第87話 履行
俺は、剣を下ろした。
――殴れない。
殴れば、この人はよろける。よろけるのは、動くことだ。
――三千二百人の借金が、三倍になる。
「――ロイ様」
ヴァインは、立ったまま言った。
「――お困りでしょうか」
「困ってます」
「――正直な方だ」
◇
彼は、少しだけ、頭を下げた。
「では、もう一つ、お願いを申し上げます」
彼は、そう言った。
「――この決闘のあいだ、あなたは、わたくしに触れないでください」
「――ロイさん、返事をしないで!」
フィナが、闘技線の外から叫んだ。
――間に合った。
俺は、口を閉じた。
ヴァインは、待った。
十秒。二十秒。
――それから、微笑んだ。
「沈黙は、承諾ではございません。ですが、沈黙している間は、あなたは何もできません」
◇
俺は、その場に立っていた。
石畳の上に。
――何もできなかった。
三百人が、見ていた。
誰も、声を出さなかった。
――決闘というより、立ち話に見えたと思う。
十分。
二十分。
――ヴァインは、動かなかった。
俺も、動かなかった。
◇
三十分過ぎたところで、フィナが、闘技線の縁から叫んだ。
「――ロイさん!!」
「はい!」
「――履行してください!」
「――りこう?」
「履行です!」
彼女は、紙束を掲げた。
「契約は、果たせば、消えます!」
◇
俺は、その言葉を、飲み込んだ。
「――消える」
「はい!」
彼女は、叫んだ。
「借金は、返せば消えます! 約束は、守れば終わります!」
彼女は、続けた。
「――契約は、破るか、果たすかの、二つしかありません!」
◇
俺は、ヴァインを見た。
ヴァインは、初めて、少しだけ、目を動かした。
「――ヴァインさん」
「はい」
「――さっきの契約、俺が果たせば、終わりますか」
◇
ヴァインは、答えなかった。
答えないまま、こう言った。
「あの条項は、わたくしが動かなければ終わりません」
「――じゃあ、動かないでください」
「――動きません」
「じゃあ、俺が待ちます」
◇
俺は、その場に、座った。
石畳に、あぐらをかいた。
広場が、ざわめいた。
「――座ったぞ」
「何やってんだ、あいつ」
「――予選の時もこうだったろ」
「――ロイ様」
ヴァインが、言った。
「決闘の制限時間は、ございません」
「――知ってます」
「才能決闘は、どちらかが降参するまで続きます」
「――知ってます」
◇
俺は、座ったまま、言った。
「――四十七分、待ったことがあります」
ヴァインは、しばらく、俺を見ていた。
それから、初めて、姿勢を変えた。
――変えたと言っても、指を組んだだけだ。
◇
「では、もう一つ。ロイ様。あなたは、この広場の石畳を、全部数えてくださいますか。数え終わるまで、わたくしは動きません」
俺は、少し考えた。
――これは、俺にもわかる言葉だった。
「――数えます」
「成立いたしました」
◇
俺は、数え始めた。
一。二。三。
――石畳を、指で押さえながら。
広場が、静まり返った。
それから、誰かが笑った。
「――数えてるぞ、本当に」
「――何時間かかるんだ、それ」
二時間経った頃には、誰も笑わなくなった。
三時間目に、ピノが、水を持ってきた。
「――ロイ兄、何枚?」
「――千二百六十四」
「――まだ、半分もいってないよ」
「――知ってる」
石畳は、四千二百十九枚あった。
数え終わったのは、その日の夜だった。
――八時間かかった。
「――四千二百十九です」
「――正解でございます」
ヴァインは、頭を下げた。
「履行を、確認いたしました」
その瞬間、俺の胸が、少しだけ軽くなった。
――何かが、消えた感じがした。
「フィナさん」
「はい」
「一つ、消えました」
「わかっています」
彼女は、紙束に、線を一本引いた。
「――あと、いくつありますか」
ヴァインは、微笑んだ。
夜の灯りの中で。
「――まだ、六日分ございます」




