第80話 削り跡
「――ただ、っていうのは」
「言葉の通りだ」
クロトは、言った。
「捨て札を一枚、ただでやる。……条件を、一つ飲めばな」
「条件は」
「あとで言う」
「先に言ってください」
「先に言うと、断られる」
「――断られる条件なんですか」
「――断られん条件なら、先に言う」
彼は、あっさり言った。
◇
フィナが、前に出た。
「――お断りします」
「――お嬢さん」
「条件を明示しない取引は、成立しません」
彼女は、はっきり言った。
「鑑定士協会の規約、第三条です」
◇
クロトは、目だけで笑った。
「協会の規約は、ここでは効かん」
「私に効きます」
彼女は、そう言った。
声が、震えていなかった。
――三年前と、違ったんだと思う。
クロトは、しばらく彼女を見ていた。
それから、頷いた。
「いいだろう」
彼は、手を横に振った。
「その前に、もう一つ、見せたいものがある」
◇
彼は、机の下から、木の箱を出した。
――古い箱だった。
角が、丸くなっている。
――何度も、手で撫でられた角だ。
蓋を開けた。
――蝶番が、鳴らなかった。
中に、才牌が一枚。
俺は、それを見た。
――他の九十九枚と、色が違った。
白くなかった。灰色でもなかった。
――黄ばんでいた。
「古いですね」
「――古い」
クロトは、言った。
「――百年、この市を流れている」
◇
フィナが、身を乗り出した。
「見せてください」
「――触るな」
「見るだけです」
「それが、いちばん高い」
◇
彼女は、それでも見た。
【看破】を使っているのが、わかった。
目が、動かなくなる。瞬きが減る。
――そういう顔になる。
十秒くらい、彼女は動かなかった。
それから、言った。
「銘が、【削る】と読めます」
「――そう読める」
「ですが、違います」
クロトの目が、動いた。
「――ほう」
「――これは、【削る】という銘ではありません。削られた跡が、【削る】に見えているだけです」
◇
俺は、その才牌を見た。
――言われてみると、変だった。
文字が、掘ってあるんじゃない。
文字だったものが、えぐられている。
「百年、誰もそれを言わんかった」
クロトは、言った。
「三十人の鑑定士が見た。全員、【削る】と書いた」
彼は、フィナを見た。
「――三年で、目が変わったな、お嬢さん」
◇
フィナは、答えなかった。
その代わり、こう言った。
「この削り跡、内側からです」
「――内側?」
「はい」
彼女は、指で空中をなぞった。
「才牌の銘は、表面に刻まれています。……削るなら、上からです。ですが、この傷は、中心から外に向かって入っています」
彼女は、言った。
「――外からは、こう入りません」
「――入らないんですか」
「入りません」
彼女は、あっさり言った。
「――胸に沈んでいる間しか、内側には触れません」
「――それって」
「――持ち主が、自分の胸から出して、自分で削った、ということです」
◇
俺は、その言葉を、聞いていた。
――自分で。
自分の才能の名前を、自分で削る。
「クロトさん」
「なんだ」
「これ、誰のですか」
◇
クロトは、少しだけ、間を置いた。
「――百年前の男だ。百才会戦に出た。……最後まで残って、才牌を全部奪われて、帰ってきた」
彼は、木箱を撫でた。
「名を、ガルド・オルグレンという」
俺は、動けなかった。
――ガルド。
――オルグレン。
「――クロトさん」
「なんだ」
「その人の、息子は」
「――下町で鍛冶屋をしている」
彼は、あっさり言った。
「六十七歳。名前は、親父と同じガルドだ」
彼は、俺を見た。
「――十年前に、うちの組合仲間に、才牌を一枚預けている」
◇
俺は、その箱を見ていた。
――百年、この市を流れていた。
――息子の店から、歩いて二十分の場所を。
「なんで」
俺は、聞いた。
「――なんで、返さなかったんですか」
クロトは、木箱の蓋を閉じた。
「――誰も、聞きに来なかったからだ」
彼は、その箱を、机の下に戻した。
「百年、そこに置いてある」
彼は、あっさり言った。
「――場所は、変えとらん」




