第86話 一歩でも動いたら
会場は、下町の広場だった。
三か月前、王子と戦った場所だ。
――同じ石畳。
同じ場所に、同じくらいの人が集まっていた。
違ったのは、賭け札屋がいなかったことだ。
――誰も、賭けを取らなかった。
「――なんでですかね」
「――賭けが成立しないからです」
フィナが、言った。
「ロイさんに、九割が賭けます。……それでは、賭けになりません」
◇
俺は、その人だかりを見た。
三か月前、全員が王子に賭けた場所だ。
――今日は、全員が俺に賭けている。
――同じ人たちが。
「ロイさん」
「はい」
「気持ちよくないですね」
「よくないです」
◇
立会人が、中央に立った。
王都の決闘立会所の役人だ。老人だった。
「――賭け札の確認を行う」
彼は、名簿を開いた。
「――ヴァイン。才牌【契約】、一枚」
◇
ヴァインが、前に出た。
いつもの服だった。四階の部屋で見たのと、同じ。
彼は、才牌を一枚、立会人に見せた。
――【契約】。
「ロイ。才牌【草むしり】、一枚」
◇
広場が、ざわめいた。
「――草むしり?」
「――なんだそりゃ」
「【不撓不屈】じゃないのか!」
◇
立会人が、俺を見た。
「――ロイ殿。これで、よろしいか」
「はい」
「――相手方の【契約】と、釣り合わぬぞ」
「両者の合意により定める、と規則にあります」
フィナが、前に出て、そう言った。
「会戦規則、第六十四条。……賭け札の価値の均衡は、要件ではありません」
◇
立会人は、ヴァインを見た。
「――ヴァイン殿。異議は」
ヴァインは、少し笑った。
――嫌な笑い方ではなかった。
「――ございません」
彼は、あっさり言った。
「むしろ、光栄でございます」
「光栄?」
俺が聞くと、彼は頭を下げた。
「金貨十二万枚の札を賭けられていたら、わたくしは、勝ちに行かねばなりません」
彼は、そう言った。
「――金貨二枚の札でしたら、わたくしは、負けても構いません」
「――負けても、いいんですか」
「――構わない、と申し上げました」
彼は、微笑んだ。
「構わないことと、負けることは、別でございます」
◇
鐘が、鳴った。
俺は、剣を抜いた。
ガルド爺が三日で打った、軽い剣。
――ヴァインは、何も持っていなかった。
彼は、その場に立っていた。
両手を、下ろしたまま。
――一歩も、動かなかった。
「――ロイ様」
彼は、言った。
「――一つ、お伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「この決闘中、わたくしが一歩でも動いたら、下町の債務を三倍にいたします」
◇
俺は、その言葉の意味が、わからなかった。
「――……え?」
「――ご同意いただけますか」
「ロイさん!!」
フィナが、叫んだ。
「――答えないでください!」
◇
遅かった。
俺は、もう、口を開いていた。
――「え?」と言った。
――それだけだ。
ヴァインが、頭を下げた。
「成立いたしました」
「は?」
「――『え?』は、承諾ではございません。ですが、あなたは、意味を理解なさいました」
◇
俺は、剣を構えたまま、立っていた。
――体は、動いた。
動くのに、踏み込めなかった。
「【契約】は、双方が同じ意味で理解している語でのみ成立します。『一歩』『動く』『下町』『債務』『三倍』」
彼は、指を折った。
「――全部、あなたが知っている言葉でございます」
「――ロイさん!」
フィナが、闘技線の外から叫んだ。
「その契約、条件を確認してください!」
「――条件」
「――誰が動いたら、三倍になるんですか!」
俺は、思い出した。
――ヴァインは、こう言った。
――『わたくしが一歩でも動いたら』。
「あなたが、動いたら」
「――さようでございます」
ヴァインは、頷いた。
「わたくしが動けば、下町の債務が三倍になります」
「――……」
「――ですので、わたくしは、動きません」
彼は、両手を下ろしたまま、立っていた。
――一歩も、動かずに。
「ロイ様」
彼は、言った。
「――どうぞ、殴ってくださいませ」




