第89話 一括
ヴァインは、石畳に、両膝をついていた。
――四十年、無傷だった男が。
「――立会人!」
俺は、叫んだ。
「――降参します! 決闘を、終わらせてください!」
◇
老人の立会人が、名簿を開いた。
「ロイ、降参。ヴァインの勝利とする」
彼は、鐘を鳴らした。
その音が、広場に響いた。
――同時に、ヴァインが、崩れた。
両手を、石畳についた。
「――ヴァインさん!」
俺は、駆け寄った。
ヴァインは、荒い息をしていた。
――顔が、灰色だった。
「――触るな」
彼は、初めて、丁寧語を使わなかった。
「何が起きてるんですか」
「――……」
「――フィナさん!」
◇
フィナが、闘技線を越えて走ってきた。
【看破】を使った。
――そして、両手で口を押さえた。
「四十年分です」
「え?」
「この人の代償が、全部、戻っています」
◇
彼女は、震える声で言った。
「【代償転嫁】は、代償を消す才能ではありません」
彼女は、言った。
「――移す才能です」
「――移した先は」
「――また、誰かに移します」
彼女は、あっさり言った。
「そのまた先が、また誰かに移します」
彼女は、ヴァインを見た。
「四十年、回っていただけです」
「回るのが、止まったんですか」
「止めたのは、あなたです。決闘中、この人の契約相手は、あなた一人でした」
彼女は、言った。
「あなたは、その契約を、一つずつ果たしました。石畳。水。門。落ち葉」
彼女は、俺を見た。
「果たした契約は、消えます。消えた契約には、代償を移せません」
「――最後の一つは」
「降参です」
彼女は、言った。
「決闘が終われば、決闘中の契約は、全部終わります」
彼女は、ヴァインを見た。
「――行き先が、一つもなくなりました」
「――誰も、代わりがいないんですか」
「――いません」
彼女は、あっさり言った。
「四十年分が、全部、本人に戻ります」
◇
俺は、その言葉を、聞いていた。
――行き先がない。
――回せない。
「――一括請求ですね」
◇
ヴァインが、石畳に手をついたまま、笑った。
初めて、声を出して笑った。
――笑って、咳き込んだ。
「――さようでございます」
彼は、そう言った。
「四十年、利息だけを、払ってまいりました。元金が、来ました」
◇
俺は、その背中を見ていた。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――一つ、聞いていいですか」
「――どうぞ」
「あの三倍の条項、本当だったんですか」
◇
ヴァインは、しばらく、答えなかった。
それから、顔を上げた。
「――いいえ」
「え」
「あれは、履行できない条項でございます。【契約】は、その場の二人しか縛れません。……第三者の債務を、契約で動かすことはできません」
彼は、荒い息のまま、微笑んだ。
「下町の三千二百人は、最初から、無関係でございました」
◇
俺は、その場に、座り込みそうになった。
「――嘘だったんですか」
「嘘ではございません。わたくしは、『三倍にいたします』と申しました。……できるとは、申しておりません」
彼は、言った。
「――……」
「あなたが、信じたのでございます」
俺は、六日間を、思い出した。
石畳を数えた八時間。
百十四回の井戸。
三往復の門。
二万枚の落ち葉。
「――ヴァインさん」
「はい」
「あれ、全部、無駄だったんですか」
ヴァインは、そこで、初めて、俺をまっすぐ見た。
――灰色の顔で。
「――いいえ」
彼は、言った。
「あれで、わたくしは、負けました」
彼は、石畳に手をついたまま、言った。
「わたくしは、あなたが、二日で降参すると思っておりました。三日目に、諦めると思っておりました。四日目に、殴ってくると思っておりました」
彼は、目を閉じた。
「――五日目に、こう思いました。……この方は、六日目も来る」
◇
彼は、そこで、初めて、声が揺れた。
「――四十年、そういう方に、会ったことがございません」
俺は、その前に、しゃがんだ。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――明日も、来ます」
彼は、しばらく、答えなかった。
それから、石畳に手をついたまま、頭を下げた。
「――……お待ちしております」




