第8話 塗り潰された名前
「塗り潰されてる……?」
俺は自分の才牌を見下ろした。
黒い五文字。十五の年から毎日見てきた、見慣れた黒。壊れ物の証だと思っていた黒。
「たとえばですけど」
フィナは帳簿の裏紙に、ペンですらすらと字を書いた。『フィナ』。それから、その上をインクでぐりぐりと塗り潰した。
「これ、字が『壊れてる』ように見えます?」
「……いや。『隠されてる』ように見えます」
「そうなんです。欠けてるのと、覆われてるのは、全然違う。私の【看破】が視たのは後者です。あなたの才牌の黒は、文字の欠損じゃなくて――黒く塗った、何かの層。名前の上に、蓋がしてある」
「蓋……誰が、そんなこと」
「わかりません。でも、才牌に名前を刻めるのは、この世界でただ一人……というか、ただ一柱です」
神様、ということになる。
書いた本人が、わざわざ黒く塗って寄越した。……なんだそれ。書き損じなら、まだわかる。でも、ちゃんと書いた名前を隠して渡すって、どういうことだ。
「……理由はわかりません。でも、ロイさん。これだけは言えます」
フィナは、まっすぐ俺を見た。
「あなたは『名前を書いてもらえなかった人』じゃない。『名前を読ませてもらえてない人』です。……全然、違いますよ。これは」
その言葉が、胸のどこに刺さったのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、十五年分の何かが、少しだけ軽くなった音がした。
「……読めますか、それ」
「うっ。……そこなんですけど」
フィナは、しゅんと縮んだ。
「無理でした。今の私の出力じゃ、蓋の『下に何かある』のがわかるだけで、めくれない。師匠なら……いえ、正直、師匠でも無理だと思います。この蓋、才牌の銘と同じ深さで刻まれてるんです。つまり、蓋も神様の仕事なんです」
「なるほど……」
「あの! でも! 一個だけ、変なことがあって」
フィナは再び眼鏡をかけ、才牌の一文字目を指した。
「五文字のうち、ここ。一文字目だけ、蓋が……薄いんです。ほんのわずかですけど、他の四文字より確実に薄い。まるで――」
「まるで?」
「……剥がれかけてる、みたいに」
沈黙が落ちた。
剥がれかけてる。つまり、この蓋は永久に閉じたものじゃなくて、何かの拍子に、開く。
「何をしたら剥がれるのかは、わかりません。視えませんでした。ごめんなさい」
「いや……いやいやいや、謝ることないです。すごいですよ」
俺は思わず身を乗り出した。
「十五年で初めてなんです。この牌を見て『壊れてる』以外のことを言った人。フィナさんが初めてです」
「……っ」
フィナは、変な顔をした。笑いかけて、失敗したみたいな顔だった。
「……信じるんですか。雨漏り見習いの見立てを。師匠にも言われるんですよ。『お前の看破は当てにならん、黙って型通りの鑑定書だけ書いてろ』って。今の話をしても、王都中の鑑定士が鼻で笑うと思いますけど」
「フィナさんは、視えたんですよね」
「視えました。……視えたと、思います」
「じゃあ信じます」
「なんでですか!」
「俺、『何をやってもダメ』って千回言われてきたんですけど、それでも自分の手足のことは自分が一番知ってるんです。ダメでも、サボったことは一度もないって。……それと同じじゃないですか? フィナさんの目のことは、フィナさんが一番知ってる」
フィナは黙った。
長いこと黙って、眼鏡を外して、目のあたりを袖でぐいっとやった。
「……鑑定書、書きます」
彼女はペンを取った。
「型通りには、書きません。『銘、判読不能。ただし銘の実在を確認。被覆による判読不能と認む』――私の名前で、そう書きます。見習いの判なんて誰も重く見ないでしょうけど、嘘は書きたくないので」
「ありがとうございます」
「それと、ロイさん」
ペンを走らせながら、フィナは早口で言った。
「決闘まで、あと八日ですよね。私、王子様の三十七の才能、公開情報なら全部追えます。鑑定士の家系の端くれなので、過去の御前試合の記録の読み方も知ってます。だから、その」
顔を上げた彼女の眼鏡が、きらんと光った。
「――あなたの決闘、私に解析させてくれませんか」




