がにじみ出ていた。
「これまで私たちは、戦い、逃れることに必死で、勉学や修行に打ち込む時間がありませんでした。船の上でも皆で船を守る仕事に勤しんでいましたが……このままでは、私は脅威に立ち向かう力を得られぬまま、ただ皆の『荷物』になってしまいます」
三日前の戦い。剣で舞うメル、冷静なハムサ、そして全てを圧倒した母の魔法。
その中で、自分はただ震えているだけだった。その不甲斐なさに、エセルは限界を感じていた。
「私は、今からでも早く強くなりたい。これから先、カーヴォード王国への道のりはまだ長いでしょう。ただ移動するだけでは足りません。空いている時間は、必ず私の修行の時間に充てるようにしてください」
メルの表情が、ハッと引き締まった。彼女はその場に膝をつき、騎士として頭を垂れた。
「……私も、愚かでした。このような阿呆とじゃれ合っている時間など、もったいない。今一度、私めに命令をお下しくださいますでしょうか、エセル様」
「……そうですね。メル殿と遊ぶより、お嬢のお相手をする方が、あっしもワクワクしそうでさぁ」
八兵衛もまた、いつもの軽い口調の奥に、真剣な光を宿して応じた。
三人のやり取りを少し離れた場所から見ていた船長が、遠慮がちに声をかけてきた。
「訓練なら、船尾甲板を使ってくだせぇ。中央甲板じゃあ船員たちがせわしなく動いてるし、あそこなら普通の船員は作業することもねぇ。客人にはもってこいだ」
「お心遣い、痛み入ります」
「よ、よしてください。もうこれ以上、お礼を言われるのはこりごりなんでさぁ」
船長は照れ隠しのように逃げていった。
「さてと。船長もああ言ってくれましたし、さっそく始めやしょうか。……と言っても、あっしは文字を見ると船酔いが酷くなるタチなんで、お嬢たちの魔法の修行からしたらいかがですかい?」
「そうね。船の不安定な足場での剣術の鍛錬も良いと思うのだが……エセル様、いかがいたしますか?」
「両方したいので、うまく時間を区切ってできませんか?」
「でしたら、食事や着替えの時間を考慮して、先に魔法の修行、その後に剣の修行という順番にしましょうか」
「それでお願いいたします」
こうして、メルと八兵衛を師とした、エセルの特訓が始まった。
真剣に魔法の制御を試み、木剣を振るう少女の姿。そこには、一見しただけでも、自らを奮い立たせるような成長への渇望と、未来への希望が満ち溢れていた。
◇
日陰から、イマはその光景を静かに見つめていた。
我が子が自ら成長しようと行動を始めた。いや、本当はもっと早く行動したかったのだろう。だが、この過酷な逃避行の中で、そんな時間を作ってあげることができなかった。
祖国の滅亡から逃れ、エセルという希望を抱いてガラーシャ村まで来た。しかし、何もできず、ただエセルの成長を見守ることしかできなかった自分自身に、イマは不甲斐なさと焦りを感じていた。
だが今、娘の逞しい姿を見て、イマは勇気づけられていた。
(……私も、娘に負けていられないわね)
イマは自身を奮い立たせ、船長や船員たちを困らせないよう、ひっそりと船の厨房から道具を借りて、客室で「甘味の料理」作りに挑戦した。
そして昼食時。彼女が隠れて腕によりをかけ作り上げた自信作が、食堂のテーブルに振る舞われた。
「さあ皆様。長旅の疲れを癒していただこうと、私からささやかなデザートをご用意しましたわ」
イマが誇らしげにテーブルに置いたのは、見た目には美しい焼き菓子だった。こんがりと色づいた表面には木の実が散らされ、一見すると非常に美味しそうだ。
しかし、隣にいたハムサは目を閉じたまま、右手を額に当てて頭を抱えていた。
イマの料理の腕前が「計算不能」であるという事実は、覆しようがなかったのである。
「おお、こいつぁ美味そうだ!」
何も知らない船員の一人が、一番にそれに手を伸ばし、大きくかぶりついた。
サクッ、という軽快で良い音が響く。だが、その直後。船員の動きが、まるで時を止められたようにピタリと静止した。
(……ん? 味がない? サクッといったのに消えた? いや、ある)
噛んでも噛んでも、本来あるべき甘みも、塩気も、果実の酸味すらもあるはずなのに、一切感じられない。
ただ、口の中で粉っぽい「何か」がフワフワと、まるで空気のように存在を主張しないくせに、粘り強く口内にまとわりつき続けるという、極めて飲み込みにくい代物だったのだ。
(食べたくても食べにくい……。不味くもない……が、美味くもない……。話には聞いていやしたが、こいつぁ【霞】ですかね……?)
八兵衛も一口かじり、真顔のまま冷や汗を流していた。味があるようでないような、なんとも表現しがたい代物。
食堂が、モグモグ、モグモグ……と、一切の会話もなく静まり返る。
その異様な沈黙のが続かぬよう、メルだけが剣の柄にそっと手を添え、船員全員の顔色を殺気立って窺っていた。その瞳は雄弁に語っている。
『イマ様の料理に、文句があるわけではあるまいな?』
その無言の圧力に気づいた船長と船員たちは、雪崩を打ったように、慌てて口々に「当たり障りのない感想」をひたすらに並べ立て始めた。
「い、いやぁ! 上品な味わいで! 初めての食感! ハハ!」
「そ、そうですね! 素材の味ってやつが活きてます!」
「海の塩気に疲れた胃に、とってもフワフワ優しいですなぁ! ガ、ガハハハ!」
「陸の上の食べ物とは、不思議なものですね。これは新食感です」
「心に染みわたりますね!いやぁ嬉しいなぁ!」
ハムサは、食堂の隅で一人、皆に申し訳なさそうな顔をして深く俯いている。水先案内人のゲンサイに至っては、黙々と大量の水でその「霞」を胃に流し込んでいた。
食堂は、なんとも言えない異様な空気に包まれていた。
だが、そんなぎこちなくも必死な空間を見渡しながら、エセルはクスッと小さく吹き出した。
魔物に襲われ、死と隣り合わせの航海。それでも、こうして皆で同じテーブルを囲み、母の作った料理に一喜一憂している。
それは間違いなく平和な日常の一コマであり、エセルにとっては過酷な旅の中で忘れられない、不器用で、温かな船上の思い出となったのだった。




