第84話 切らしたことがない
クロトは、木箱を、俺の前に押した。
「――持っていけ」
「いいんですか」
「――約束だ」
彼は、あっさり言った。
「それと、捨て札を一枚だな」
◇
彼は、赤い布の上から、一枚を取った。
銘は、【剣聖】と書いてあった。
「――これは、元は【草むしり】だ」
彼は、そう言って、俺に渡した。
「――銘を、戻しておくか?」
「戻してください」
「ほう」
「――嘘の名前で、賭けたくないです」
◇
クロトは、その札を、指で撫でた。
――光った。
【剣聖】の文字が、崩れて、別の形になった。
【草むしり】。
「――【草むしり】だ。これで、あの狸と決闘するのか」
彼は、言った。
「します」
「――笑われるぞ」
「――慣れてます」
◇
クロトは、少し笑った。
目だけで。
「優勝者殿」
「はい」
「――一つ、教えてやる」
「――どうぞ」
「あの狸の【代償転嫁】な。移す先が要る。知ってます。誰から聞いた。フィナさんです」
彼は、言った。
「そうか」
彼は、フィナを見た。
「――なら、続きを教える」
◇
彼は、赤い布を、指で叩いた。
「四十年、あの男を見てきた。契約者を、一度も切らしたことがない。九千件が最低だって、フィナさんが言ってました」
彼は、言った。
「――そうだ」
彼は、頷いた。
「――だが、それは、記録に残っている契約の話だ」
◇
フィナが、顔を上げた。
「記録に残らない契約が、あるということですか」
「ある」
クロトは、言った。
「【契約】は、口頭で成立する。……紙は、要らん」
「――つまり」
「あの狸は、歩きながら契約している。宿の主人に『明日また来る』と言う。それも契約だ」
彼は、指を折った。
「馬車の御者に『三十分待て』と言う。それも契約だ」
彼は、目を細めた。
「――一日に、何百件も結んでいる」
◇
俺は、その意味を、考えた。
「全部に、代償を移せるんですか」
「移せる」
彼は、言った。
「一件につき、ほんの少しずつだ。……宿の主人が、翌朝、少し腰が痛い。それだけだ。四十年、それを続けてきた」
◇
フィナが、紙束を開いた。
書きながら、言った。
「――決闘中は、外部との契約は効力を停止します」
「――そうだ」
「ですので、決闘中に発生した代償は、ロイさん一人に集まります」
「――そうだ」
◇
クロトは、そこで、俺を見た。
「――優勝者殿」
「はい」
「――あんた、四十七分待ったな」
「――待ちました」
「あの狸は、四十年待った。あの男が四十年で移した代償の総量を、俺は知らん」
彼は、続けた。
「だが、四十年、一度も痛い目に遭っていない人間が、どういうものかは知っている」
「どういうものですか」
クロトは、木箱を指した。
「――痛みを、知らん。痛みを知らん人間は、強い。……迷わんからだ」
彼は、目を細めた。
「――だが、一発でも入れば、そこで終わる」
俺は、その言葉を、聞いていた。
「クロトさん」
「なんだ」
「なんで、教えてくれるんですか」
クロトは、赤い布を、たたみ始めた。
「――十年前、うちの組合仲間が、鍛冶屋の才牌を担保に取った。取ったのは、俺だ」
◇
俺は、顔を上げた。
「――ガルド爺の」
「そうだ」
彼は、布をたたみながら言った。
「娘の嫁入りの金が要ると言われてな。……金貨八十枚を貸して、【鍛える】を預かった」
彼は、手を止めた。
「その札を、狸の組合に、金貨百二十枚で転売した」
「――……」
「四十枚の儲けだ。その四十枚で、俺は、この店の灯りを六つに増やした」
◇
彼は、たたんだ布を、脇に置いた。
「――七日前に、その札が、鍛冶屋に返ったと聞いた」
彼は、俺を見た。
「――百年、返らんかったものが、返ったと聞いた」
彼は、木箱を、俺の方に、もう一度押した。
「優勝者殿」
「はい」
「――その箱、鍛冶屋に持っていけ。俺が持っていくと、殴られる」




