第17話 海上の戦慄(五色列島への航路 後編)
「海鬼……? 八兵衛、磯餓鬼とは別物なのですか?」
エセルは、目の前に現れた異形の巨体に圧倒されながらも、無意識に問いを発していた。名前こそ似ているが、放たれる威圧感があまりにも違いすぎる。
八兵衛は、群がる磯餓鬼の一体に風の魔法護符を叩きつけ、爆風で弾き飛ばしながら答えた。
「お嬢、その違和感は正しいですぜ! あっしは魔物学者じゃありやせんが、磯の海鬼なんてなぁ、本物と比べりゃ可愛いもんでさぁ。筋肉の付き方も骨の太さも、ありゃあ名前以外は全く別種の怪物だと思った方がいい」
甲板の中央では、メルと海鬼が鋭い殺気を放ちながら対峙していた。
三メートル近い巨躯を誇る海鬼は、手にした珊瑚の三叉槍をゆらりと構え、メルの隙を伺っている。
「すぐにメルの援護に行かなければ!」
「落ち着いてくだせぇ!」
焦るエセルを八兵衛が制す。
「確かにあの海鬼は強敵ですが、正直、メルの姐さんの敵じゃねぇ。それより、雑魚とあしらっているこいつら磯餓鬼の方が今は厄介だ。船や船員たちが数で押し切られちまったら、それこそ全員まとめて海の藻屑でさぁ」
八兵衛の言葉は理に適っていた。だが、戦場に漂う血の匂いと魔物の咆哮、そして刻一刻と体力を削る極限状態が、エセルの心を焦燥で塗りつぶしていく。
「グギャァアアアアアーーーーーーッ!!!」
突如、海鬼が天を仰ぎ、空気が震えるほどの雄叫びを上げた。そのあまりに禍々しい声に、船員たちは一瞬すくみ上がり、エセルの意識も釘付けにされる。
だが、その隙を見逃すメルではなかった。
「チッ、癪に障る声ね!」
爆ぜるような炎の一閃。メルの二振りの刃が赤き軌跡を描き、海鬼の首を容赦なく撥ね飛ばした。
「メル、すごい! 一撃で……!」
「お嬢さん、まだですぜ!」
エセルの喜びを八兵衛の鋭い声が遮る。その直後、海鬼を仕留めたはずのメルの顔が険しく歪んだ。
「――っ、しまった! 仲間を呼ばれたわ! 全員、船の揺れに備えて!!」
「左舷前方、十時方向に大きな影が数体! くるぞ!!」
水先案内人のゲンサイが絶叫する。エセルが船首を十二時とした十時の方向――波立つ海面に目を向けると、そこには不自然なほど巨大な盛り上がりがあった。
怪物が海中を高速で突き進む際に生じる、殺意を孕んだうねり。
「全員、船にしがみつけーーーーッ!!」
船長の怒号が響き渡る。
「八兵衛! 姫様を頼む!」
「あいさ! お嬢、船内へ急ぎますよ! イマ様も早く!」
心拍数が跳ね上がる。何が起きているのか理解する間もなく、巨大な衝撃が船底を突き上げた。まるで目に見えない巨人が船を放り投げようとしたかのように、足元の床が猛烈な勢いで押し上げられる。
「きゃっ!?」
世界が大きく傾く。エセルは体勢を崩しながらも、船内に続く手すりへ必死にしがみついた。
「まずいですね……。こいつを何度も食らったら、本当に船が沈みやすぜ…うぅ」
八兵衛の船酔いの青ざめた顔からさらに余裕が消える。船内に閉じこもっていては戦況は好転しない。だが、外の嵐に飛び込むにはあまりにも非力。
エセルは、安全な場所などどこにもないのだと痛感した。
「メル……外にいるメルは無事なのですか!?」
「お嬢! 一人では危険ですぜ!」
八兵衛の弱った制止を振り切り、エセルは再び甲板へと這い出した。
船長が必死に船員の安否を確認する中、ゲンサイが着流しを脱ぎ捨てようと叫ぶ。
「私が出る! このままでは全員助からない。私が海中で奴らを引きつける間に、五色列島へ向かってくれ!」
「……しかし!」
船長が躊躇したその時。誰の声よりも大きく、激しいメルの叫びが戦場を支配した。
「全員、船内に隠れなさいッ!! 急げーーーーッ!!!!」
その声には、単なる警告ではない、明確な「王命」の伝達にも似た怒気と切迫感がこもっていた。
「船長! ゲンサイ殿! 外にいる者を全員退避させて! 巻き込まれるわよ!」
「巻き込まれるって、何のことだ!? さっきのうねり程度なら持ち堪えられる!」
「そうじゃない! 嵐よ! 嵐と爆発がくるわ! 多分ね!」
「は?」
「うるさい! いいから! 船員を全員中へ! これは絶対命令よ、やりなさいッ!!」
メルの気迫に押され、船長とゲンサイは反射的に「……は、はいッ!」と応じていた。もはや一介の従者ではない、圧倒的な武人の風格に気圧されたのだ。
「メル? どういうこと……?」
「お嬢、心配いりませんぜ。あっしは理解しましたよ」
