第90話 査定額を上限として
治癒師が三人来て、ヴァインは死ななかった。
ただ、三日、起き上がれなかった。
――四十年分は、そういう量だった。
四日目の朝、俺は、組合の四階に上がった。
ヴァインは、寝台にいた。
部屋は、あの狭い執務室のままだった。
――寝台を、押し込んだだけだ。
「――ロイ様」
「――寝ててください」
「寝ております」
彼は、天井を見たまま言った。
「――決闘は、わたくしの勝ちでございました」
「――そうですね」
「【草むしり】、頂戴いたしました」
「――どうぞ」
「受け取って、すぐ返せと仰らないのですね」
「――言わないです」
俺は、椅子に座った。
「――あれ、賭け札です。賭けたものは、返してもらったら、賭けたことになりません」
◇
ヴァインは、少し笑った。
笑うと、咳が出るようだった。
「ご用件を、伺いましょう」
「――条文を、書きに来ました」
◇
彼は、天井を見たまま言った。
「――わたくしは、負けておりません」
「知ってます」
「書かせる権利は、ございませんな」
「――書かせないです。俺が、書きます」
ヴァインの目が、動いた。
初めて、こっちを見た。
◇
「優勝者は、規則を書けます。決闘に負けても、優勝は取り消されません。……フィナさんが、規則を三回読み直しました」
俺は、続けた。
「――書けます」
ヴァインは、しばらく、天井を見ていた。
「――……では、なぜ、六日も戦ったのでございますか」
「数字が、要ったからです」
俺は、そう言った。
「二万九千四百人の名前と、金額と、それと。四万一千二百枚の、査定額です」
◇
ヴァインの手が、動いた。
寝台の上で、指が、少しだけ曲がった。
「――【査定】を、お使いになると」
「――使ってほしいです」
「四万一千二百枚を、でございますか」
「はい」
「わたくしは、寝込んでおります」
「寝ながらでいいです」
◇
フィナが、部屋に入ってきた。
紙束を、三つ抱えていた。
「――ヴァイン様」
「お嬢様」
「――条文の案を、持ってまいりました」
◇
彼女は、紙を、寝台の脇に置いた。
ヴァインは、それを、横目で読んだ。
『会戦規則 第百二条』
『才牌は、いかなる契約においても、担保に供してはならない』
『第百一条により返還された才牌については、当該才牌の査定額を上限として、原債務をこれに充当し、消滅させるものとする』
『査定は、王都金貸し組合がこれを行い、王家立会所がこれを検める』
ヴァインは、三回読んだ。
それから、言った。
「――組合が、潰れますな」
「潰れますか」
「――潰れません」
彼は、あっさり訂正した。
「――担保の査定額を、四十年、高めに書いてまいりましたので」
「高めに?」
「――さようでございます」
彼は、天井を見た。
「担保の査定額が高いほど、多くお貸しできます。……貸した額が大きいほど、利息が増えます。四十年、そうしてまいりました」
◇
フィナが、息を呑んだ。
「――では、査定額の合計は」
「債務の総額を、上回ります」
俺は、その意味を、考えた。
「――帳消しになるってことですか」
「大半は」
彼は、言った。
「――わたくしが四十年かけて水増しした数字が、四十年分の借金を消します」
彼は、そこで、少しだけ、笑った。
「――皮肉でございますな」
◇
三日後、条文が施行された。
マーサおばさんの店に、組合の男が来た。
この前と、同じ男だった。
「マーサ・ハルグレン様」
「あたしだよ」
「――才牌【味見】、査定額――金貨四百三十枚」
「――借入残高、金貨四百二十枚」
彼は、帳面を閉じた。
「充当により、消滅いたしました」
◇
おばさんは、鍋をかき混ぜていた。
――手が、止まらなかった。
「――そうかい」
「――差額の金貨十枚は、後日、お支払いいたします」
「いらないよ」
「規則ですので」
「――じゃあ、もらっとくよ」
◇
男が出ていった後、おばさんは、しばらく鍋をかき混ぜていた。
それから、俺の方を見ずに、言った。
「ロイ」
「はい」
「――皿、割っていいよ」
◇
俺は、その日、四百四十二枚目を割った。
六日ぶりだった。
ガルド爺の店は、残った。
【鍛える】の査定額が、借金の三倍あった。
――爺さんは、その日、剣を三本打った。
孤児院も、残った。
院長先生の【慈育】の査定額が、金貨二百枚だった。
――借金は、百八十枚だった。
東門のセリネ婆ちゃんの店は、戻らなかった。
――もう、荷車で運ばれた後だった。
婆ちゃんは、籠一つで、花を売っていた。
俺が金貨三枚を渡そうとしたら、断られた。
「あんた、それしか持ってないんだろ」
「――持ってないです」
「なら、持っときな」
◇
その日の夕方。
俺は、下町の広場に立っていた。
――四千二百十九枚の石畳。
もう、数えなくてもいい石畳だ。
人が、まばらに歩いていた。
誰も、俺を見ていなかった。
――それが、少し嬉しかった。
その時。
広場の向こう側から、男が歩いてきた。
みすぼらしい格好だった。
外套は擦り切れて、靴の底が剥がれかけていた。
髪が、伸びていた。
肩が、荷担ぎの肩になっていた。
俺は、その顔を、知っていた。
◇
三か月前。
この石畳の上で、三十七の才能で、俺を殴った男だ。
「――アルディスさん」
彼は、俺の三歩手前で、止まった。
胸に、何もなかった。
――才牌が、一枚もなかった。
彼は、しばらく、俺を見ていた。
それから、言った。
「――もう一回、頼めますか」
◇
その夜、王都に、噂が流れた。
――今年の授才の儀で、才能を授からなかった子供が出た、と。
――一人ではない、と。




