第85話 そのうち読める
決闘の朝、俺はまず、ガルド爺の店に寄った。
木箱を、抱えていた。
「――爺さん」
「なんだ、朝から」
「これ」
俺は、箱を、床几に置いた。
爺さんは、鎚を持ったまま、それを見た。
――しばらく、見ていた。
「――なんだ、これは」
「――才牌です」
「誰のだ」
◇
俺は、少し迷った。
――迷っても、言うしかなかった。
「――ガルド・オルグレンさんのです」
爺さんの手から、鎚が落ちた。
――床に転がった。
爺さんは、それを拾わなかった。
「――……親父の」
「はい」
「どこにあった」
「才市です」
「――……才市か」
彼は、そう言った。
「――そんなところに、おったのか」
「――百年、流れてたそうです」
「――近いな」
彼は、あっさり言った。
「歩いて、二十分だ」
◇
爺さんは、床几に座った。
座ってから、箱を開けた。
――黄ばんだ才牌が、一枚。
彼は、それを、手に取った。
両手で持った。
――小さかった。
六十七歳の男の手のひらの中で、その才牌は、ずいぶん小さく見えた。
◇
「銘が」
彼は、言った。
「読めん」
「削られてます」
「削られとる」
◇
彼は、指で、その削り跡をなぞった。
何度も、なぞった。
「――親父はな」
彼は、言った。
「――会戦から帰ってきた時、才牌がなかった」
「全部、取られたって聞きました」
「――そう言っとった」
彼は、そう言った。
「――嘘だったんだな」
「――一枚、持って帰ったんですね」
「持って帰った」
彼は、その札を見ていた。
「――そして、銘を削った」
「なんでですかね」
◇
爺さんは、答えなかった。
長いこと、答えなかった。
それから、言った。
「わしに、渡さんためだろう」
「え?」
「才牌は、譲渡できる。お前が、そう証明したろうが」
俺は、頷いた。
「――親父が生きとった頃、うちは貧乏でな」
爺さんは、言った。
「わしが十五で、才牌を三枚もらった時、親父は何も言わんかった」
彼は、その札を撫でた。
「――自分は、ゼロだと言っとった」
彼は、そこで、少し黙った。
「――授才の儀の日にな。わしの三枚を、並べて見とった」
「――なんて言ってました」
「――『上等だ』とだけな」
「でも、一枚あったんですね」
「あった」
「なんで、渡さなかったんですかね」
爺さんは、そこで、少しだけ笑った。
「――渡したら、わしが打つのをやめると思ったんだろう」
◇
俺は、その言葉を、聞いた。
「――親父はな、才能なしで、三十年打った。わしに、それを見せとった」
彼は、その札を、胸に当てた。
――何も、起きなかった。
光らなかった。沈まなかった。
――名前がないからだ。
「入らんな」
「――……はい」
「名前がないと、入らんのか」
「たぶん」
◇
爺さんは、それを、木箱に戻した。
蓋を閉めた。
――そして、棚の、いちばん上に置いた。
「――しまうんですか」
「しまう」
「読めるようにしないんですか」
「そのうち読める」
◇
彼は、あっさり言った。
「――なんで、そう思うんですか」
「――お前のが、読めたからだ」
俺は、胸元に触れた。
【不撓不屈】。
――五つの升目が、全部繋がっている。
「十五年かかりました」
「――そうだな」
「爺さんの、あと何年かかりますかね」
「――知らん」
彼は、鎚を拾った。
「――だが、わしは六十七だ。そう長くは待てん。急いでくれ」
◇
俺は、笑った。
「急ぎます」
「――今日、決闘だろうが」
「はい」
「――勝てるか」
◇
俺は、少し考えた。
「――わからないです」
「そうか」
爺さんは、炉に鉄を入れた。
「――なら、行け」
◇
俺は、店を出た。
出るときに、後ろから声がした。
「――坊主」
「はい」
「四百四十二枚目は、まだ割っとらんのか」
「まだです」
「そうか」
爺さんは、鎚を振り下ろした。
「――今日、割ってこい」