八兵衛はエセルを船内の入り口まで引き戻すと、共に甲板の様子を窺った。そこには、剣を構え直すメルと、冷静に立ち振る舞うハムサの姿。
そして――白銀の光をその身に纏う、母イマがいた。
「メル、ハムサ。船員たちに傷一つつけてはなりませんよ」
イマの声が、戦場に響いた。
それは決して大きな声ではなかった。荒れ狂う波の音、魔物の叫び、船員たちの怒号。それらすべての騒音を掻き消すのではなく、まるで最初からそこには静寂しかなかったかのように、その場にいるすべての者の耳朶に、鮮やかに、真っ直ぐに届いた。
不思議な声だった。激しさは微塵もないのに、逆らうことなど到底不可能だと思わせる絶対的な「言葉」の重み。その一言だけで、甲板の混乱はぴたりと凪いだ。
「畏まりました、我が主」
「御心のままに」
メルとハムサが、魔物たちの前に立ち塞がる。その背中を確認したイマは、天に向けて優雅に手をかざし、そして断罪するように、その手を前へと下ろした。
「――『水華散嵐』」
無詠唱で放たれたその魔法は、もはや現象というより芸術だった。
空中に無数の、青く光る透明な花びらが舞う。それは優雅に揺らめきながらも、触れるものすべてを微細に、しかし確実に切り刻む。
甲板に群がっていた磯餓鬼たちが、悲鳴を上げる暇もなく青い花びらの嵐に呑み込まれ、霧散していく。
戦場だったはずの舞台は、一瞬にして幻想的な演劇のワンシーンへと変貌した。
だが、海の中のうねりは止まらない。再び船首の前方が大きく波打ち、海鬼たちの襲来を予感させる。
「旅に事故はつきものよ。でも力を出し渋って、守れるはずの民を失う後悔に比べれば、なんてことはないわ」
イマの唇が、静かに紡ぐ。
メルが再び、周囲を促すように腹の底から叫んだ。
「みんな! 聞こえていたら耳を塞いで! 爆裂がくるわよ!!」
エセルたちは反射的に両手で耳を強く塞いだ。イマが、水面に指先をそっと触れさせる。
「――『海神共鳴』」
次の瞬間、掌を突き抜けて脳髄を直接揺さぶるような、超高音と超重低音が混ざり合った「震え」が世界を支配した。
ギィィイイイイイイインッッッ!!!!
耳が潰れるかと思うほどの衝撃の後、船の周囲で海面が爆発した。
ドッパァアアアアアアンッッッ!!!
立ち上る水柱は天を突き、海鬼が作ったうねりなど児戯に思えるほどの巨大なエネルギー。海中に潜んでいた魔物たちは、その強烈な共鳴によって内臓を粉砕され、物言わぬ残骸となって次々と海面に打ち上げられた。
――そして、世界から音が消えた。
水柱が雨となって甲板に降り注ぐ音さえも、今のエセルには聞こえなかった。
先ほどまで死を覚悟した戦場だったことが嘘のように、海は不気味なほど静まり返っている。船長は、腰を抜かしたまま虚空を見つめ、ゲンサイは握っていた拳を解くことさえ忘れて固まっていた。八兵衛でさえも、冗談の一つも言えずに、ただただ立ち尽している。
皆、忘れていたのだ。自分たちが魔物の攻撃から解放されたことも、今この瞬間が安全であることも。
それほどまでに、目の前で起きた「奇跡のような魔法」は圧倒的で、そして、恐ろしかった。
(……お母さま?)
エセルは、呆然と母の背中を見つめた。
ガラーシャ村の祭りで、村人たちの輪に加わって楽しそうに笑い、お喋りに興じていた姿。ハムサやメルと肩を並べ、同じ皿の料理を分け合っていた賑やかな食事。そして、エフェスたち子供に混ざって、負ければ悔しがり勝てばはしゃぐ、あの無邪気なじゃんけん遊び。どこにでもいる「普通のお母さん」として過ごしていた、穏やかな日々の記憶。
けれど、今そこに立っているのは、たった一撃で海の魔物たちを「無」へと帰した、冷徹で気高い【女王】の真の姿だった。
畏怖。
初めて抱いたその感情が、エセルの小さな胸を支配していた。
誇らしさと同時に、自分の知らない世界の深淵を覗き見てしまったような、肌が粟立つような戦慄。魔物がいなくなった安堵よりも、母が振るった力の重圧に、エセルの魂は震えていた。
「……ちょっと、魔物に同情しちゃいますね。ハムサの姐御やメルの姐さんが仕えるお人なわけだ」
八兵衛が、掠れた声でようやく言葉を漏らした。船長は泣きそうな顔で、震える声で呟く。
「タハトン殿……もう少し詳しく教えてくださいよ……あんな恐ろしい方々に、俺、色々こき使わせちゃったじゃないですか……」
イマは、何事もなかったかのように光を収め、乱れた髪をそっと直した。
その横顔は、やはりいつもの優しい母のものに戻っていたが、エセルの目に映る世界の解像度、母に対する感情は、もう二度と同じには戻らなかった。




